Tuesday, April 13, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(171b)憲法と憲法学との微妙な関係(2)

榎 透「日本におけるヘイト・スピーチ対策に関する一考察」『専修法学論集』第138号(2020年)

前回は榎論文における前田批判の内容を紹介した。いちおう3つの論点に分けておいたが、ポイントは「憲法」とは何かであり、「憲法学」とは何かである。今回はもう少し踏み込んで、榎に教わりたいことを書いてみる。

私が「日本国憲法に従ってヘイト・スピーチを刑事規制する。」と述べているのは、憲法前文、第12条、第13条、第14条、第21条に基づいてヘイト・スピーチを処罰するという考え方である。このことを何度も明示してきた。私は『ヘイト・スピーチ法研究序説』第1章及び第8章、『原論』第4章などで、ヘイト・スピーチの憲法論を取り上げ、論じてきた。その骨子を確認しておこう。

1に民主主義論である。民主主義とレイシズムは両立しない。レイシズムは民主主義を破壊する。ヘイト・スピーチは他者の殺害や排除を主張し、民主主義の基盤を損なう。民主主義を守るためにヘイト・スピーチの何らかの規制が必要である。

(なお、私は人間の尊厳を重視しているが、日本国憲法にはこの概念がない。憲法論において直接、人間の尊厳を唱えるのではなく、民主主義論とセットにして考え、その上で憲法13条や14条に繋げて考えている。憲法学では、人間の尊厳を唱える論者もいれば、13条の個人の尊重や24条の個人の尊厳を唱える論者もいる。)

2に日本国憲法前文である。国際協調主義、圧迫と偏狭の除去、平和的生存権、恐怖からの自由の思想は「かつて日本による侵略戦争の被害を受けたアジアの人民が日本でヘイト・スピーチを受けない権利」を支える。憲法第9条はその具体化の規定である。

3に憲法第12条である。

「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」

4に憲法第13条である。

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

5に憲法第14条1項である。

「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」

6に憲法第211項である。

「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」

他にもあるが、ここでは以上の1~6をもとに議論しておこう。表現の自由はきわめて重要な自由である。榎も引用しているが、アメリカの憲法学者エマーソンは、人格権や民主主義論から表現の自由の重要性を論じている。私も賛成である。表現の自由は民主主義の発展に不可欠であり、重要である。民主主義を否定し破壊するヘイト・スピーチは表現の自由に反する。特にマジョリティがマイノリティを攻撃することによって、マイノリティの表現の自由が剥奪される。

それゆえ、憲法第12条が自由及び権利の濫用を戒め、「公共の福祉」を掲げ、「責任」について言及している。表現の自由には責任が伴うことを私は何度も強調してきた。同時に私は憲法学者の表現の自由論には責任論が欠落していると指摘してきた。

憲法第13条も「公共の福祉に反しない限り」と明示して、公共の福祉による表現の自由の制約を明示している。

憲法第14条は法の下の平等と差別の禁止の2つを掲げる。多くの国の憲法ではどちらか1つを掲げるが、日本国憲法は両方を掲げる。それだけ重要と考えるべきだ。金子匡良は「差別されない権利」を唱えている。

https://maeda-akira.blogspot.com/2019/02/blog-post_23.html

憲法前文、第9条、第14条を体系的に考えれば、「アジアの人民が日本で差別されない権利」「アジアの人民が日本でヘイト・スピーチを受けない権利」を想定することができる。

憲法第211項の意味も以上の文脈で考えるべきである。かつて、日本のマスコミは表現の自由を濫用して、侵略戦争を煽り、民族差別を煽った。このことを反省して憲法前文、第9条、第14条ができている。

同様に、憲法第21条も、すべての市民の表現の自由を保障しているので、「日本国民だけの表現の自由を保障する」考え方を採用するべきではない。マジョリティの表現の自由の優越性を強調してきたのが憲法学の主流である。表現の自由を「マジョリティの表現の特権」と置き換えてはならない。むしろ、「マイノリティの表現の自由の優越的地位」を保障する方策を考えることこそが憲法学者の任務であろう。表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを処罰するべきである。

以上のことから、日本国憲法の立場はヘイト・スピーチの刑事規制を求めていると理解するべきである。これが私の主張の骨子である。

それでは榎はどのように主張しているだろうか。

榎は、第1に国際人権ではなく、憲法上の人権に限定する。規制が憲法上許されるための条件を明らかにしようとする。第2に、「憲法の規定を基準」にすると述べる。第3に、「日本国憲法の表現の自由に基づく種々の検討事項(Ⅰ2を見よ)を考慮」する必要性を強調する。この限りでは、私もとりたてて異論をはさむ理由がない。

私が疑問を抱かずにいられないのは、榎が憲法第21条の表現の自由だけを論じていることである。

1に、榎は民主主義について一定の言及をしているものの、民主主義とヘイト・スピーチの関係について言及しないように見える。榎はヘイト・スピーチを容認することが民主主義の発展に資すると考えているのだろうか。この点は後述する。

2に、榎はなぜ日本国憲法前文に言及しないのだろうか。国際協調主義、圧迫と偏狭の除去、平和的生存権、恐怖からの自由をどのように理解しているのだろうか。日本国憲法前文には憲法の精神、主たる思想が明示されているのであり、各条文の解釈の指針の一つと考える私は間違っているのだろうか。

3に、榎は憲法第12条に言及しない。自由及び権利の濫用の戒め、「公共の福祉」、「責任」についてどのように理解しているのだろうか。

4に、榎は憲法第13条に言及しない。「公共の福祉に反しない限り」と明示していることをどのように理解しているのであろうか。

5に、榎は憲法第14条に言及しない。「差別されない権利」をどのように考えているのだろうか。

以上のうち「公共の福祉」については、榎も言及している。

「これに対して、判例はアメリカ法由来の明白かつ危険の基準やブランデンバーグ法理を用いていないので、日本のヘイト・スピーチ規制を考えるうえで考慮する必要はないとの指摘があるかもしれない。しかし、判例のように『公共の福祉』という簡単な理由付けで煽動の処罰を合憲とする立場に立つとしても、煽動したときに重大犯罪を引き起こすよう具体的な危険がなければ、当該煽動を処罰できないと考えられている。」(榎論文22頁)

榎の見解は、第1にアメリカ法由来の法理を参照するべきだ、第2に、判例はその法理を採用してないので批判すべきである、第3に、判例の立場に立っても「公共の福祉」があれば刑事規制できると見るべきではなく、具体的危険が必要であるという意見がある、というものであろう。

確認しておくべきことは、憲法第12条も第13条も「公共の福祉」を明示しており、最高裁判例もこれを適用しているにもかかわらず、榎は公共の福祉の適用に批判的であり、アメリカ由来の法理こそ正当と考えつつ、仮に公共の福祉によるとしても一定の限界づけが必要としていることである。

「憲法の規定を基準」とするはずの榎は、なぜ憲法第12条も第13条も無視し、「公共の福祉」に違和感を表明しているのだろうか。

もちろん公共の福祉があれば刑事規制できるとするのは乱暴であり、公共の福祉概念の精密化が必要であること、その適用の仕方についてなお議論が必要であることは当然である。とりわけ表現の自由の重要性に鑑みて、検討すべき課題が多いことはもちろんである。それはここでの論点ではない。

ここでの論点は、榎が、憲法第12条と第13条に明記されている概念を否定的にしかとらえていないように見えることである。私の誤読だろうか。

民主主義についても2点、確認しておきたい。

1に、私が「日本国憲法に従ってヘイト・スピーチを刑事規制する。表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを規制する」と主張するのに対して、榎は「彼(…前田のこと)の見解を理解しようとすれば、それは日本国憲法の表現の自由を、ドイツの採用する『戦う民主主義』のように<自由の敵には自由を与えない>…というもの(あるいは、それに類似するもの)であると考えることになろうか」と述べる。

なぜ、ここでドイツの「戦う民主主義」が引き合いに出されるのか、私には理解できない。私の『序説』第7章及び第8章では、ヘイト・スピーチを処罰する法制を持つ国を120カ国ほど紹介した。『原論』第7章でも多くの国を紹介した。正確に数えていないが、最近は150カ国にヘイト・スピーチ規制法があると主張している。国連加盟国は193カ国である。150カ国にヘイト・スピーチ規制法があるのは、民主主義と人間の尊厳を守るためであり、差別被害を適切に認識しているからであり、国際人権法の要請だからである。榎はなぜドイツの「戦う民主主義」を持ち出すのだろうか。

2に、民主主義の内実に関わることだが、民主主義とレイシズムは両立しない。レイシズムは民主主義を破壊する。国連憲章や戦後の国際人権法においては、レイシズムやファシズムは民主主義を損なうと見るのが常識である。どのような民主主義観を取ろうとも、それが民主主義である限り、以上のように考えるべきであろう。この理解は間違っているのだろうか。

ヘイト・スピーチにも多様性があるが、世界でもっとも深刻でもっとも多く発生しているのが「人種主義レイシズム」であり、その具体的現象形態として人種主義動機に基づくヘイト・クライム/スピーチがある。この理解は間違っているのだろうか。

ヘイト・スピーチは「**人を殺せ」「**人は出ていけ」と迫害と排除を煽動する。マイノリティを迫害し、社会から排除しようと煽動する。

「**人を殺せ」と迫害し排除し差別を煽動するヘイト・スピーチを容認しておくと、その社会に民主主義は成立しない。レイシズムと民主主義は両立しない。

私の主張のどこがどのように間違っているのか、榎には具体的に指摘してもらえると助かる。