Sunday, April 11, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(171a)憲法と憲法学との微妙な関係(1)

榎 透「日本におけるヘイト・スピーチ対策に関する一考察」『専修法学論集』第138号(2020年)

はじめに

 共有されている/いない前提

 1 「ヘイト・スピーチ」という語

 2 表現の自由

 3 憲法と国際法、憲法上の人権と国際人権

 4 「効果」がある/ないという思考

 日本におけるヘイト・スピーチ対策とその評価

 1 思想の自由市場・対抗言論

 2 教育・啓発

 3 相談体制

 4 禁止規定・罰則規定

 5 「公の施設」の利用制限

 6 拡散防止策

むすびにかえて

榎はこれまで数本の論文においてヘイト・スピーチについて論じてきた。主にアメリカ憲法・判例を研究し、その理論的影響の下で日本国憲法の解釈を展開しようとするものだが、アメリカ憲法への論及が中心であって、これまで日本国憲法の下での議論を積極的に展開してこなかったように見える。本論文は、榎の「日本国憲法の下でのヘイト・スピーチ論」として重要である。冒頭に「本稿は、簡単なものではあるが」(榎論文1頁)と断り書きがあり、末尾にも「簡単ではあるが、憲法学の視点からヘイトスピーチ対策の内容と問題点を整理したものである。それぞれの条例等の包括的検討や、近年注目される学説の検討を行うことはできなかった。本格的な検討は他日を期したい」(榎論文29頁)とあるように、本論文は榎のヘイト・スピーチ論のエッセンス、あらすじを示したものである。結論が示されていても論証が省略されている面がある。結論があいまいな個所も見られる。

とはいえ、ヘイト・スピーチ刑事規制について消極論の代表格と見られてきた榎のヘイト・スピーチ論の骨子が明らかにされたので注目される。

私は『ヘイト・スピーチ法研究原論』257260頁で榎の旧論文を紹介して、3点の批判をした。榎は本論文において、私の主張を取り上げて批判的に検討している。

これまで憲法学者に中には、私を批判しながら、私の名前をあげず、しかし誰が見ても私のこととわかるように書き、直接的にではなく当てこすりの批判をする例が見られる。しかも、私が主張していないことを、さも私が主張しているかのごとく書く論者がいる。これらを私は上記『原論』で批判してきた。

これに対して、榎は私の名前を明示し、私の主張を引用・紹介した上で批判を加えている。まっとうな批判方法であり、フェアーな姿勢であるので歓迎したい。論点が明確になる。

榎の前田批判は2カ所に見られる。1つは目次の「3 憲法と国際法、憲法上の人権と国際人権」の論点、もう一つは「「効果」がある/ないという思考」の部分で、註の中での言及である。ただ、いくつかの論点が含まれるので、以下では分けて論述する。

 

 

1の論点:「3 憲法と国際法、憲法上の人権と国際人権」

私が国際人権法上の義務の尊重を強調したのに対して、榎は次のように反論する。

「しかし、国連人権理事会の理事国に日本が立候補する点についての評価は別として、条約の規定があるからといって、日本政府が憲法の規定を無視してまで条約上の義務を履行すべきことにはならない。また、条約上の規定を遵守する場合でも、それは日本国憲法の規定に抵触しない範囲で行わなければならない。このことは、前田が条約優位説に立つのであればともかく、憲法優位説を受け入れているのであれば、当然に首肯されるべきものである。」(榎論文9頁)

明快な指摘であり、私自身も本来は憲法優位説を採用するので、榎の主張はもっともであるとも言える。「日本政府が憲法の規定を無視してまで条約上の義務を履行すべきことにはならない」というのは適切である。

しかし、実は事柄はそう単純ではない。榎は議論の場を明示せずに条約優位説か憲法優位説かを問う。しかし、私はそうした議論に意味があるとは考えない。日本国憲法が憲法優位説をとっているかどうかとか、私が憲法優位説をとっているかとは別に、重要なのは日本国家の憲法実態(憲法政治)がどうかを見ることだからだ。日米安保条約体系を見れば明らかなように、日本の憲法政治は現実に条約優位がほとんど完璧に採用され、それは議論の対象ですらなく当たり前のこととされてきた。条約優位説と憲法優位説が、いわばご都合主義的に使い分けられてきたのが実態である。この現実を無視して、条約優位説か憲法優位説かを問うことに意味があるとは考えない。

 

2の論点:「3 憲法と国際法、憲法上の人権と国際人権」

 

榎は次のように述べる。

「もっとも、前田自身は『日本国憲法に従ってヘイト・スピーチを刑事規制する。表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを規制する』ということから、自身の立場が日本国憲法の規定に矛盾しないと考えていると思われる。つまり、条約上の義務を実施すべく刑事規制を行うことは、日本国憲法とも矛盾しないというのであろう。しかし、それが日本国憲法の表現の自由に基づく種々の検討事項(2を見よ)を考慮したうえでたどり着いた結論であればともかく、そのような検討を行うことなく刑事規制に賛成の立場を示しているのだとすれば、それは日本国憲法の表現の自由を無視、あるいは、軽視した議論であると言わざるを得ない。つまり、本人の言に反し、それは日本国憲法に従わずにヘイト・スピーチを刑事規制を目指すものである。」(榎論文910)

(1)まず、右に引用された私の見解は「第三に比較法に関する理解である。」と始まる段落からの引用である。私の『原論』259頁の文章は、榎がもっぱらアメリカ法だけを根拠として立論していることに疑問を提示し、「アメリカだけに学ぶべきだという榎の見解には合理性がない。」と結論付けている。比較法についての論述であって、国際法についての論述ではない。

条約及び国際人権法については、私はその次の段落で言及している。比較法の議論と国際人権法の議論はまったく別だからである。

私は『ヘイト・スピーチ法研究序説』第1章及び第8章、『原論』第4章などで、ヘイト・スピーチの憲法論を取り上げ、日本の憲法学説の比較法研究の方法を批判してきた。榎への批判もその文脈で書いたものである。

(2)次に、榎が引用するように、「日本国憲法に従ってヘイト・スピーチを刑事規制する。表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを規制する」というのが、私の基本主張である。この点を引用せずに私を批判する論者がいるが、榎は的確に引用している。

ただ、榎は私の基本主張がどのような構造を持っているかには言及しない。それは「憲法と国際法、憲法上の人権と国際人権」という文脈の話ではない。私の基本主張は『序説』第112節、及び『原論』第4章において詳述した。なぜか榎はこれらにまったく関心を寄せない。

(3)ここが最重要論点である。詳しくは後述するが(次回のブログ投稿)、榎が「しかし、それが日本国憲法の表現の自由に基づく種々の検討事項(Ⅰ2を見よ)を考慮したうえでたどり着いた結論であればともかく」と言い、「それは日本国憲法の表現の自由を無視、あるいは、軽視した議論であると言わざるを得ない」と述べていることに関わる。

私が「日本国憲法に従ってヘイト・スピーチを刑事規制する。」と述べているのは、憲法前文、第12条、第13条、第14条、第21条に基づいてヘイト・スピーチを処罰するという考え方である。このことを何度も明示してきた。

榎が「日本国憲法」と述べる際に言及するのは憲法第21条の表現の自由だけである。上記の引用箇所だけではない。29頁に及ぶ榎論文は憲法第21条の表現の自由だけに言及し、憲法前文、第12条、第13条、第14条に一切言及しない。

多くの憲法学者が憲法前文、第12条、第13条、第14条に一切言及しないことを、私はしつこく批判してきた。

その私に対する反論なのに、榎は憲法前文、第12条、第13条、第14条には絶対に言及しないという原則を固く守る。これはなぜなのか。

ここが最重要論点であり、「憲法と憲法学との微妙な関係」に関わるので、次回に続く。

(4)なお、上記引用の次に、榎は「彼(…前田のこと)の見解を理解しようとすれば、それは日本国憲法の表現の自由を、ドイツの採用する『戦う民主主義』のように<自由の敵には自由を与えない>…というもの(あるいは、それに類似するもの)であると考えることになろうか」と述べ、「その憲法上の根拠は何であろうか」と問う(榎論文10頁)。

しかし、私は「ドイツの採用する『戦う民主主義』」を採用していない。

ヘイト・スピーチの議論にとって民主主義論は極めて重要であり、私は『原論』第41節「憲法原理とレイシズム――民主主義と人間の尊厳」において詳しく論じた。

この点も最重要論点の一つであり、やはり「憲法と憲法学との微妙な関係」に関わるので、次回に続く。

 

3の論点:「「効果」がある/ないという思考」の註

私が「規制の必要性と効果は別問題である」と批判したのに対して、榎は次のように述べる。

筆者は、規制の必要性を基準に規制の是非を判断しているのではなく、憲法の規定を基準に規制の是非を判断している。ゆえに、この点における前田の理解は正しくない。」(榎論文1011頁)

榎は「憲法の規定を基準」に傍点を付して強調している。「憲法の規定」というが、榎論文で言及している憲法の規定は表現の自由だけであり、憲法第21条のことである。

この点も最重要論点の一つであり、やはり「憲法と憲法学との微妙な関係」に関わるので、後述する。

なお、榎はさらに次のように続ける。

「日本社会からヘイト・スピーチをなくすことを目指して対策を講じるはずだから、規制目的を明確にしたうえで必要な対策はとられるべきであるし、その対策に一定の効果を期待しているはずである。その対策に効果がなければ、別の対策を講ずる必要がある。そうでなければ、その対策は象徴的な意味合いをもつにとどまる。但し、当然のことであるが、採用されたヘイト・スピーチ対策に『効果』を期待できるとしても、憲法規定に抵触するものは許されない。『差別は許されないのだから、差別を止めさせる努力を続けるのが当たり前である』という指摘は、無論である。」(榎論文11頁)

この部分は私にはよく理解できない。

(1)まず前半の「日本社会から~~象徴的な意味合いをもつにとどまる。」は何を言おうとしているのだろうか。憲法学者の中には、「刑事規制してもヘイト・スピーチはなくならないから、規制は象徴的立法にすぎず、(あまり)意味がない」として刑事規制を否定する論者がいる。榎は「筆者は、規制の必要性を基準に規制の是非を判断しているのではなく」と書いているから、規制の必要性や効果は主要論点ではないはずだが、「その対策は象徴的な意味合いをもつにとどまる。」と効果に言及しているように見える。榎自身の見解としてではなく、規制必要論者の主張を検討する文脈で、「効果のない規制は象徴的立法にとどまる」と批判しているのかもしれない。

しかし、効果のない刑事規制はいくらでもある。効果が十分に証明されていない刑事規制、長年にわたって効果が見られない刑事規制はふつうである。むしろ一般的である。

刑法199条は殺人を犯罪として人の生命を保護しようとする。しかし、100年以上にわたって殺人はなくならない。榎は刑法199条について「効果のない規制は象徴的立法にとどまる」と批判するのだろうか。

刑法235条は窃盗を犯罪として財産権を保護しようとする。しかし、100年以上にわたって窃盗はなくならない。榎は刑法235条について「効果のない規制は象徴的立法にとどまる」と批判するのだろうか。

(2)後半の「但し、当然のことであるが、~~無論である。」の意味もよく分からない。「憲法規定に抵触する刑事規制は許されない」という主張はもちろんよく理解できるし、正当である。「憲法規定に抵触する」か否かは、見解の相違であり、それについては後述する。次の文章の「~~という指摘は、無論である。」の意味がよくわからないが、「前田は~~と指摘するが、憲法規定に抵触するものは許されないのは無論である」という意味であろうか。それならば理解できる。

榎の前田批判は以上である。ただ、榎論文の主張の大半は、実質的に私の見解と対立しており、応答するべき点が少なくない。その全体について応答する余裕はない。