Wednesday, August 04, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(183)c ヘイトをとめるレッスン

ホン・ソンス『ヘイトをとめるレッスン』(ころから、2021年)

レッスン6 ヘイト表現が憎悪犯罪を生む

レッスン7 ヘイト表現と歴史否定は関係するか?

レッスン8 ヘイト表現と闘う人びと

レッスン9 米国ではヘイト表現の自由がある?

レッスン10 「禁止か許容か」の二者択一をこえて

ヘイト・スピーチは単なる表現ではなく、暴力であり、暴力と差別の煽動である。より過激な暴力につながる。ヘイト・スピーチはヘイト・クライムを生む。ヘイト・クライムのもっとも重大深刻なケースがジェノサイドや人道に対する罪である。著者はこのことを十分に理解して議論を組み立てる。

他方、「アウシュヴィツの嘘」「歴史否定」についても検討を加えている。西欧諸国では多くの場合、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺をはじめとするジェノサイドや人道に対する罪の事実を否定したり、正当化する発言が処罰される。国によってはヘイト・スピーチとして処罰する。国によっては独立の犯罪類型としている。

2019年12月13日、淑明女子大学で開かれたシンポジウム「ヘイトスピーチと歴史否定」で、著者は「韓国の歴史否定罪の議論と歴史否定罪法案についての批判的検討」を報告した。著者は「ドイツ、オーストリア、フランス、チェコ、ポーランドなど14カ国にはホロコースト否定を処罰する明示的な立法がある」という。私は20数か国で処罰すると紹介してきた。ベルギー、ブルガリア、クロアチア、キプロス、ギリシア、ハンガリー、イタリア、ラトヴィア、リトアニア、ルクセンブルク、マルタ、ポルトガル、ルーマニア、スロヴァキア、スロヴェニア、スペイン、マケドニア、欧州以外ではイスラエル、ロシア、ジブチにもある。

韓国では、日本の植民地支配を称賛したり、5・18光州民主化運動を歪曲する発言を処罰するための立法提案がなされてきたという。それだけに著者も他の研究者もこの犯罪について研究を深めてきた。日本よりも研究が進んでいる。著者は韓国で歴史認識について問題発言が相次いでおり、それらに対処する必要性を指摘するが、だからと言って、処罰する法律が必要かどうかは慎重に検討する必要があると見ている。

たしかに、日本の植民地支配を称賛する発言を、韓国で処罰する必要はないだろう。立法事実保護法益の設定、被害の認識をきちんと検討すれば、立法の必要性が高いとは言えない。むしろ、日本でこそこの法律が必要だ。しかし、十分な議論がなされていない。

ヘイトと闘う人びとについて、著者は国際人権法の要請を確認した上で、国際人権法を実現しようとする闘いを取り上げる。世界各国のヘイト表現禁止法に打ついて、欧州の26カ国、南北アメリカの5カ国、その他に5カ国を挙げる。これだけ多くの国を指摘しているのは、日本にはいない。

著者は日本のヘイト・スピーチ解消法を紹介し、そこに至るカウンターの活動にも言及する。著者は、欧州ではヘイト・スピーチ処罰が標準となっており、日本でもヘイト・スピーチ対策が始まっているのに、韓国では進んでいないという。

私は、日本よりも韓国の方が対策をしているのではないかと思っていた。というのも、刑法の侮辱罪の解釈が、集団侮辱罪を認めていると聞いていたからだ。朴裕河の『帝国の慰安婦』が、日本軍性奴隷制被害者であるハルモニを侮辱したとして告発され、実際に立件された。韓国刑法について知識のない私は、侮辱罪の規定について集団侮辱罪を認めるのであれば、韓国では一定のヘイト・スピーチを刑事規制していると言えると理解していた。これはドイツと同じである。ドイツの侮辱罪の解釈は、同じ一つの規定で、個人侮辱罪とともに集団侮辱罪の成立を認めている。韓国も同じだろうと思っていた。他方、日本では、同じような侮辱罪の規定なのに、個人侮辱だけを処罰し、集団侮辱は処罰しないと解釈されてきた。個人に対する名誉毀損の成立は認めるが、集団に対するヘイト・スピーチの成立は認めないのと同じである。

本書で、著者は、韓国における侮辱罪の解釈に言及していないので、この件はこれ以上は分からない。

著者の「二者択一」をこえて、という思考はとても重要である。

日本では「ヘイト・スピーチの処罰ではなく、教育を」「処罰ではなく、対抗言論を」「処罰ではなく、被害者救済を」という主張がよく出て来る。私は、あれかこれかという「二者択一」思考を批判してきた。

著者は、ヘイト・スピーチ対策のために表現の自由を増進することが必要であり、刑事規制とともに環境形成が必要という。環境形成とは反差別政策、教育、広報、マイノリティ支援であり、民事規制や行政規制も含まれる。要するに総合的な反差別政策である。賛成である。日本でも同じことを主張してきた。

ところが、日本の一部の論者は、いまだに「処罰ではなく、教育を」「処罰ではなく、対抗言論を」と奇妙な「二者択一念仏」を唱える。

それでは、いかなる教育をどのように実施して、いつまでにヘイト・スピーチ対策の成果を期待するのか。具体的な方策を知りたいと何度要求しても、その具体的な方策を提案した論者はいない。「刑事規制ではヘイト・スピーチはなくならない。教育こそ重要」と主張するのなら、「教育でヘイト・スピーチをなくす具体策」を提案する責任があるが、責任意識のかけらもない。教育とはいかなる教育なのか。初等教育なのか社会教育なのか。担い手は誰か。いかなる教育課程と教材なのか。教育によっていつまでに差別を減らすのか、ヘイトをなくすのか。それを明らかにしようとしない。

私は、西欧や北欧ではどのような反差別教育を実践しているのかを紹介してきた。「処罰ではなく、教育を」論者は、諸外国の実践の紹介もしない。

いま現に起きているヘイト・スピーチを止めるには刑事規制が不可欠だ。長期的にヘイトを減らすために教育も重要だが、教育でいま現在のヘイトを減らすことはできない。「処罰ではなく、教育を」という主張は「ヘイトを野放しにしよう」という意味でしかない。

対抗言論はとても重要である。現にヘイト・スピーチ処罰論者はさまざまな対抗言論を実施してきた。論文で新聞でTVで講演会で、繰り返し何度も対抗言論を行ってきた。ヘイト・デモの現場で「死ね」「殺せ」と罵声を浴びせられながら、カウンターを行ってきた。

だが、悪質なヘイトに対して対抗言論で対応するには限界がある。ヘイト・デモが集会の自由とされている日本では、カウンター側が逮捕されてきた。警察がヘイト集団を守ってきた。

「死ね」と叫んで体当たりしてくる相手に対して、いかなる対抗言論が可能なのか。「処罰ではなく、対抗言論を」と主張するのであれば、現場で実際にどのようにするのか、模範を示してもらいたい。そう要求しても、応答しようとしない。

「二者択一」思考の無責任さは明らかである。教育を、対抗言論をと言いながら、実際には何もしないからだ。ヘイト対策の教育を研究し、提案するのではなく、ヘイト規制に反対することだけを目的にして教育を口実にしている。

韓国でも同じ状況があったようで、著者は「二者択一」ではなく、総合的な差別対策の重要性を指摘している。的確である。