百木漠「『左翼的なもの』への憎悪」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)
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1 憎悪の転移
2 「左」から「右」へ
3 「置き去りにされた人々」からの反撃
4 「戦後」体制の反転
5 結語
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ネット上の議論が、しばしば「知識人」や「左翼」への反発と憎悪をたぎらせ、感情的に爆発していることはずっと以前から指摘されていた。メーリングリストで議論が始まった時期にも顕著だったが、その後、ツイッターをはじめとする「瞬時」の投稿スタイルが定着するようになり、ポピュリズム、炎上、フェイク全盛となり、事実も論理もお構いなしの罵声が飛び交うようになった。「左翼」への嘲笑や猛攻撃が常態化している。もっとも、そこで「左翼」とされているのが何であるのか、実態としてはイメージしにくく、現実離れのした、どうでもよい議論という印象があった。とりあえず、見る必要はないし、見ても時間の無駄であることだけははっきりしている――と考えるのが普通だろう。
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百木は、単に時間の無駄であるとは考えず、「左翼的なもの」への憎悪が存在するのであれば、それはどのような憎悪なのか、どこから、なぜ生まれてくるのかを分析しようとする。メディアの在り方が大きく変化し、オンライン・メディアが世論を形成し、政治・社会・経済に多大の影響を与えている現在、どんなにくだらないと思われる意見であっても、否、くだらなければくだらないほど、事実を無視すれば無視するほど、そしてフェイクであれヘイトであれ陰謀論であれ、現実に多大の影響力を有するのだから、きちんと分析する必要がある。なるほどと思うが、私にはできない仕事だ。
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百木は、「昨今のヘイトスピーチを支えているのは、在日の人々への直接的な憎悪であると同時に、より広範な『左翼的なもの』に対する敵意でもある。この両者が混ざりあうことによって、互いの憎悪がさらに増殖・拡散され、もはや現実の在日の人々に対する批判・非難としてほとんど実態をなさないところにまで、『在日』バッシングが膨れ上がってしまうという構造が形成されているのである。」という。
さらに「このような『憎悪』の歪んだ構造は、間違いなく戦後日本の特異な言説空間に由来するものである。日本のヘイトスピーチ問題が、西洋的なレイシズム(人種差別)の観点だけからでは解けない理由はそこにある」という。
こうした問題意識から、百木は、1982年生まれの自身の生育史や経験を基に、過去20年ほどのヘイトの歴史をフォローし、「価値観の反転」を確認する。そのうえで、百木は欧米諸国のヘイト現象においても、「左派・リベラル側の問題」を焦点化する。百木にとって、ヘイトはヘイト側の問題ではなく、「左派・リベラル側の問題」になる。
百木は日本における「価値観の転換」」を1990年代における「日本の『戦後』体制の実質的な終焉」に求める。
この状況を克服しなければならないが、百木は「厄介なことに、左翼的な人々がヘイトスピーチの『正しくなさ』を強調すればするほど、右翼的な人々はそれに対する反発を強め、いっそうヘイトスピーチ的な言動を強めていくという悪循環の構造がある」という。
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百木の問題意識を、私は共有していないため、論理をすんなり理解することができていない。
日本におけるヘイト・クライムとヘイト・スピーチには150年の歴史があり、戦後日本社会においても構造的な差別の下で継続してきたので、1990年代の「日本の『戦後』体制の実質的な終焉」を焦点化する理由もよく理解できていない。
私の理解では、ヘイトは「左派・リベラル側の問題」ではなく、ヘイト側の問題である。百歩譲っても、ヘイト側と被害者側を含んで形成されている日本の歴史的制度的な差別構造の問題である。「右派」と「左派」の非難合戦は、どうぞご自由にというしかない。そこにマイノリティを巻き込んで、マイノリティにヘイトを浴びせる加害をやめてほしいだけである。それは「ヘイトスピーチの『正しくなさ』」という話ではなく、人権侵害であり、犯罪であるという話である。犯罪を処罰するべきであるということは、「左派」か「右派」かとは関係ない。EU諸国では、ヘイト・スピーチを処罰するのが常識である。
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とはいえ、百木の言う通り、メディアにおいては「左派・リベラル」への憎悪が言説を規定しているように思える。それがフェイクやヘイトと結びついているのも、なるほどそうだろうと思う。その意味では、百木のような分析が必要なのだろう。