隅田聡一郎「資本主義・国民国家・レイシズム――反レイシズム法の意義と限界」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)
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『マルクスとエコロジー』(堀之内出版)の著者・隅田は、レイシズムと国家の関係について「マルクスの資本主義分析の観点」からの議論を試みる。
隅田は、伝統的マルクス主義においては国家を資本家階級の「道具」として規定し、上部構造としていたこと、これに対して唯物論的国家分析によると、国家は特定の社会関係が帯びる「形態」と把握されるという。「国家装置」と見るか、「権力関係」とみるかの違いが生じる。
だが、「国民国家とレイシズムの関係を考察するためには、資本主義の政治的形態に関する抽象的分析を具体的に発展させなければならない」。レイシズムをたんにイデオロギー装置と見るのではなく、「レイシズムの近代的形態を資本主義国民国家の政治的形態として把握すべきである」。
隅田はより具体的に考察するために、「国家の歴史社会学」の知見を応用し、「国家の社会化」において、人間身体が生―権力の対象として「人種化」され、生と死を切り分けるレイシズムが国家機能に組み込まれると、ミシェル・フーコーを援用する。
近代国家におけるレイシズムの発現形態や機能は、国によりさまざまであり、隅田は、戦後の日本では、東アジアのポストコロニアル諸国家システムのもとで「一九五二年体制(出入国管理令、外国人登録法、法律第一二六号)」として独自のスタイルで形成・確立したという梁英聖の議論を引用する。
梁英聖『レイシズムとは何か』について
https://maeda-akira.blogspot.com/2021/03/blog-post_8.html
国家がレイシズム暴力に対してどのような行動、対策をとるのかが重要だが、隅田によると、「そもそも、資本主義国民国家が、反レイシズム実践に強制されることなく、レイシズム暴力およびレイシズム実践を積極的に禁止・抑制することなどありえないのだ。つまり、資本主義国民国家は、反レイシズム法及び規範が埋め込まれた公民権法を絶えず骨抜きにし、レイシズム国家としての形態規定性を貫徹させようとする」という。
このように冷静に認識しつつ、国民国家に反レイシズム対策を取らせる法理と運動、実践の組織化が重要となる。
隅田はアメリカの公民権法の歴史をたどり、紆余曲折にもかかわらず、アメリカ流の反レイシズム実践が持った意味を確認する。
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これに対して、日本はICERDが求める反レイシズム法を持たず、拒否をあらわにしている。その理由を、隅田は、岡本雅享に依拠して説明する。第1に、反レイシズム運動の脆弱性であろ。第2に、日本型企業社会である。
なるほど、とも思うが、運動の力量不足と企業社会に理由があるとすると、日本国家のせいではなく、政治の責任が解除されてしまうようにも読める。隅田はそういうつもりではないだろうから、最大の理由は「資本主義国民国家のレイシズム国家としての形態規定性」にあるという前提の上での議論だろう。
資本主義、国民国家、レイシズムの関係については、的場昭弘『19世紀でわかる世界史講義』でも論じられている。
https://www.njg.co.jp/post-37596/
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本書第一部には、これまでに紹介した兼子歩、松本卓也、隅田聡一郎の論文のほかにも、マイクロ・アグレッションに関する金友子、レイシズムの社会心理学に関する高史明、差別の哲学に関する堀田義太郎の論文が収められている。後3者の論考・テーマについては、私の旧稿で言及したことがあるが、いずれも学ぶことの多い研究者である。兼子、松本、隅田の論文は初めて読んだが、やはり勉強になった。
6本の論考を読んでの最初の感想は、よくこれだけ多彩で、有益かつおもしろい論考を集めたものだということだが、続いて、6本の論考がそれぞれ独自に、もっと端的に言えば、無関係に並んでいることには、不思議な思いもした。「共同研究」ではなく、偶然的に『図書新聞』に連載された論考を再整理・編集したのでやむを得ないだろうが。いずれにしても、これだけ多方面からレイシズムに光を当てている点は、驚くべきことだろう。ここから次々と、多彩で素晴らしい研究が始まるのだろう。