Saturday, February 01, 2020

ヘイト・スピーチ研究文献(145)「誰がネットで排外主義者になるのか」という問い


杉田俊介・櫻井信栄編『対抗言論』1号(法政大学出版局)

http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-61611-2.html



<私たちはいま、ヘイトの時代を生きている。外国人・移民に対するレイシズム、歴史の改竄、性差別、障害者・生活保護受給者・非正規労働者への差別などが複雑に絡み合い、すべてが「自己責任」で揉み消されてゆく殺伐たる社会で、私たちはどうすれば隣人への優しさや知性を取り戻せるのか。分断統治をこえて、一人ひとりが自己解放の言葉をつむぐ努力の一歩として、この雑誌は始まる。年1号刊行予定。>



批評家と日本文学研究者・韓国語翻訳者の1970年代半ば生まれの2人の編集。1940年代、50年代、60年代、80年代、そして90年代生まれを含む、20数名の執筆者による「反ヘイトのための交差路」。いずれも人文系の執筆者と言ってよい。つまり一言で言えば、文学の責任における反ヘイトの言論である。1号のテーマは「ヘイトの時代に対抗する」。3部構成から成る。

1は「日本のマジョリティはいかにしてヘイトに向き合えるのか」

2は「歴史認識とヘイト――排外主義なき日本は可能か」

3は「移民・難民女性╱LGBT――共に在ることの可能性」



倉橋耕平「<われわれ>のハザードマップを更新する――誰が『誰がネットで排外主義者になるのか』と問うのか」

「誰がネットで排外主義者になるのか」という問いを受けた時に、この問いはなぜ必要なのだろうかと考える、『歴史修正主義とサブカルチャー』(青弓社、2018年)の著者・倉橋は、「この問いをいままさに共有しようとしている<われわれ>の側のハザードマップ(被害予測地図)自体がアップデート(更新)されていないのではないか」と問い返す。それがサブタイトルの理由である。最初は趣旨を読み取りにくかったが、最後まで読んで冒頭に立ち返ると、倉橋の言いたいことはよくわかる。

倉橋は、「誰がネットで排外主義者になるのか」について、『ネット右翼とは何か』(青弓社、2019年)の永吉希久子の論文等に依拠してネット右翼に関する考察を示す。

そして次に、「左右の極性化と言語の分離」を論じる。あいちトリエンナーレ2019における「表現の不自由展・その後」事件に際して、天皇や日本人に対するヘイトを語る言説のようなとんでもない「誤用」を一例として、「もはや同じ言葉を使っていたとしても、その言語が通じない状況になっているのではないか」と問う。

ヘイトにしても、保守革新にしても、差別や、表現の自由にしても、「文脈を断絶し、重視しなくともコミュニケーションがとれるインターネットという技術環境は、まさにこうした言説政治の節合と脱節合が繰り返される闘争の場となっている。しかし、だとすればもはや対話は不可能であるという認識から『対抗言論』のアイデアを練らなければならないのではないだろうか」と言う。倉橋の「結論」はこうだ。

「言説政治の実践として対抗するための参照軸を見つめ直すことが必要なのではないか。それを大きな言葉で言えば、『対抗するとはなにか』の再構成ということになるだろう。『彼ら』は、あやふやな言葉を用いて攻撃をしかけてくる。ときに、それは『革新』の姿をまとって。『攻守の逆転』が起こっている。今<われわれ>は何かを守らざるを得ない。それは『保守』的に映るかもしれないが、その守らざるを得ない何かにたいするハザードマップをアップデートしなければならない。その次に方法を更新しなければならないだろう。それが『対抗するとはなにか』という疑問へのヒントにつながるかもしれない。」



倉橋はネット右翼について語っているが、同時にアベシンゾーについて語っていることになるだろう。「ヘイトの時代に対抗する」というテーマは、アベシンゾー化した時代にいかに対抗するか、アベシンゾー化しつつある<われわれ>自身にいかに歯止めをかけるかというテーマである。憂鬱な問い、ではある。