Sunday, August 01, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(183)a ヘイトをとめるレッスン

ホン・ソンス『ヘイトをとめるレッスン』(ころから、2021年)

http://www.korocolor.com/book/9784907239527.html

<韓国でヘイト問題の研究者として、また差別禁止法制定を目指す活動家として奔走するホン・ソンスの著作を完全日本語訳。

ヘイトスピーチとはなにか、男性へのヘイトスピーチは成り立つのかから、ヘイトからジェノサイドへ至る段階的特徴などを解説。「ヘイトスピーチの入門書にして、ヘイトをなくすための決定版」と言える一冊。

カバー挿画は、韓流ドラマ『ミョヌラギ』の原作者、ス・シンジさんによるイラストで、平易な文章とあいまって、高校生・大学生にも親しみやすくなっている。>

<ホン・ソンス プロフィール>

1975年生まれ。韓国・淑明女子大学法学部教授。専門は法哲学と法社会学。高麗大学で学士、修士を経て、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで国家人権機構についての法社会学的研究で博士号取得。スペイン国際法社会学研究所、オックスフォード社会・法研究所、ロンドン大学人権コンソーシアムなどでの研究を経て現職。2016年に韓国の「ヘイト表現の実態調査及び規制方案の研究」の研究責任者として報告書作成にかかわり、現在も包括的差別禁止法の制定に取り組んでいる。>

著者とは一度会ったことがある。2019年12月13日、淑明女子大学で開かれたシンポジウム「ヘイトスピーチと歴史否定」だ。私は「ヘイト・スピーチを受けない権利――日本のヘイト・スピーチの現状」を報告し、著者は「韓国の歴史否定罪の議論と歴史否定罪法案についての批判的検討」を報告した。

その様子については、前田朗「日韓ニューライトの「歴史否定」とは」『部落解放』2020年2月号に次のように書いた。

 「ホン・ソンスによる報告「韓国の歴史否定罪論議と歴史否定罪法案に対する批判的検討」は、特筆すべき貴重な理論的貢献である。

 歴史否定罪とは、「アウシュヴィツの嘘」処罰に代表されるように、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害をはじめとする歴史的事実を公然と否定する発言を犯罪とする類型である。日本ではドイツの特殊ケースであるかのごとく誤解されてきたが、フランス、オーストリア、スイス、ベルギー、スペイン、ポルトガルをはじめ欧州20数カ国に同様の犯罪規定がある(前田朗『ヘイト・スピーチ法研究序説』第10章、及び前田朗「『記憶の暗殺者』との闘い」『救援』597~601号参照)。」

 韓国では、2005年8月に「日帝強占下での民族差別擁護行為者に対する処罰法案」が、日本の戦争・戦争犯罪を称賛し、正当化する内容で歴史的事実を捏造し流布する行為を犯罪とする提案であった。その後も2014年6月、「日帝植民地支配擁護行為者に対する処罰法律案」が国会に提出された。同様の法案が何度も国会上程されたという。それだけにホン・ソンスの研究の水準は非常に高い。日本ではこれだけのレベルの研究を見ることはできない。

 シンポジウムの時に、ホン・ソンスのヘイト・スピーチ研究についても少しだけ聞くことができたが、それが本書のことであった。

 なお、康誠賢『歴史否定とポスト真実の時代』(大月書店、2020年)の200頁に、このシンポの様子が少し紹介されている。

本書は一般向けの入門書だが、理論水準は非常に高い。日本では、かつて師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』(岩波新書、2013年)が入門書でありながら、研究水準を一気に数段階引き上げたが、韓国では本書が同じ位置にあるのだろう。

本書は第1に、ヘイト・スピーチの基礎知識をていねいに解説している。重要なのは、ジェノサイドやヘイト・クライムとの関連、表現の自由との関連を十分配慮しながら、ヘイト・スピーチの本質と定義を明らかにし、その法律論を展開するための前提をきっちりおさえていることだ。

2に、本書は韓国における事例をもとに具体的な事実に即して、問題の広がりと深さを徹底的に明らかにして、いま、なぜ、この議論をしなくてはならないのかを十分に明らかにしている。射程の広さと分析の深さは見事と言って良い。

3に、国際人権法の最新の水準を十分に踏まえている。国際自由権規約や人種差別撤廃条約だけでなく、ラバト行動計画や、国連ヘイト・スピーチ戦略も踏まえて議論している。このレベルの議論をしてきた研究者は日本でもほんのわずかしかいない。

4に、本書は比較法の知見も十分に踏まえている。ヘイト表現に対する刑事規制がある国として、ヨーロッパで26カ国、南北アメリカで5カ国、その他で5カ国を列挙している。日本ではアメリカやドイツやフランスに言及するのがせいぜいである。日本の多くの憲法学者は「世界には日本とアメリカしかない。他の国を参照することは認めない」と言っているかのようである。私は世界の150カ国を紹介してきた。

著者は国際人権法と比較法を十分に参照しているが、「国際人権法や比較法ではヘイト・スピーチを処罰するから、韓国でも処罰するべきだ」と主張しているわけではない。同様の意図的な誤解が私に差し向けられてきたが、私は「ヘイト・スピーチは深刻な被害を生むから、日本国憲法の精神に従ってヘイト・スピーチを処罰する」と主張してきた。韓国と日本では法状況が異なるが、ヘイト・スピーチがもたらす害悪、その本質を基に議論を展開している点は著者も私も同じである。