間庭大祐「ヘイトクライム、あるいは差別の政治化について――アレントの全体主義論からレイシズムを考えるための試論」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)
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間庭は、2013年2月の大阪・鶴橋における「鶴橋大虐殺」発言に「理解しがたいほどのイマージナルで虚構的な性質」を感じ取り、「死」を語る非現実感に戦慄を覚え、20世紀の暴力を全体主義の悪夢と受け止めたアレントの戦慄になぞらえる。そこで暴力としての人種差別を、アレント的な思索により解明しようとする。
ナチスドイツによるユダヤ人絶滅政策が受け入れられてしまった原因を、アレントは、暴力の道具的性格に見出す。「道具はそれを使用する人間の講師によってはじめて暴力となる」ので、正当な目的であれば暴力があたかも正当であるとみなされることがある。
間庭によると、「暴力が人間の人間に対する感覚麻痺を伴った関係切断――人間と『物』との二分法――によって為されるものである以上、人種差別主義はまったく暴力的である。」
その暴力行使を正当化する原理が問われなければならない。それがイデオロギーであり、イデオロギーとしての差別が猛威を振るうことになる。
イデオロギーとしての差別は、アレントの主題では政治的反ユダヤ主義のことである。20世紀の反ユダヤ主義が汎民族運動のうちに現れている。自民族にとって都合の良い仮想現実を提供してくれるのが、反ユダヤ主義である。これがのちに全体主義に継承される。「差別の政治化の極限状態としての全体主義」に目を移す必要がある。
間庭によると、全体主義のイデオロギーは似非科学的な支配装置にほかならないが、イデオロギーは人々に<超意味>をもたらす。「経験としての強制収容所の核心」をアレントは「世界の無意味性」に見出す。それは「自己の無用性」を意味することになるので、世界の意味を見失い、実存的苦境に立たされた人々は、<超意味>に吸引される。
「見捨てられた人間」――「他者との共同性から見捨てられ無世界であるがゆえに、虚妄な世界観あるいはすべてを説明し尽くしてくれるかのようなイデオロギー的<超意味>に頼らざるをえず、きわめて能動的に自己の観念へ閉じこもる」人間。これがテロルへの回路を開く。
間庭は次のように述べる。
「こうした極限的な差別の政治化は、排除し抹殺すべき『内部の敵』を意識的かつ能動的に創出しなければならない原理と構造を内包している。イデオロギー的『プロセス』に飲み込まれた人間はさらに現実から逃避し、イデオロギー的世界観から生まれる自己観念を養うために、常に自分の憎悪の対象を生産し続けねばならなくなるのである。こうなれば、もはや『ユダヤ人』が現実的に何であるのかはまったくどうでもよいことになる。というのも、あくまで『ユダヤ人』は差別の政治化のためのシンボルにすぎなくなるからである。そうであるがゆえに、彼らは『ユダヤ人』を絶滅させると次の格好の餌食を見つけ出し、限りなく『プロセス』を維持し続ける。差別の政治化の最終地点は、人類の絶滅なのである。」
アレントはこうした20世紀の暴力経験を乗り越えるために、「複数」の人々による世界の共有を、他者とのコミュニケーションを通して、自分を創造しなおすことに見る。
間庭の言葉では「自己観念への逃避を自覚的に拒否することであり、人間一人ひとりの『かけがえのなさ』への想像力を保つこと」とされる。
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アレントの『全体主義の起源』は何度か読みかけたが、結局、通読できないままである。アレント研究はずいぶんたくさん出ているので、いくつか読んだが、新書レベルの解説にとどまる。現代思想における最重要の思想家であると思うが、自分できちんと読めていない。
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間庭の思索は、20世紀の暴力経験をいかに乗り越えるかに向けられており、生産的な議論だ。欲を言えば、差別の歴史的構造的な文脈とイデオロギー的な文脈を、もっと明確に接合して展開してもらえると良いなと思う。間庭としては、それは十分配慮した上でのことだろうが、読者の問題意識が、個人の「想像力」の問題に限定される恐れはないだろうか。もっとも、それは読者が自分で考えるべきことかもしれない。