Saturday, January 04, 2014

社会的諸関係のもとの労働力観再考

馬渕浩二『世界はなぜマルクス化するのか――資本主義と生命』(ナカニシヤ出版)――資本主義を貫く個人主義と自由主義の交差点に成立する個人的所有と、それを前提に組み込んだ労働所有論を問い直す試みである。マルクスの労働力観、交換様式論、資本主義的搾取論を前提としつつも、例えば、労働概念において、家事労働が不払労働として位置付けられてきたことに対するフェミニズムからの批判や、イリイチのシャドウワーク論を手掛かりに、生産労働と非生産労働の固定的な分割理解を問い返す。あるいは、労働時間と自由時間をめぐるマルクスの思索を前提としつつ、非労働時間が労働準備時間や労働力養成時間となることによって労働時間に従属している現実を理論に組み込む。資本家と労働者の労働契約という観念は、個人的能力を有する労働力所有としての個人(個人的所有)としての労働者の自立的存在を仮設しているが、資本主義的社会的諸関係の中でしかそのような労働者は存在しえない。だが、能力が私的に所有されるという発想自体が特殊に歴史的な制約された理解に過ぎない。「他者との関係においてしか発現しない能力」を想起し、「能力はそもそも社会関係なのだとしたら」と考えることによって、能力の関係主義的理解、能力の共同性、労働力の共同性が引き出される。そこから「コモンズとしての社会関係」、「コミュニズム原則」――「各人は能力におうじて、各人は必要におうじて」へは、あと一歩である。著者はコミュニズムを遠い将来社会である共産主義社会ではなく、現在の中に見出す。「現在し偏在するコミュニズム」こそが、われわれの現在の現実社会の中に存在しているにもかかわらず、社会が資本主義に包摂されることによって見えなくされていると論じる。マルクスのアソシエーション、柄谷行人の交換様式Dもまた導きの糸とされる。マルクス主義ではなく、マルクスに即したマルクスを出発点に、マルクス批判の潮流を踏まえ、かつ継承することによって、倫理哲学的に人間観、労働者観を改定し、現代社会論の新しい課題を登記している。生命の社会的生産をめぐる思索は魅力的であり、示唆に富む。アルチュセール、大熊信行、柄谷行人、ハート&ネグリ、広松渉、プルードンなどを参照しながらの考察である。ソ連東欧社会主義崩壊、マルクス主義崩壊以後、同時に捨て去られたマルクスの思想が、現代の課題に即してむしろ重要性を増しているとの確信と、そこから何を抽出し、何を継承するかという問題意識が、世界に分散しながらも、強く胎動している。著者は倫理学・社会哲学専攻で、著書に『倫理空間への問い』がある。なお、資本主義的労働過程の外での再生産労働や自由時間を論じている部分では、中野徹三『生活過程論の射程』を思い起こしたが、なぜか著者は中野に言及していない。