遠藤正敬「国籍と戸籍」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)
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日本における差別の動機(根拠)として主要なものが国籍と戸籍である。外国人差別は国籍による差別であり、女性差別や部落差別は戸籍に関連して行われた。このことはずっと以前から指摘され、その批判をする思考もよく知られてきた。国籍と戸籍の結びつきもそれなりに知られてきた。遠藤は、日本的差別の根拠となる国籍と戸籍の連関を主題に据える。
遠藤は『戸籍と無戸籍』(人文書院)、『戸籍と国籍の近現代史』(明石書店)の著者である。
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1 差別の温床となる戸籍
2 旧植民地をめぐる国籍問題
3 戸籍における“排外主義”
4 戦後における戸籍の“純化”
5 今なお残る国籍の壁
6 おわりに
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戸籍については知っているつもりになっていたが、「日本の植民地統治における国籍と戸籍の関係」の複雑な経過(朝鮮、台湾、樺太)の差異はきちんと知らなかった。遠藤は国籍と戸籍による管理・統合・排除のメカニズムをていねいに説明している。
「戸籍は“排外主義”をそのひとつの主柱」としている。つまり、国家による排外主義である。壬申戸籍に始まる家制度と不可分の戸籍は、「制度としての家が日本国家の基盤とされ、日本人は必ず一つの家に属することが求められた」という。知っていたことだが、その意味を正確に理解していたわけではない。遠藤によると「まさしく家=戸籍は日本人にしか生存を許さない空間なのであった」。
戦後においても1952年通達から1959年通達にかけて、「国民国家の再編」、旧植民地出身者の排除、外国人の排除が進み、その下で「日本国民」が再構築された。
1981年の難民条約加入により部分修正がなされたものの、基本法制に変化はなく、いまなお「日本国民」は独自の国籍と戸籍の枠内に幽閉され、外国人排除を当然とする思考様式に捕らわれている。反差別の運動にかかわる市民であっても、国籍と戸籍の閉鎖空間から逃れられるわけではない。
「戸籍は、民族、文化、ジェンダーといったさまざまな差異をもつ個人のアイデンティティをその硬直した規格に押し込んで『日本人』として画一化するものである。その規格への適合を拒む者は『まつろわぬ者』や『非国民』として貶められる。かくして日本国家への同調圧力がつくり出されている。これが戸籍のもつ権力性をもってきた。」
なるほど、その通りと思う。遠藤はさらに次のようにまとめる。ここが重要だ。
「レイシズムの厄介なところは、『国民』という表装的な同質化を強要する裏面で、その内なる『血』をも取り沙汰して排撃する点である。戸籍は出自にまつわる境界線を『日本人』のなかに設定し、かつ公示することによって社会的な差別や格差を再生産する効果をもってきた。これは支配権力が国民を階層的・分断的に統治するという目的に役立ってきたものといえよう。」
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国籍と戸籍の壁と同時に、日本国家は「外国人登録」というシステムを構築した。そこにおける「朝鮮籍」の複雑な歴史は、日本国家の人民支配の特質を浮き彫りにする。出入国管理も含めて、その全体を見据えることで、日本国家が見えてくる。
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歴史学の真髄に触れる01 『歴史のなかの朝鮮籍』
https://maeda-akira.blogspot.com/2022/02/a.html