中田考監修『日亜対訳クルアーン』(作品社、2014年)
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第7章は楽園と火獄の間の高壁の話にちなむ。悪魔の誘惑によるアーダムの楽園からの追放に始まり、高壁の住人の話、天地の創造、最後の審判がいつかは預言者ムハンマドも知らないことが語られる。朝も夕もアッラーを唱えることが命じられる。
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「われらの諸々の徴を嘘だと否定し、それに対して高慢な態度を取った者たち、彼らには天の扉は開かず、ラクダが針穴を通るまで、彼らが楽園に入ることはない。そしてこのようにわれらは罪人に報いる。」(7:40)
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ラクダが針穴を通る喩えはさまざまに用いられてきた。日本では刑事裁判における再審で、「再審開始は、ラクダが針穴を通るよりも難しい」などと言ってきた。なぜ、日本でラクダの喩えなのだろう。馬でも熊でもよかったはずなのに、日本にいなかったラクダを引き合いに出したのはなぜだろう。
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「どんな道でも、信仰する者を待ち伏せして脅かし、アッラーの道から逸らしたり、その歪曲を望んではならない。そしておまえたちが少なかった時のことを思い起こせ。彼はおまえたちを多くし給うた。そして、見よ、害悪をなす者たちの末路がどのようなものであったかを。」(7:86)
「それらの町は、われらがおまえにその消息を語った。そして彼らには彼らの使徒が明証と共に既に訪れた。だが、以前から嘘だと否定していたことを彼らは信じなかったのである。このようにアッラーは不信仰者たちの心を封じ給う。」(7:101)
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クルアーンはどこまでも熱心な進行を求め、信仰した者に褒賞を与え、不信心の者に懲罰を与える。信仰者と不信仰者、イスラム教徒と異教徒、敵と味方を裁断し、明確に分け隔てする。それは誠実な信仰のためだが、信仰以外の場でもおなじことが求められてきたきらいがないだろうか。
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「そしてわれらは火獄のために多くの幽精と人間を既に作った。彼らには心があるが、それで悟らず、彼らには目があるが、それで見ず、彼らには耳があるが、それで聞かない。それらの者は動物のようである。いや、彼らはさらに迷っている。それらの者、彼らや虚け者たちである。」(7:179)
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自分の心で悟り、自分の目で見、自分の耳で聞くこととは――