Saturday, February 22, 2020

拉致問題を切り捨てた日本政府


『月刊マスコミ市民』2019年7月号掲載



拡散する精神/委縮する表現(100)

拉致問題を切り捨てた日本政府



強制失踪委員会



 安倍晋三首相は拉致問題の解決に向けて取り組んできた、ということになっている。本年五月一九日の拉致被害者家族会や「救う会」などが都内で開いた国民大集会に出席し、「拉致問題は安倍政権の最重要課題」と強調したのは周知のことである。

 ところがトランプ・金正恩会談の進展につれて徐々に姿勢を変えてきた。「対話は意味がない。制裁あるのみ」という基本姿勢から「前提条件なしで話し合う」に変化したことはさまざまな推測を呼ぶことになった。

 実は安倍政権は昨年一一月にジュネーヴの国連人権高等弁務官事務所で開催された強制失踪委員会の場で、拉致問題を切り捨てる方針を表明した。「前提条件なしで話し合う」に変化したことと因果関係があるかどうかは不明だが、強制失踪委員会で何があったのか。政権は語らないし、マスコミも報じない。筆者は当時の強制失踪委員会の審議を傍聴していないので、限られた資料と、本年三月にジュネーヴに滞在した際の関係者からの聞き取りに基づいて判明した範囲で事の次第を報告したい。

 二〇〇六年一二月、国連総会において強制失踪条約が採択された。国の機関等が人の自由をはく奪する行為であって、失踪者の所在等の事実を隠蔽することを伴い、かつ、法の保護の外に置くことを「強制失踪」と定義し、「強制失踪」の犯罪化及び処罰を確保するための法的枠組み等について定めている。条約第二六条に基づいて強制失踪委員会が設置された。条約当事国は条約第二九上に基づいて報告書を提出し、委員会で審議の結果、勧告等が出される。日本政府は今回初めて報告書を提出し、昨年一一月五~六日、委員会審査に臨んだ。

 日本政府報告書は冒頭から朝鮮民主主義人民共和国による日本人拉致問題を取り上げ、詳しく報告した。事前にメディアや関係者にも繰り返しレクチャーし、拉致問題に力を入れているとアピールした。

 ところが思いがけない事態になった。強制失踪委員会は拉致問題を取り上げなかったのだ。それに代えて委員会が質問したのは日本軍「慰安婦」問題であった。NGOから提出された報告書はいずれも「慰安婦」問題を報告していたからである。



苦渋の選択?



 一一月五日、一日目の審査直後、日本代表団はパニック状態だったらしい。人権人道大使の目はうつろになっていたという。翌六日、二日目の審査までに、日本政府は対応を決しなければならない。というのも、日本政府は「慰安婦」問題は条約締結以前の問題だから、委員会が取り上げるべきではない」と繰り返してきた。この主張によれば、拉致問題も条約締結以前の問題だから、委員会が取り上げてはならないことになる。

 拉致問題が取り上げられると安直に信じ込み、メディアに宣伝してきた日本政府は窮地に追い込まれた。「慰安婦」問題か、拉致問題か、予想外の二者択一を迫られた。

 大使レベルで判断できる問題ではない。現地の五日夜から六日未明にかけて、日本代表団は必死の思いで東京に連絡を取ったことだろう。ことは外務大臣でも即断できない。当然のことながら官邸の判断だ。時間は限られている。筆者はこの間の事情をつまびらかにしていない。推測するのみだが、安倍首相の判断で、「慰安婦」問題を優先したのだろう。

 委員会で、日本政府は改めて「条約締結以前の問題を委員会は取り上げるべきでない」と主張した。拉致問題を取り上げるな、という驚愕のメッセージになる。大使の手は震えていたという。

 一一月一九日、委員会から「慰安婦」問題の解決を求める勧告が出されたのに対して、一一月三〇日、日本政府は「強制失踪条約は本条約が発効する以前に生じた問題に対して遡って適用されないため,慰安婦問題を本条約の実施状況に係る審査において取り上げることは不適切です」「国連に求められる不偏性を欠き,誠実に条約を実施し審査に臨んでいる締約国に対し非常に不公平なやり方といわざるを得ません」と、猛烈な抗議の手紙を出した。

 ここまで来ると後戻りはできないだろう。安倍政権は拉致問題を切り捨ててでも、「慰安婦」問題に関する国際的要請をはねつけることを優先した。その判断経過をもっと知りたいものである。



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<追記>

安倍政権は、最近も拉致問題を解決するつもりがあるかのようなポーズをとっているが、もともとそんなつもりがないことは、高嶋伸欣(琉球大学名誉教授)らの批判によって明かになってきた。

それどころか、本稿で示したように、安倍政権は国連人権機関では、拉致問題をはっきりと切り捨てて、解決できないようにするために懸命の努力を続けている。解決せずにえんえんと引き延ばすことに利益を見いだしているのかもしれない。

おまけに、マスコミが事実を報道しない。国連人権機関で起きたことさえ、報道しない。

私は強制失踪委員会を傍聴していなかったため、記録と、事後の取材によって、一部の事実を明らかにしたが、真相はまだわからない。

Sunday, February 16, 2020

ヘイト・クライム禁止法(168)モンテネグロ


モンテネグロ政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/MNE/4-6. 26 September 2017)によると、憲法第55条1項は、憲法秩序の破壊、領土の統合の破壊、自由と権利の侵害、国民、人種、宗教その他の憎悪と不寛容の煽動のための政治団体を禁止している。刑法第42条aは、犯罪が人種、宗教、国民又は民族、性別、性的志向、ジェンダー・アイデンティティに基づく憎悪によって行われた場合は刑罰加重事由とする。2013~14年、憎悪に基づく犯罪は4件記録された。2015年、人種、皮膚の色、国籍、民族的出身等に基づく差別犯罪は2件であった。

差別禁止法第23条について、2013年には128件が告発され、135人が起訴された。性的志向によるものが123件、宗教が5件、国民が3件であった。2014年には、21件が告発された。性的志向が15件、宗教が2件、国民が4件である。28人が起訴された。2015年には19件の差別事件が告発されたが、性的志向が16件、国民が3件であり、22人が起訴された。2016年には45件が告発された。人種が1件、国民が3件、その他は性的志向であった。

公共平穏秩序法第19条は、国民、人種、宗教、民族的出身その他の特徴に基づいて公共の場所で人を攻撃した場合、150以上1500以下のユーロの罰金又は60日以下の刑事施設収容とする。

スポーツイベントにおける暴力犯予防法第4条は、憎悪や不寛容を煽動・助長するバナー、旗その他の物の掲示、及び叫び声や歌を禁止する。

ビジェロポリエ高等裁判所は、刑法第370条の国民、人種、宗教憎悪ゆえに生じた犯罪を1件扱ったが、本件は破棄された。

ポドゴリツァ高等裁判所は、刑法第370条の事案を4件扱った。2014年10月24日、1人が有罪となり3月の刑事施設収容となった。2015年6月5日、1人が保健施設への強制収容となった。2014年12月25日、1人が6月の刑事施設収容・執行猶予付きとなった。

ニキシッチ初審裁判所は、2015年9月30日に受理した差別禁止法の人種差別禁止に関する事案を審理中である。

ポドゴリツァ軽罪裁判所は、2014~17年5月に、9件の人種差別事案を扱った。5件は合法との結論が出たが、4件は審理中である。2件は宗教信仰の事案、7件は国民の事案である。ブドヴァ軽罪裁判所は、2014~17年5月に、公共平穏秩序法に関する2件の人種差別事案を扱った。ビジェロポリエ軽罪裁判所は、国民ゆえの侮辱事案を6件扱い、4件は終結、2件は審理中である。人権擁護者が告発した差別事案は、2012年に64件で、そのうち21件が国民、1件が宗教である。2013年は59件で、13件は前年からの事案で、新規は46件である。10件は国民、2件は宗教である。2014年は54件で、8件が国民である。2015年は83件で、10件は前年からの事案である。全件終結した。15件が国民、4件が宗教である。2016年は151件で、146件が終結、5件が翌年に繰り越した。9件が国民、3件が宗教、2件が国民である。

(*固有名詞の表記は現地語の発音に従っていない。)

人種差別撤廃委員会はモンテネグロに次のように勧告した(CERD/C/MNE/CO/4-6. 19 September 2018)。2014年改正の差別禁止法がヘイト・スピーチを禁止しているが、人種主義ヘイト・スピーチや人種主義暴力に関する統計データが十分でない。政治家が選挙運動の際にいくつかの民族集団に対してヘイト・スピーチをしたとの情報がある。インターネットなどメディアにおけるセルビア人やモンテネグロ人に対する侮辱などのヘイト・スピーチがある。ロマに対する人種主義暴力も報告されている。一般的勧告第35号を想起して、政治家による人種主義ヘイト・スピーチを非難すること。政治家による選挙運動中のヘイト・スピーチを捜査し、適当な場合には訴追し、処罰すること。ロマなどの民族的集団に対するヘイト・スピーチと闘い、犯行者が処罰されるようにすること。メディア規制機関が人種主義憎悪現象を予防・抑止すること。コンピュータ即応チームと警察庁サイバー犯罪部局に、オンラインのヘイト・スピーチに対処するため、適切な財政と技術職員を配置すること。

ヘイト・スピーチ研究文献(150)移民・難民の主体性


高橋若木「収容所なき社会と移民・難民の主体性」杉田俊介・櫻井信栄編『対抗言論』1号(法政大学出版局)



「仮放免は目標になりうるのでしょうか?」――この問いには、異なる2つの応答が必須である。長期収容の現実を前にすれば、仮放免は目標であるに決まっている。だが、退去強制が取り消されず、就労許可も公的健康保険もない現実の下では仮放免は最終目標ではない。阿鼻地獄が良いか、叫喚地獄が良いかの選択を迫る論法にはまってはならない。そこで高橋は「反収容タイプ」を2つに分ける。

現実の制度の運用改善を求める反収容タイプAと、収容制度の廃止を求める反収容タイプBである。この両者を視野に入れて議論していく必要があるという。

反収容タイプAは、例えば、救急搬送拒否事件で事件を世間に訴え、診察と搬送を求める運動が取り組まれた。裁判でも、長期収容につながる「在留活動禁止説」に対して、収容の目的は退去強制を円滑に実施するためのものであるとして「執行保全説」が対置される。だが、退去強制すべきだと主張しているのではない。タイプAは、収容政策の適正化を求めつつ、収容そのものに反対するタイプBを展望し得る。

反収容タイプBは、収容の改善ではなく撤廃を目指す。誰も収容されない社会を創造することが目標だが、一気に実現するわけではないから、収容に上限を設定することから始める。高橋は、反収容タイプBに立った4つの原則を掲げる。「第一に、まともな在留資格を設定し直すことである。」労働者としての権利保障が出発点だ。

「第二に、労働者としての権利は入管法に違反したからと言って停止されるわけではないと認めさせることである。」

「第三に、『ヨーロッパの教訓』などの漠然とした移民警戒論を語るくらいなら、日本の移民政策の最近の失敗を想起することだ。それらは多くの場合、改善可能である。」

「第四に、外国人の人権を日本人が守るという発想に留まらず、日本国籍を持たない住民の政治的主体性を確立することだ。外国人参政権はそのために不可欠である。」



他方、高橋は「リベラルな恩恵的排外主義」を批判する。「リベラルは一般的に、個人の権利を尊重しようとする。しかしその原則が、すでにいるメンバーが尊重される共同体を保守するため、権利を保障しきれない移民は入れないでおこうという姿勢につながる場合がある」からだ。

高橋は「リベラルな恩恵的排外主義」の実例として、(1)堤未果『日本が売られる』による外国人と日本人の対立図式、(2)TOKYO DEMOCRACY CREWの「移民受け入れ拡大反対」論、(3)社会学者の上野千鶴子の移民受け入れ拡大反対論の3つを紹介して、「移民と国民の利害対立という単純な図式が根拠薄弱かつ無責任である」と批判する。



最後に高橋は「収容する権力と移民の主体性」について論じる。結論は次のようにまとめられる。

「反収容タイプAで現在の移民を制度内で支援する際には、収容所なき社会を追及する反収容タイプBを並走させることで、『よい収容所』作りとは異なる方向を歩むこと。反収容タイプBの目的を追求しつつも、タイプAで現在の移民を支援し、彼・彼女たちの必然的な選択に連帯すること。今いる当事者を支援して制度の適正化を要求しつつ、同時に収容所が無用となる社会に向かう反差別はあり得る。マジョリティ(収容されない人々)が支援活動のなかでも自分たちの恩恵的なポジションと格闘することは、その言論・運動がもつ特徴の一つだろう。タイプAとタイプBを往還する反収容は、例外的な保護対象ではなく政治的な主体としての移民の運動ともなり得るはずだ。」

日本政府の外国人処遇から、リベラルな恩恵的排外主義に至るまでの、日本社会の差別と排外主義は、人間の断片化に貫かれている。移住外国人を、人間として処遇するのではなく、それゆえ人権の主体としてではなく、労働力としてのみ位置付ける。人間を、ある一面の機能に縮減する。人間たる資格を持つのはマジョリティである私たちだけであり、それ以外の者には存在証明責任が課される。収容所のある社会とは、マイノリティの主体性を否定し、マジョリティを千切りにして、際限なく序列化する社会である。

Friday, February 14, 2020

ヘイト・スピーチ研究文献(149)朝鮮人から見た沖縄


呉世宗「朝鮮人から見える沖縄の加害とその克服の歴史」杉田俊介・櫻井信栄編『対抗言論』1号(法政大学出版局)



沖縄における朝鮮人の歴史は日本政府も沖縄県も調査してこなかったという。沖縄戦に関しても、さまざまな歴史資料の中に、断片的に記載され、推測がなされてきた。沖縄戦における朝鮮人の被害は「不詳」とされるが、計り知れない被害があったと考えられる。日本と沖縄の加害と被害の歴史の中に置かれた朝鮮人は、沖縄による被害も余儀なくされた。このことに焦点を当てる研究がなかったわけではなく、徐々にその相貌が浮かびあがってきた。呉世宗『沖縄と朝鮮のはざまで』(明石書店)は最新の研究成果である。

呉は、本論文で、沖縄による加害を紹介したうえで、加害を克服しようとする沖縄、加害を乗り越えようとする沖縄にも焦点を当てる。第1に、1960年代の復帰運動、特に反復帰論というラディカルな思想の重要性、そしてアジア。アフリカ諸国の国際連帯における沖縄の位置を測定する必要があるという。呉は次のように言う。

「そのように沖縄の復帰運動は、アジアやアフリカにも開かれた運動であったからこそ、パレスチナや朝鮮民主主義人民共和国など、いわゆる第三世界から共に闘おうという連帯のメッセージが送られてくることとなった。沖縄を『悪魔の島』と呼んだベトナムからも連帯のメッセージが届けられたことは、復帰運動が普遍的な平和を目指す運動であったことを示すものであった。そのようにして復帰運動は自らを外に開き、第三世界との連帯を模索したからこそ、自分たちの加害性に向き合う土壌を作り出していくことになる。」

それゆえ、第2に、1960年代の沖縄戦記録運動の中で、この課題が継承されていく。沖縄戦の記録を目指す運動の中で、何のために記録を残すのか、何のために証言するのかという問題意識の反芻の結果、沖縄の中にいたアジア人である朝鮮人の「発見」にたどり着いた。このことが沖縄の加害の自覚につながった。呉は、安仁屋政昭を例証として、このことを確認する。

「復帰運動及び記録運動の経験は、沖縄が持つアジアとの連帯の可能性を示すものであり、いまも継承されるべき思想的資源であると考える。自分たちの歴史の中にはアジアの人たちがいて、彼彼女らの歴史と自分たちの歴史を別々のものとして分けることなく絡みあっているままに受け入れていく、そのような歴史の見方や思想が60年代の運動のなかで生まれていたためである。それは民衆の側から他者を可視化し、自らの責任に向き合う契機を作り出した、沖縄固有の驚くべき出来事であった。この経験に基づいた公的な調査の実施や、沖縄が主軸となっての日韓の民衆連帯の形成が期待される。」

重要な指摘である。沖縄の反戦平和運動は、1960年代だけでなく、その後もアジアにおける平和運動を意識して進められた。本土の平和運動とは趣を異にする。朝鮮人から見た沖縄という視点は実に重要である。

Friday, February 07, 2020

星野智幸を読む(4)壊れることさえできないのなら


星野智幸『目覚めよと人魚は歌う』(新潮社、2000年)



時代の表層を掠め、断片を切り取り、スライドガラスに貼り付け顕微鏡で眺めまわしながら、見える部分をかいくぐるようにしてプレパラートを反転させる。星野の作法は、帰納でも演繹でもなく、形式論理も弁証法もまたぎ越して、淡い小説世界を浮き上がらせる。

幸福も不幸も知らない無関心な親元から逃れるために蜜夫に「さらわれ」た糖子は、不在の蜜夫を追い求め続けながら、赤砂漠の丸越の家で、息子の蜜生と暮らす。

日系ペルー人やドミニカ人などが暮らす川崎で、失業と暴走族と喧嘩の世界から逃走したヒヨとあなは、赤砂漠の丸越の家に吸い込まれていく。

幻の蜜夫を除く、糖子、丸越、蜜生、ヒヨ、あなの5人が織りなす、静かな疑似家族の愛憎劇、と言ってしまうと、ちょっと違う。それぞれの家族の情景が語られ、反目と無視と衝突と逃走の幕が繰り返される。食事、ほら貝、サルサ、隠れ家、温泉を行きつ戻りつ、すれ違いとセックスが物語を呼び寄せる。現実とも幻想ともつかない疑似家族の臨界は、現実世界の川崎における乱闘事件と報復事件によってかたどられる。

乱闘事件の落とし前をつけるために、川崎へ帰らなければならない。現実に帰るのではない。もう一つの幻想と現実の狭間に乗り入れていくのだ。



バブルの時期、仕事を求めて日本にやってきたアジアや中南米の人々、中には「定住」しはじめた人々もいたが、バブルが始め不況と失業の波に洗われることになった。日系ペルー人や日系ブラジル人など、各地で苦しい生活を余儀なくされた。「移民」を認めない政府の在留制度、「外国人」を排斥する社会、アイデンティティの危機。社会から排除された若者達の混乱と苦悩と爆発。

星野は、日系ペルー人の若者達だけでなく、日本人の側のアイデンティティの危機をも射程に入れる。単なる差別の告発にしたくなかったからだろうか。だが、その分、普遍化した、逆に言えばありきたりの、成長の悩みに近づいていく。そこをどう超えていくか。

第13回三島由紀夫賞受賞作。

ヘイト・スピーチ研究文献(148)「嫌韓」の歴史的起源


加藤直樹「歪んだ眼鏡を取り換えろ――『嫌韓』の歴史的起源を考える」杉田俊介・櫻井信栄編『対抗言論』1号(法政大学出版局)



加藤は、「嫌韓」は「単なる感情ではなく、一つの世界観であり、認識の枠組みである」として、この「眼鏡」をかけている限り、朝鮮蔑視、韓国蔑視は強まることはあっても、容易には是正されないと見る。その上で、この「眼鏡」には3つの歴史的起源があるという。第1に尊王思想、第2に進歩主義、第3に植民地経験だという。

1の尊王思想とは、近代国民国家形成に当たっての尊王攘夷思想により、国家の正当性を天皇に求め、大日本帝国を確立したことを指す。水戸学以来の帝国のファンタジーであり神話が基礎となる。この神話の世界では朝鮮は日本の「属国」でなければならない(三韓征伐)。

2の進歩主義とは、西欧近代に学んだ日本はその進歩主義を取り入れることになった。追いつき追い越せの近代化、発展段階論は、日本が西欧近代に迫ることと同時に、遅れた朝鮮を必要とする。自らを文明とし、朝鮮を野蛮とする思考は、明治の支配層以来の伝統であると同時に、進歩的な経済学者やマルクス主義者にも共有された。

3の植民地経験は言うまでもない。植民地化過程における虐殺を通じて、日本の庶民は朝鮮人を非人間的に扱うことを学んでしまった。

加藤によると、1945年の敗戦にもかかわらず、この3つの思想は消失したのではなく、忘れられたり、変容を伴いつつ、継続していくことになった。植民地を失ったにもかかわらず、日本人の朝鮮観には切断が生じなかったという。

そして、1990年代以降、冷戦構造の終焉とともに、東アジアの地勢は構造的変化を始め、「日本人は150年来初めて、韓国のもつ他者性を認め、それを通じて、日本を唯一のモデルとする単線的な発展段階論を否定しなければならない事態を突きつけられている」。

しかも民主化した韓国は、日本の過去を見事に照らし出す。日本は文明ではなく

「野蛮」だったのではないか。この事態を引き受けることのできない脆弱な日本人が悲鳴をあげ、否認に走る。それが「嫌韓」であり、ヘイト・スピーチとなって噴き出す。

「だが、歴史の流れは止められず、日本人はいずれ、尊王思想、進歩主義、植民地経験を通じて作り出された『眼鏡』の方を捨て去らなくてはいけなくなるだろう。それでも、断末魔に陥った人ほど恐ろしいものはない。私たちが『早く眼鏡を取り換えろ』と叫ぶ必要が、ここにある。」



基本的に同感である。

私自身は日本人の朝鮮蔑視、ヘイト・スピーチを2種の枠組みで理解してきた。第1は、「500年の植民地主義」と「150年の植民地主義」である。西欧近代の植民地主義と類比的な過程を経て、日本は周辺諸国を植民地化してきた。第2は、近代の中での時期区分である。韓国併合以来の植民地経験、敗戦後になされなかった植民地清算、朝鮮半島分断と日韓条約体制、9.17以後の激烈な朝鮮蔑視とライバルとなった韓国への敵視といった流れで、重層的に積み重なった差別とヘイトという理解である。

ヘイト・スピーチについて、「2009年に日本でもヘイト・スピーチが始まった」という評論家がいるが、そうではない。日本による朝鮮・韓国へのヘイトには「500年の植民地主義」と「150年の植民地主義」という長い歴史があり、その中で現象形態を変えてきた。このことを見失った議論は不適切である。加藤の理解は私と共通するところが大きいと思う。

Thursday, February 06, 2020

ヘイト・クライム禁止法(167)ボスニア・ヘルツェゴヴィナ


ボスニア・ヘルツェゴヴィナが人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/BIH/12-13. 13 September 2017)によると、ジェンダー平等法と差別禁止法があり、すべての生活領域における差別を禁じている。2016年に差別禁止法を改正してLGBTも保護対象にするために、性的志向とジェンダー・アイデンティティを加えた上、「性的特徴」という要件も追加し、包括的な差別禁止法にした。

2016年に刑法を改正し、ヘイト・クライムを、人の属性、皮膚の色、宗教信念、国民的民族的出身、言語、ジェンダー、障害、性的志向又はジェンダー・アイデンティティゆえに行われた刑事犯罪と定義し、刑罰加重事由とした。刑法166条2項(c)は、憎悪ゆえに行われた殺人を1年以上10年以下の刑事施設収容とした。刑法203条4項は、強姦罪について憎悪が伴えば3年以上15年以下の刑事施設収容とした。刑法293条3項は、憎悪による他人の財産損壊を1年以下の刑事施設収容とした。

スルプシュカ共和国は、刑法改正作業中であるが、これは人種主義と排外主義を犯罪化するためで、「暴力又は憎悪の公然教唆及び煽動」を対象としている。印刷、ラジオ、テレビ、コンピュータシステム又はソーシャルネットワークを通じて、公開集会又は公共の場所その他公然と、暴力又は憎悪を惹起し、教唆した場合、3年以下の刑事施設収容である。

刑法は子どもの性的虐待と搾取も犯罪化している。子ども性的虐待、子どもとの性行為、子どもポルノ等を犯罪化した。

2013年以来、スルプシュカ共和国内務省は、憎悪動機による犯罪の記録を取っている。憎悪、不和、不寛容の煽動、他人の財産損壊について、実行者、標的とされた人、場所、日時、実行方法を記録している。

コミュニケーション法に基づいて独立機関としてコミュニケーション規制局が設置されている。表現の自由の講師を目的とし、差別とヘイト・スピーチの禁止に関しても取り扱う。テレビ番組における「ヘイト・スピーチ」の疑いがあるという申立てを多数受け取ったが、2県ではテレビ局に2000BAM及び4000BAMの罰金と判断した。

人種差別撤廃委員会はボスニア・ヘルツェゴヴィナに次のように勧告した(CERD/C/BIH/CO/12-13. 10 September 2018)。人種的動機を刑罰加重事由とすること。人種主義プロパガンダの流布や人種的優越性の思想の助長が犯罪とされているかどうか不明であるので、条約第4条に関z年に合致するよう刑法を改正すること。一般的勧告第35号を想起して、公的言論における人種主義ヘイト・スピーチを強く非難すること。公的演説が人種憎悪の煽動にならないようにすること。ヘイト・スピーチとヘイト・クライムを記録、捜査し、裁判にかけることで法律を実効化すること。ジャーナリストやメディア関係者の人権教育のための行動計画を通じて、メディアがこの問題に敏感になるようにすること。

Wednesday, February 05, 2020

ヘイト・スピーチ研究文献(147)差別はいつ悪質になるか


堀田義太郎「差別の哲学について」杉田俊介・櫻井信栄編『対抗言論』1号(法政大学出版局)



ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか』(法政大学出版局)の翻訳者である堀田の差別論である。堀田はほかにも「差別の規範理論」『社会と倫理』29号など関連する論文を公表してきた。

「差別は悪い」のは常識のはずだが、なぜ差別がいけないのかとなると、意外なことに定説がない。むしろ意見が分かれる。法学的議論でもそうだが、哲学となると、議論は単純ではない。原理的にものごとを考えることは、適切に単純化して考えることのはずだが、それもなかなか容易ではない。

堀田はまず議論の対象となる差別の定義を整理する、区別や不利益や特徴といった要因がどのように絡むのかを整理し、歴史的社会的な文脈の重要性や、社会的に顕著な特徴をいかに位置付けるかを論じる。

悪質な差別については、伝統的な倫理学の枠組みに従って、害説(害悪説)とディスリスペクト説(尊重説)をもとに健闘する。差別が悪いのは、差別される個人に多大な不利益や害を与えるからなのか、それとも他者を同等の価値を持つ存在としてリスペクトしないからであろうか。またディスリスペクト説の中で、「意図=ディスリスペクト説」と「意味=ディスリスペクト説(社会的意味説)」を区別している。

堀田の結論は次のようにまとめられる。

「ある人々への差別的な慣行や価値観がある場合、その人々の特徴に基づく不利益扱いは、それら既存の慣行や価値観などを助長または強化または是認する意味をもつと言えるのではないか。そしてその意味は、被差別者が被る害の大きさとも、行為者の意図や動機、信念などとも独立して、行為に帰属できるのではないか。」

最後に堀田は、日本でしばしば用いられる「差別的」「差別につながる」と言う表現を取り上げる。差別だと断定できなくても、差別的だと言える場合である。

堀田はこの議論を重視する。

「これらは、典型的な差別の事例からすれば明確に差別だとは言えない境界事例と言えるかもしれない。しかし、差別が様々な行為の集合によって成立すること、そして単に諸行為が複数存在するだけでなく、それらが相互に是認または正当化し合う意味をもって関係していると考えれば、こうした事例はむしろ差別にとって中心的なものとして理解できる。諸行為の中には、単独で取り出すと『差別』とは断言できないようなものもある。しかし、それらが意味をもって相互に関係しているという点が重要だと思われる。」



なるほど差別と言っても、多様な行為の集合によって成立することが多い。また、直接差別と間接差別もある。個人に対する差別行為と集団に対する差別も区分できる。差別の動機(人種・民族、性別、宗教、言語等)も多様だ。全体をカバーする議論のためにも、類型分けした議論が先に深められる必要がある。

ヘイト・クラム禁止法(166)ペルー


ペルー政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/PER/22-23. 20February 2017)によると、民族差別や人種差別のない情報を発展させるため、政府はジャーナリストや情報発信者に人種的ステレオタイプと闘う啓発と訓練を行っている。ブックレットや公共サービスを利用して啓発を続けている。ラジオ・テレビ放送法は、個人の擁護と人間の尊厳を尊重し、基本的人権と自由を保障することを原則としている。放送局は、これらの原則と国際人権条約に基づいて倫理綱領を定めている。放送局のウエブサイトには、法律違反に対する申立てのガイドが掲載されている。申立て後15日以内に放送局が対応しなければ、情報監視委員会が対処する。出身、性別、人種、性的志向、宗教、意見、経済的社会的地位、言語その他の特徴に基づいて差別されない権利を保護するため、憲法的手続法がある。刑事手続きにおける差別のないように刑事訴訟法第323条がある。

人種差別撤廃委員会はペルー政府に次のように勧告した(CERD/C/PER/CO/22-23.23May 2018)。法律を見直して、人種差別の禁止のために条約第11項の要件を満たすこと、直接差別と間接差別を射程にいれて法改正すること。条約第4条で言及された行為を犯罪とする法律によって特に禁止すること。先住民族やアフリカ系住民が人種的ステレオタイプによるスティグマを受けないよう、メッセージ、番組、広告を予防する措置を取ること。人種的ヘイト・スピーチと闘う一般的勧告35号に注意を喚起する。

ヘイト・クライム禁止法(165)キューバ


キューバ政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/CUB/19-21. 9 September 2016)によると、刑法第116条はジェノサイド、第120条はアパルトヘイトを犯罪としている。刑法295条1項は、平等権侵害の罪を、6月以上2年以下の刑事施設収容及び・又は200以上500以下ユニットの罰金としている。平等権侵害の罪は、人の性別、人種、皮膚の色、又は国民的出身に対する攻撃的な言動により、又は同じ動機を持って平等権を妨害することにより、人を差別し、又は差別を助長・煽動した者とされる。刑法295条2項は、人種的優越性又は憎悪に基づく思想を流布した者、又は異なる皮膚の色又は出身の人又は人の集団に対して暴力行為を行い、又はその実行を煽動した者を処罰する。

1985年の結社法は、憲法が保障する結社の権利の行使を規制し、人種主義団体や隔離主義団体の結成を禁止する。他方で、多様な国民の歴史、文化、アート、人間の友好、連帯、平等の研究、流布、維持を促進する結社を認める。

人種差別撤廃委員会はキューバ政府に次のように勧告した(CERD/C/CUB/CO/19-21.20September 2018)。アフリカ系人民の反差別のための活動をする人権活動家、特に市民社会のリーダー、ジャーナリスト、メディア関係者に対するハラスメント、脅迫、資格剥奪などを予防する措置を講じること。憲法及び刑法の規定における禁止される人種差別の定義を、条約第一条の定義に合致させること。人種主義ヘイト・スピーチと闘う一般的勧告第35号を参照し、条約第四条が定める行為を刑法において犯罪化すること。人種主義動機、又は皮膚の色、世系、国民的出身に基づく動機を刑罰加重事由とすること。

星野智幸を読む(3)なぶりあうアイデンティティ


星野智幸『嫐嬲』(河出書房新社、1999年)



1998年の『最後の吐息』に続く星野の作品集である。「嫐嬲」と書いて「なぶりあい」と読む。「嫐嬲」「裏切り日記」「溶けた月のためのミロンガ」の3作が収められているが、表題作の完成度はそれなりに高いものの、他の2作は習作と言ってよいだろう。



同じ会社から翻訳を依頼されていたグランデ、プティ、メディオの3人が出逢い、呑み、意気投合して、共同生活を始める。2部屋のワンルームを1つは執務室、1つは寝室とし、将来の英語イスパニア語の共同翻訳オフィスを夢見る。1人での翻訳作業とは別に、3人共同によって作業が大いにはかどり、体験を共有していく。

若い3人の友情、連帯、共同作業は、やがて外にあふれ出て、危険なスリルとサスペンスの日々を迎える。船着き場の船を盗んで対岸に渡る。温泉の湯船の栓を抜いて逃げる。銀行強盗ならぬ銀行強制預金事件を引き起こして逃げる。渋谷交差点を渡る人々を大混乱させるスクランブル事件。こうしてお互いを信じあい確かめ合いながらの冒険の日々に、お互いの不信とスレ違いが生まれていく。

プティは「おかまに見えない」「もと女だもん」という「おかま」という設定であり、メディオは「男であることのアイデンティティは廃墟同然」だが「男をやめることもできない」という設定である。「ただの女にすぎない」グランデは「排除」された意識を持つ。違いを認め合い、お互いを尊重しながらも、時に批判し、傷つけあいながら、絡み合う。結末、「嫐嬲」の危機から脱出したのはプティであり、外国へ行くことになったとのビデオを残して消える。

90年代後半、字幕翻訳をやっていた星野の体験をベースに、翻訳にいそしむ若者たちのアイデンティティをめぐる葛藤、煩悶を描いた秀作だ。

Tuesday, February 04, 2020

ヘイト・スピーチ研究文献(146)「国家による自由」を思考すること


浜崎洋介「『ネオリベ国家ニッポン』に抗して」杉田俊介・櫻井信栄編『対抗言論』1号(法政大学出版局)



浜崎の『反戦後論』を読んであまり評価しなかったが、むしろ私の読みが浅かったのかもしれない。本論文で浜崎は「テロ・ヘイト・ポピュリズムの現在」をおおづかみし、近現代史の中に位置づけようとしている。その処方箋には必ずしも賛成できないところもあるが、浜崎の分析を知っておくことは必要だ。

冒頭で浜崎は「スピノザに倣いて」として<大衆―扇動者―知識人>の三位一体を突き破る課題を提示する。ヘイトに対抗する即自的な言説が、単に「一つのヘイトを、もう一つのヘイトに取り替え」る結果に陥ってはならないからだ。悲しみや怒りや憎しみの感情を諫めることよりも、「喜びの感情」を組織することのほうが先決であり、その先へ進む必要があるからだ。

浜崎は「ネオリベ国家ニッポンの運命」を論じる中で、安倍政権は一見「国家」について語っているように見えて、「ただ語っているだけ」で、むしろグローバル資本に国家状態を譲り渡す政策を続けて、「国家」を解体しているのだという。

解体の帰結として、国家による防壁が失われ、国家による保護が失われる。「中間層」の解体、非正規労働者の大量創出と再編、地方の衰退――ここにヘイトスピーカー登場の温床が形成される。ヘイトスピーカーが被害者意識とマイノリティー意識を有するのはこのためだという。それゆえヘイト対策は次のように示される。

「グローバル資本に対する『国家』の防壁を立て直すと共に、この20年間のデフレ状況を作り出した諸要因(グローバリズム、構造改革、緊縮)を追及し、それに対する処方箋(税と財政とを組み合わせた機能的マクロ経済政策)を提示し、さらに、ヘイトスピーチに対する法的規制を一刻も早く整備すること(ヘイトの定義=範囲を明確化し、それに引っかかる行為に対して左右を問わず迅速に処罰すること)である。そして、人々が、そのなかでようやく実存の根拠(交換不可能性)を紡ぐことのできる『国家状態』を回復することである。その『国家』による具体的術策を抜きにして、『悲しみの受動的感情にとらえられた人間』に、『生の喜び』、『能動性』、『善』を回復する道などありはしない。」

最後に浜崎は、スピノザとネグリ=ハートを繰り返し参照軸としつつ、「テロ・ヘイト・ポピュリズムの現在を目の前にしている私たちが語るべき言葉は、単なる『自由主義』の言葉でも、単なる『反自由主義』の言葉でもなく、私たちの『自由の条件』をめぐる言葉、つまり、共同体の不幸を除去するために建てられる『国家状態』をめぐる言葉ではないのか。『共同体』の努力ではないのか。」

ここから浜崎は「国家」そのものへ向かう思考の重要性を説き、「『国家による自由』を思考すること。それを思考すること以外に、あの<奴隷=大衆>と<暴君=扇動者>と<聖職者=知識人>とによって、強固に打ち固められた<道徳の精神=偽善>を打ち破る道はない」と語る。



短い文章に凝縮された浜崎の見解はそれなりに理解できる。私たちが呆然と佇んでいる隘路を突き破るために、浜崎が思考を先へ、先へと拡げようとしていることもわかる。ただ、浜崎の大枠の認識を受け入れたとして、その枠組みでは、事態の解決のために何十年かかるのだろうか。何百年かかるのだろうか。

「ヘイトスピーチに対する法的規制を一刻も早く整備すること(ヘイトの定義=範囲を明確化し、それに引っかかる行為に対して左右を問わず迅速に処罰すること)」という浜崎の提言に賛成である。ただ、この提言と、上記の認識とを繋げて思考する必然性がどれだけあるのか、いまのところ私にはわからない。もう少し考えてみよう。

Monday, February 03, 2020

ヘイト・クライム禁止法(164)モーリシャス


モーリシャス政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/MUS/20-23. 3 October 2017)によると、2001年に独立放送庁が設置され、ラジオとテレビ放送を監督している。モーリシャス文化の多元性を維持・促進するため、放送番組に言語的及び文化的多様性をもつようにすることが目的である。独立放送庁の基準委員会は「放送行動綱領」を作成し、その前文は放送権個人の権利と不可分であり、情報を受け取り発進する個人の自由権に基づくとしている。放送局は「公衆の道徳に対するいかがわしい、猥褻な、攻撃的な番組や、宗教信仰を攻撃する番組、国家の安全と公共秩序を脅かす番組を放送してはならないとしている。独立放送庁は不服委員会を設置し、行動綱領に違反し、不公正な取り扱いをしたとの申立てを受理する。

2009年5月から2016年12月に警察が報告・訴追した人種差別と人種憎悪の煽動事案は、次のとおりである。公共及び宗教上の道徳に対する侮辱は14件、人種憎悪の煽動は16件、宗教儀式の妨害は10件、冒涜は2件、コミュニケーション技術法違反は4件。

人種差別撤廃委員会はモーリシャス政府に次のように勧告した(CERD/C/MUS/CO/20-23. 19 September 2018)。条約第1条及び第4条に関する一般的勧告第8号を考慮に入れて、現存する集団の分類を行うこと。民族及びカーストの階層構造が存在するにもかかわらず、法制度がこれを反映していない。人種やカーストに基づいた優越性の主張がなされている。人種差別事件が報告されているが、裁判所が扱った数が限定されている。人種差別被害の申立てに関する統計が提供されていない。クレオールと呼ばれる民族集団のステレオタイプ化の事件、ヘイト・スピーチ事件がみられる。一般的勧告第35号を想起し、ステレオタイプ化と闘う教育・啓発を強化すること。人種主義的報道と政治家によるヘイト・スピーチ事件と闘うのに必要な措置を講じること。警察による人種プロファイリングをやめること。検察、検察、裁判所がヘイト・クライムやヘイト・スピーチを確認、登録、捜査、訴追できるように、法執行官に人種差別について研修を行うこと。

Saturday, February 01, 2020

ヘイト・スピーチ研究文献(145)「誰がネットで排外主義者になるのか」という問い


杉田俊介・櫻井信栄編『対抗言論』1号(法政大学出版局)

http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-61611-2.html



<私たちはいま、ヘイトの時代を生きている。外国人・移民に対するレイシズム、歴史の改竄、性差別、障害者・生活保護受給者・非正規労働者への差別などが複雑に絡み合い、すべてが「自己責任」で揉み消されてゆく殺伐たる社会で、私たちはどうすれば隣人への優しさや知性を取り戻せるのか。分断統治をこえて、一人ひとりが自己解放の言葉をつむぐ努力の一歩として、この雑誌は始まる。年1号刊行予定。>



批評家と日本文学研究者・韓国語翻訳者の1970年代半ば生まれの2人の編集。1940年代、50年代、60年代、80年代、そして90年代生まれを含む、20数名の執筆者による「反ヘイトのための交差路」。いずれも人文系の執筆者と言ってよい。つまり一言で言えば、文学の責任における反ヘイトの言論である。1号のテーマは「ヘイトの時代に対抗する」。3部構成から成る。

1は「日本のマジョリティはいかにしてヘイトに向き合えるのか」

2は「歴史認識とヘイト――排外主義なき日本は可能か」

3は「移民・難民女性╱LGBT――共に在ることの可能性」



倉橋耕平「<われわれ>のハザードマップを更新する――誰が『誰がネットで排外主義者になるのか』と問うのか」

「誰がネットで排外主義者になるのか」という問いを受けた時に、この問いはなぜ必要なのだろうかと考える、『歴史修正主義とサブカルチャー』(青弓社、2018年)の著者・倉橋は、「この問いをいままさに共有しようとしている<われわれ>の側のハザードマップ(被害予測地図)自体がアップデート(更新)されていないのではないか」と問い返す。それがサブタイトルの理由である。最初は趣旨を読み取りにくかったが、最後まで読んで冒頭に立ち返ると、倉橋の言いたいことはよくわかる。

倉橋は、「誰がネットで排外主義者になるのか」について、『ネット右翼とは何か』(青弓社、2019年)の永吉希久子の論文等に依拠してネット右翼に関する考察を示す。

そして次に、「左右の極性化と言語の分離」を論じる。あいちトリエンナーレ2019における「表現の不自由展・その後」事件に際して、天皇や日本人に対するヘイトを語る言説のようなとんでもない「誤用」を一例として、「もはや同じ言葉を使っていたとしても、その言語が通じない状況になっているのではないか」と問う。

ヘイトにしても、保守革新にしても、差別や、表現の自由にしても、「文脈を断絶し、重視しなくともコミュニケーションがとれるインターネットという技術環境は、まさにこうした言説政治の節合と脱節合が繰り返される闘争の場となっている。しかし、だとすればもはや対話は不可能であるという認識から『対抗言論』のアイデアを練らなければならないのではないだろうか」と言う。倉橋の「結論」はこうだ。

「言説政治の実践として対抗するための参照軸を見つめ直すことが必要なのではないか。それを大きな言葉で言えば、『対抗するとはなにか』の再構成ということになるだろう。『彼ら』は、あやふやな言葉を用いて攻撃をしかけてくる。ときに、それは『革新』の姿をまとって。『攻守の逆転』が起こっている。今<われわれ>は何かを守らざるを得ない。それは『保守』的に映るかもしれないが、その守らざるを得ない何かにたいするハザードマップをアップデートしなければならない。その次に方法を更新しなければならないだろう。それが『対抗するとはなにか』という疑問へのヒントにつながるかもしれない。」



倉橋はネット右翼について語っているが、同時にアベシンゾーについて語っていることになるだろう。「ヘイトの時代に対抗する」というテーマは、アベシンゾー化した時代にいかに対抗するか、アベシンゾー化しつつある<われわれ>自身にいかに歯止めをかけるかというテーマである。憂鬱な問い、ではある。