榎 透「日本におけるヘイト・スピーチ対策に関する一考察」『専修法学論集』第138号(2020年)
Ⅱ 日本におけるヘイト・スピーチ対策とその評価
1 思想の自由市場・対抗言論
2 教育・啓発
3 相談体制
4 禁止規定・罰則規定
5 「公の施設」の利用制限
6 拡散防止策
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個々の論点について、榎の具体的な論述も見ておきたい。
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1 思想の自由市場・対抗言論
(1)榎は、思想の自由市場論を採用する。ヘイト・スピーチでは当事者の対等性がないので思想の自由市場では解決しないという批判に対して、「思想の自由市場における参加資格者は当事者に限定されない」として、「マジョリティからの対抗言論も生じるはずである」「心ある者が(被害者とともに)反論すればよいのである」という(榎論文11~12頁)。
(2) 当事者の対等性がないとの肝心かなめの指摘に、榎は答えていない。ヘイト・スピーチは特定の人々の排除と迫害の煽動である。当事者の対等性のない状態をつくり出そうとする行為であり、民主主義を著しく損なう。この点に答を出さずに、「思想の自由市場における参加資格者は当事者に限定されない」というのは答えになっていないのではないだろうか。榎の考える民主主義は特定の人々を排除して成り立っているのだろうか。
(3)「マジョリティからの対抗言論も生じる」のは、当たり前である。だから私たちは実際にこの10年間、対抗言論をさまざまに実践してきた。ヘイト・スピーチ規制積極論者の多くは、論壇で、オンラインで、そしてヘイトの現場で対抗言論に膨大なエネルギーを費やしてきた。現場で発言し、身体を張って行動し、TV、新聞、雑誌で発言し、論文を書いてきた。「殺せ」「死ね」という罵声を浴びせられながら、エネルギーを消耗してきた。「殺せ」と叫び、体当たりしてくる相手に、対抗言論など意味をなさないことは自明である。
差別とヘイトに反対して発言する者には攻撃が仕掛けられる。脅迫される。オンラインで誹謗中傷される。報道されている通りである。
対抗言論と縁のない論者が「対抗言論をすれば良い」と、どうして言えるのだろうか。「殺せ」と叫び、体当たりしてくる相手に、榎はどのように対抗言論をするのか、具体的実践例を示してもらいたい。これは最優先、最大の希望である。榎にはぜひとも実例を示してもらいたい。
対抗言論は多様な形が実践された。被害者が反論できる場合もあった。第三者が批判することもあった。現場でカウンター行動も組織された。しばき隊の発想と行動は見事であった。悪質な差別に反対して立ち上がったカウンターのメンバーが逮捕される異常な国で必死の行動であった。メディアは立ち遅れた。メディアがヘイト・スピーチを批判するようになるのに数年を要した。それでもメディアがヘイト批判をするようになって、情勢は大きく変わった。解消法や地方自治体条例を実現したのは、被害者が立ち上がり、カウンターが懸命の努力を続け、それにメディアが続き、ようやく議会が動いたからである。10年がかりで動いた話であり、その間にどれだけの被害があったのか、救済がなかったのかを知るべきだ。ヘイト・スピーチに反対行動する者が次々と逮捕された現実を知る者なら「心ある者が(被害者とともに)反論すればよいのである」などと言っていられない。
(4)もう一つ、事実を書いておこう。ヘイト・スピーカーたちは、「ヘイト・スピーチではありません。政治的表現です。われわれは表現の自由を行使しています。憲法学者も表現の自由だと言っています」と叫びながらヘイト・スピーチをまき散らした。ザイトクカイの行動様式は有名である。ヘイト・スピーチを行う彼らの背中を押しているのは一部の憲法学者である。
(5)思想の自由市場論への批判は、『原論』232~235頁に書いておいた。その結論を引用しておく。
<結論として、①思想の自由市場論は検証されたことのない仮説であり、その内容は極めてあいまいであり、比喩的表現を超えるものではない。そもそも検証可能性のない理屈を仮説と称することは疑問である。②思想の自由市場論が仮に検証されても、それをヘイト・スピーチに適用することの相当性が明らかにされていない。③思想の自由市場論がアメリカにおいて採用されているとしても、日本国憲法がこの仮説を採用しているという論証がなされたことは一度もない。要するに、学問とは無縁の妄想に過ぎないのではないか。>(『原論』235頁)
榎が、私見に正面から反論してくれることを期待する。
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2 教育・啓発
(1)榎は教育・啓発について「たしかに即効性がないという側面はあるかもしれない。しかし、それでも、ヘイト・スピーチは許されないという正確な知識と理解は、学校教育をはじめ大人にも適切に行き届くことが重要であろう。」という(榎論文14頁)
教育・啓発は長期的課題として重要であり、私たちは一貫して主張してきた。
(2)しかし、いま現に行われているヘイト・スピーチへの対策としては、教育は意味をなさない。短期的課題ではない。榎は「しかし、それでも」という。ならば、どのような教育を、どのように実践するのか、そのプログラムを提示するべきである。このことを私は他の論者に要請してきた。「刑罰ではなく、教育を」と唱える論者は多い。しかし、どのような教育をどのように実施して、いつまでにヘイトを減らすのか、具体的な提案をした憲法学者はいない。
(3) 比較法研究に関心のない私だが、前田朗『ヘイト・スピーチと地方自治体』第6章(三一書房、2019年)で、反差別教育について国際人権法の要請を確認し、国際人権法の実行例としてアイスランド、フィンランド、オーストリア、アイルランド、イタリア、ポルトガル、ポーランドの反差別教育の実例を紹介して、反差別教育のあり方を論じた。榎はアメリカにおける反差別教育について紹介しないのだろうか。
反差別教育については、部落差別に関連して同和教育等の名前で実施された教育実践がある。2016年には部落差別解消推進法が制定された。さまざまな差別について、それぞれの分野での反差別教育と、総合的な反差別教育を念頭に置いた研究が必要である。
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3 相談体制
(1)地方自治体における人権相談やヘイト・スピーチ相談につき、榎は、神奈川県のヘイト被害相談の専門窓口新設に言及し、「今後のヘイト・スピーチ問題に関する相談体制のあり方を考えるうえで注目されよう」と言う。
賛成である。もっとも、ヘイトの法的位置づけがあいまいで、法的対策の具体的メニューのないまま地方自治体に相談したところで、できることは限られている。相談員もどうしたらよいのか悩むだけだろう。
(2)私は差別被害者の救済について、『ヘイト・スピーチと地方自治体』第7章で、国際人権法の要請を確認し、国際人権法の実行例としてスウェーデン、ベルギー、ルクセンブルク、ポーランド、スイス、デンマーク、チェコの差別被害者救済制度を紹介し、具体的な方策の検討を行った。榎はアメリカにおける差別被害者救済制度について紹介しないのだろうか。
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4 禁止規定・罰則規定
(1)榎は、現行法(罰則なし)、東京弁護士会の人種差別撤廃モデル条例案、川崎市条例案(後に制定された条例)を検討している。ヘイト・スピーチの禁止規定を設けること、「あおる」という煽動規定を設けること、規制範囲の明確化(何を規制するのか明確でなければならない)、第三者機関を設置する手続について論じている。
榎は「禁止規定・罰則規定を条例に設けることについては、克服すべき書店がある」(榎論文24頁)とし、「憲法との関係で緊張をはらむこれらの劇薬」と表現する。榎は「ヘイト・スピーチを社会から表面的になくすということを重視する者からすれば、このような規制手段は迅速かつ効率的なものに見えるであろう」という(榎論文24頁)。
(2)私には、「ヘイト・スピーチを社会から表面的になくすということを重視する者」という表現が何を意味するのかよくわからない。榎はなぜ具体的に批判対象を明示しないのだろうか。私を含めて、ヘイト・スピーチに反対する論者の多くは、差別をなくすために努力を続け、ヘイト・スピーチをなくすために対抗言論を駆使し、さまざまな対策を試み、法規制を提案している。その多くの論者の中に、「ヘイト・スピーチを社会から表面的になくすということを重視する者」がいるのかどうか、私には判断できない。
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(1)施設利用のガイドラインがいくつもつくられているので、榎は、川崎市その他のガイドラインを基に論じている。榎の結論は次の通りである。
「この種のガイドラインを策定するのであれば(そもそもガイドラインという形式でよいのかという問題もある)、『不当な差別的言動』の範囲、その認定の根拠や手法・基準等が明確でなければならず、そうでなければ、憲法上問題があると思われる。」(榎論文28頁)
この結論に異論はないが、私は合憲のガイドラインが十分できていると判断するが、榎は疑問視をしている点で、見解が異なるだろう。
(2)榎は「告知内容はもちろん、申請者・団体の性質及び活動歴等で判断するのは内容審査の最たるものであるし、また、ヘイト・スピーチを行った経験のある者が、次に公の施設においてヘイト・スピーチを行うとは限らない」としている(榎論文27~28頁)。
内容審査、観点規制は許されないというのが憲法学の有力説とされている。
(3)「公の施設」の利用制限問題でまず確認しなければならないことは、地方自治体が差別に加担してよいか、である。地方自治体がヘイト団体に公の施設を貸して、ヘイト団体がヘイト・スピーチを行えば、地方公共団体が差別行為に加担したことになる。利便性が高く廉価な施設を貸した場合は、地方公共団体がヘイト団体に資金援助したことになる。地方公共団体がわざわざ税金を支出してヘイト行為に加担してよいだろうか。
これにNOと唱えるのが私である(前田朗『ヘイト・スピーチと地方自治体』)。私は当たり前のことを言っていると思うが、多くの憲法学者は逆の主張をする。「地方公共団体はヘイト団体といえども公の施設を貸し出す義務がある」と主張する論者もいる(大阪市審議会報告書)。つまり、地方公共団体は差別に協力する義務があるというのだ。
憲法前文、第12条、第13条、第14条の規定から言って、地方公共団体は差別やヘイトに加担してはならないのではないか。私は長年こう唱えて、憲法学者に問いかけてきたが、規制消極派とされる憲法学者は誰も応答しない。
榎もこの問いに沈黙を貫くのだろうか。
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6 拡散防止策
(1) 榎は拡散防止策として、氏名公表と削除要請を取り上げ、まず、削除要請は可能だが、削除の強制には「憲法の規定と衝突しないような形での立法措置が必要になる」(榎論文29頁)という。
ヘイト・スピーチの削除等の対処をプロバイダーに義務付ける法律はドイツでもフランスでも既に存在する。欧州では条約化されている。榎は、そうした実例を検討することなく、アメリカ法を紹介することもなく、上記の結論を2~3行書いているだけである。
日本では、匿名のヘイト・スピーカーを特定することが困難なため、民事訴訟を提起するためにヘイト被害者が大変な苦労をしてきた。現実に起きている問題について榎の見解を知りたいものだ。
(2)
榎は次のように述べる。
「要請にせよ強制にせよ、問題の『ヘイトスピーチ』が削除されたとしても、悪質な者であればまた別のところで、インターネットを使っておそらく拡散に走る可能性がある。そうすると、別の対策を講じなければならない。」(榎論文29頁)
第1に、長年にわたって現実に起きていることを、なぜ「おそらく~~可能性がある」と書くのだろうか。マイノリティに対するヘイト・スピーチはもとより、対抗言論をする者に対する誹謗中傷も、ネット上ではあっという間に拡散される。
第2に、だから、どうなのか。榎は「削除しても、どうせ拡散されるのだから、削除は意味がない」と主張したいのだろうか。川崎市がガイドラインを作成することになった協議会報告書はすでに「どれだけ繰り返されようと、差別やヘイトにはNOと言い続けなければならない」という思想を明快に打ち出した。それが政府(国も地方自治体も)の任務ではないのか。それこそ憲法学者がするべきことではないのだろうか。
第3に「別の対策を講じなければならない。」で終わっているのはなぜなのか。「別の対策」とは何なのか、不明である。
(3) 榎は実名公表について、電気通信事業法を根拠に「現行法の枠組みでは事業者に情報提供を強制することは困難である」(榎論文29頁)という。確かに手続きを踏まなければならないが、実現できないわけではない。「困難である」で済ますべき問題ではないだろう。
ここでも問われるべき第1の問題は、プロバイダーは差別やヘイトに協力・加担してよいのか、加担・協力してはならないのか、である。この問いに答を出さないまま、手続きがどうのこうのと議論をする理由は何だろうか。