松井茂記『表現の自由に守る価値はあるか』(有斐閣、2020年)
*
松井は「1. 7 ヘイトスピーチ対策法および大阪市条例・川崎市条例の合憲性」において、対策法、大阪市条例、川崎市条例を取り上げる。
第1に、松井は対策法について、「表現の自由の観点からは、たとえ明示的な禁止規定がおかれておらず、違反行為に対する刑罰が明記されていないとはいえ、この法律の合憲性には重大な懸念が表明されざるを得ない」(65頁)とし、「本邦外出身者」のみを対象としていることについて「比較法的に見て、このようないびつなヘイトスピーチ排除法は見られない」(66頁)と述べる。結論として「もしこれが法的な措置を認めたものであれば、『本邦外出身者』の定義も含め、どのような措置が認められているのか法律上明記されていない点で、明らかに憲法違反と言わざるを得まい」(67頁)という。
*
「本邦外出身者」に対するヘイト・スピーチに限定した立法例はないと思われ、私もこの規定方式には疑問がある。ヘイト被害者は「本邦外出身者」に限られない。しかし、ヘイト・スピーチの対象を限定した点では、諸外国よりもはるかに範囲を絞り込んでいる。定義がいびつだとか、不明確だという批判にも一理あるが、他の定義より絞り込んでいるという評価もあり得る。これだけ限定したことを積極的に評価する論者が多いのではないだろうか。
松井は「比較法的に見て、このようないびつなヘイトスピーチ排除法は見られない」と言うが、松井が検討した比較法なるものはアメリカ、ドイツ、カナダだけである。ヘイト・スピーチを処罰せず、レイシズムを容認し、ヘイトを放置する極端な主張のいびつさをどう見るかの方が重要だ。何度も指摘するが国際人権法は処罰を要請しており、国連人権理事会も人種差別撤廃委員会も日本に処罰を勧告してきた。世界150カ国に規制法がある。いびつな比較法研究に説得力はない。
松井はここで突如として「ヘイト・スピーチ排除法」と表現する。処罰規定がなく、ヘイト・スピーチを規制しないため、一般に「解消法」と呼ばれている法律を、松井は最初に「対策法」と呼び、次に「排除法」と言い換える。粗雑な印象操作ではないだろうか。
松井は「明らかに憲法違反と言わざるを得まい」と主張する。だが、ヘイト・スピーチ解消法について論究した多くの憲法学者の中に、刑罰規定すら持たない解消法を違憲と主張する例はほとんどないようである。
*
第2に、松井は大阪市条例における、ヘイト・スピーチをした者の氏名公表等について検討し、「脅威を感じただけで、表現行為が制約されうるというのは、あまりにも広すぎるのではなかろうか」、「あまりに主観的であり、客観的な基準に欠けるのではないだろうか」(69頁)、「おそらく、この条例では、市長が法的な措置をとることまでは想定されていないのではないかと思われるが、このような広範な基準を欠く、包括的な権限付与は、憲法上疑問ではないかと思われる」(69~70頁)という。
*
大阪市条例についてはこれまで多くの憲法学者、刑法学者、弁護士が論じてきたが、違憲の疑いを指摘した論者はあまりいない。また、実際に大阪市長による指名公表がなされたことから、これを違憲とする訴訟が提起されたが、裁判所は詳細に検討した上で合憲判断を下した。その後、大阪市条例方式が違憲であるという特異な主張は消えつつあるように思われる。
*
第3に、松井は川崎市条例による罰則の導入について検討する。条例の内容を2頁にわたって紹介した上で数多くの批判を加えている。
(1)松井は「本邦外出身者」に言及し、「この定義の曖昧さ及び過度の広範さに照らせば、それに刑罰を科すのは到底正当化されえ得ないであろう」という(72頁)。
あいまいだという主張には一理あるが、むしろ対象を絞り込んだという評価のほうが多いのではないか。
(2)
松井は、条例で用いられている「煽動」概念を取り上げ、「それが違法な物理的な力の行使の直接的な煽動かどうかも問わない点、およびそれが実際に遂行される危険性がどの程度あるのかも問わない点で大きな問題であろう」という(72頁)。煽動概念を安易に用いて刑事法に取り込むことには慎重さが求められる点で、松井の指摘には一理ある。
ただ、煽動概念は現行刑法で用いられているし、最高裁判例によって正当化されてきた。日本における煽動概念の問題は、実は「煽動」そのものの問題ではない。国公法等の場合は労働権、破防法の場合は結社の自由という、憲法上の権利行使を「煽動」概念を用いて安易に犯罪化してきたことの問題である。民主主義の擁護と差別の禁止のために煽動概念を用いるのとは位相が異なる。国際人権法においても煽動概念は繰り返し用いられてきたし、その解釈例の積み上げもある。煽動概念だからと言って一般論で批判してもおよそ説得力がない。いかなる煽動概念であるかの検討が必要だ。
(3)
松井は、川崎市条例が「本邦外出身者」を「人以外のものにたとえるなど、著しく侮辱するもの」としていることについて、「ゴキブリにたとえるなり、野良犬にたとえることなどが想定されているものと思われる。だが、『人』以外のものにたとえることが常に侮辱になるかどうか定かでなく(ある人をその力強さや頑丈さのゆえに『超人』だと呼んだり、ある人をその正確性のゆえに『コンピューターのようだ』と呼んだりすることも果たして著しい侮辱なのであろうか)。しかも単なる『侮辱』と『著しい侮辱』の境界線はあまりにも不明確かつ主観的である」(72頁)という。
レイシズムの抑止に関心がなく、ヘイトの規制を何が何でも許さない松井の強烈な意思が表明された個所と言えよう。言うに事欠いて、「超人」や「コンピューターのようだ」と非難する。しかし、ヘイト・スピーチ解消法は「本邦外出身者」という表現で実質的に人種・民族差別による排外主義と侮辱の表現を対象とした。川崎市条例も法律と同じ定義を採用した。物理的・社会的排除、身体等への危害煽動、著しい侮辱が屁併記されている(法務省が提示した類型による)。この水準で用いられる「人以外のものにたとえるなど、著しく侮辱するもの」の意味は、当然のことながら、侮辱罪の保護法益及びこれまで積み上げられてきた判例上の侮辱概念によって明らかになる。保護法益は、判例では外部的名誉(社会的評価)という理解が確立しており、これが不明確だなどという主張は学説上も存在しない。仮にそう唱えたとしても、あまりに特異な主張として退けられるだけである。侮辱概念についても、他人の人格を蔑視する価値判断を表示することとされている。「超人」や「コンピューターのようだ」というたとえが、「他人の外部的名誉(社会的評価)を貶めるような、他人の人格を蔑視する価値判断を表示すること」だなどということが考えられるだろうか。批判するのなら、ふざけ半分のたとえではなく、少しはまともな例を示すべきだろう。
なお、ヘイト・スピーチ規制における保護法益については、社会的法益説が有力であり、私も社会的法益を基軸に個人的法益も考慮するのが妥当ではないかと考えているが、それは別論である。
(4)
松井は、川崎市条例では市長による勧告、命令、そして処罰という方式について「処罰の前に、裁判所の判断を仰ぐ仕組みはない」と批判する(72頁)。
不可解な批判である。川崎方式は、市長による勧告にもかかわらず2回目のヘイトが行われた場合に、市長による命令が出され、それに従わず3回目のヘイトがなされた場合に、裁判を通じて刑罰を科すとしている。裁判所の判断を仰ぐのだ。自治体条例における罰則のスタイルとして合理的な方法である。
(5)
松井は、「ヘイトスピーチが行われるおそれがあるだけで、公の施設の利用を拒否したり、公道上のデモを禁止したりすることは、明らかに憲法第21条の表現の自由を侵害し、さらに地方自治法にも反するものである」と批判する(73頁)。
ヘイト活動に対する公共施設利用問題及びヘイトデモ規制問題は、2009年以来、激しく議論されてきたテーマであり、下級審判例、地方自治体の審議会の審議、地方自治体議会の審議、弁護士会意見書、多くの学説による議論を通じて徐々に共通認識が形成されてきた(前田『ヘイト・スピーチと地方自治体』三一書房)。ところが、松井は具体的な論点を子細に検討することなく、憲法第21条違反と主張する。目に余る乱暴な議論である。2009年段階ならともあれ、2020年段階でこのような粗雑な議論をする論者がいるとは驚異的である。
*
新たな刑事規制が行われる場合に、不当な人権侵害が生じないよう慎重を期すために厳しいチェックをかけるのは学説の重要任務なので、松井説にはそれなりの意義がある。しかし、法解釈はもっと緻密に行うべきであって、スローガンを繰り返すだけの杜撰な批判でチェック機能を果たすことができるとは考えにくいのではないか。