松本卓也「レイシズムの精神分析――ヘイトスピーチを生み出す享楽の論理」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)
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松本は2つの論点を提示する。
「ひとつは、レイシズムが生み出すメンタルヘルス上の被害とそれに対する心のケアの問題であり、もうひとつは、ヘイトスピーチやヘイトクライムを行うレイシストの心理の問題である。」
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前者について、松本は精神状態の悪化やうつ病、PTSD、さらには覚せい剤依存やアルコール依存などを指摘する。海外では研究があるが、日本では「まともな研究がほとんどなされていない」という。松本は、ジャーナリストの中村一成や弁護士の師岡康子を引用する。メンタルヘルスの研究がないためだ。この点について、松本らは調査中であり、その結果は今後公開されると予告する。
私の『序説』第4章「被害者・被害研究のために」の「第3節 ヘイト・クライムの被害」では、アメリカにおけるヘイト・クライム研究における被害論を紹介した。その後、日本でも実態調査が徐々に進んでいるが、まだまだ不十分である。理論研究もこれからだ。松本らの研究が公開されるのを待ちたい。
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松本論文は、後者の問題――レイシストの心理に向かう。ただし、個人のパーソナリティ問題に還元することなく、それがなぜレイシズムという形で噴出するのかを明らかにしようとする。
そこで松本は、フロイトとラカンの精神分析におけるレイシズム研究を参照する。その上で、特に享楽の論理に焦点を当てる。
「ラカンがレイシズム論に付け加えた重要な寄与は、レイシズムを享楽の病理として捉える際に、そもそも自らの享楽が本質的に<他者>の享楽によってしか位置づけることができない、という逆説の存在を強調したことである。」
私たちの享楽はあらかじめ失われているのに、「この享楽の不可能性は、『どこか他のところに十全な享楽を得ている人物=<他者>が存在している』という空想を生み出してしまう」という。
「そこから、『私が十全な享楽に到達できないのは、この人物が私の享楽を盗んだからだ』という結論が引き出されるとき、そこにレイシズムが生まれる」。
ドイツ人がユダヤ人による盗みや裏切りを非難し、日本人が在日朝鮮人の「特権」を非難するように、享楽の盗みを他者に帰責することで、自分の責任を全面解除し、他者への攻撃を容易にする身勝手な理屈だが、これはある意味「魅力的」なアイデアである。だから、この罠から逃れることが難しくなる。
松本は次のように述べる。
「グローバリゼーション下における私たちの享楽の論理は、複数の享楽のモードの共存を許しつつも、単一の享楽のモードを『理想』とし、その他の享楽のモードを排斥してしまう可能性――すなわち、レイシズムの可能性――をつねに内包させているのである」。
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ただし、これだけが結論となるべきではないという。松本は最後に次のように付け加える。
「だが、これは精神分析によるレイシズム論の最後の言葉ではない。享楽の多文化共生の不可能性という居心地の悪い結論が、私たちの存在論的条件をなす享楽の論理から生じているとすれば、精神分析は、グローバリゼーション下で顕著にあらわれる自分とは異なる享楽のモードにいかに煩わされずにすますか、自分自身の享楽の(不)可能性といかに付き合っていくかを考える上できわめて重要な実践となることであろう。」
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失われた享楽の論理が、ヘイト・スピーチやヘイト・クライムのメカニズムを示してくれることはそれなりに理解できる。植民地主義や国民国家という歴史的構造的な局面とは別に、パーソナリティに即して、レイシズムを分析する際の一つの視点としておもしろい。享楽の論理を超えるための論理を、松本の次の論文に期待したい。