大久保哲「日本国憲法と皇室典範――西洋近代法思想と日本人の心性の乖離」『宮崎産業経営大学研究紀要』第32巻第1・2号(2022年)
大久保は前に天皇制に対する批判と皇室への畏敬の共存する自己を反省的に表明したことがある(「私の天皇制」『宮崎産業経営大学法学論集』第24巻第1・2号、2016年)。当時、私は「よくある、内なる天皇制の一例」と受け止めていたが、今回、大久保は法理論のレベルで現実を批判的に検証するとともに、「私の天皇制」の根源に向き合う努力を始めた。
大久保のテーゼは2つである。
①
「天皇・皇族は美しく静かな古都の京都御所に美しく居てほしいという極めて情緒的な天皇論」。これを川端康成の「美しい日本」に重ねる。
②
「天皇と皇族を、国家の制度の軛から『解放』すべきであるという趣旨の天皇制廃止論」。
そして大久保は、議論の端緒として皇室典範に着目し「憲法の条文と皇室典範の条文の間に論理的整合性が成り立ちうるか、成り立たないとすれば、なぜ74年間も皇室典範が憲法と並んで存続し得ているのか」と問う。
その答えは論文副題に明示されている「西洋近代法思想と日本人の心性の乖離」に求められるが、だからと言って、大久保は天皇制を西洋近代法思想に引き付け直して再解釈する方策を採用しない。
むしろ逆に、あえて「立場は違えても、中川八洋や小堀桂一郎のような、立場を鮮明にした激烈過激な天皇制主義者、天皇制擁護者の法律家と深く共鳴するものである」と表明して、読者を困惑させる。大久保なりのトリックの伏線である。
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大久保論文の主内容は、日本国憲法第3章の権利規定(思想信条の自由、職業選択の自由、生存権、婚姻の自己決定権等々)に照らして皇室典範の規定を徹底検証することであるが、その内容をここで引用することはしない。皇室典範に人権規定が一切取り入れられていないことは、もとより明らかだからである。
問題は、反人権の極致である皇室典範が、なぜ日本国憲法の下でこれほどの生命力を持ってきたのか、である。
大久保は近代法における基本的人権の原理を概説し、日本国憲法と皇室典範の「世界」が異なることを再確認した上で、なぜ、多くの日本人は「二つの世界」を受け入れているのか、と問う。
大久保によれば、近代法の精神の世界と日本人の心性の世界には「一見した以上に、簡単には受けることのできない深い乖離」が存在し、後者の「日本的なるもの」と真摯に向き合わなければ、その克服はできないという。
結論は「全ての人間の尊厳を求めて」とまとめられる。法の下の平等や人間の尊厳を重視し、人間の「解放」を望むなら、「天皇と皇族について、法の下の平等の保障、個人としての人間の尊厳の保障なくして、『マージナルな人々』の平等の保障と人間の尊厳の確保はあり得ない。中心部を放置・等閑・温存して、外縁部だけを対象としても解決にはなりえないであろう」という。
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天皇制への分析視角は数多くあるが、憲法論とのかかわりでは、例えば次の5つが重要だろう。いずれも別々ではなく、互いに重なり合うが。
①
歴史的アプローチ:近現代における天皇制が果たした政治経済社会的役割を論じる。
②
主権論的アプローチ:天皇主権から国民主権への転換を総合的に検討する。
③
統治機構論的アプローチ:国家元首から象徴への転換を検討する。
④
人権論的アプローチ(A):天皇制という身分制・性差別制が社会に与える人権侵害の点検。差別の根源としての天皇制論。
⑤
人権論的アプローチ(B):天皇自身が人権を制約されている点に着目する。
大久保は、⑤の人権論的アプローチ(B)に絞り込み、憲法の人権条項から皇室典範をチェックする。それ自体は珍しくないが、大久保は本論において、①~④を徹底して排除し、⑤だけを突き詰めることで、天皇制の矛盾を浮き彫りにする。その矛盾は「日本人の心性」そのものにあるというのだろう。しかも、大久保自身は矛盾を抱えた「日本人の心性」を否認しない。何しろ、「激烈過激な天皇制主義者、天皇制擁護者の法律家と深く共鳴する」と宣言していたのだから。
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イギリスのサンデー誌だっただろうか、1988~89年当時「地獄が裕仁を待っている」と書いたことがある。即位の礼・大嘗祭をめぐって、私たちは違憲訴訟を提起したが、裁判では敗訴に終わった(前田朗『平和のための裁判』水曜社)。
それ以来、平和をめぐって、日米安保をめぐって、主権をめぐって、反差別論の中で、つねに天皇制は議論の対象であったが、昭和から平成へ、そして令和へと至り、女帝論争や皇族の結婚問題がニュースとなってきた。
私は1990年代以後の日本軍性奴隷制をはじめとする戦争犯罪論を展開する中で天皇の戦争犯罪責任、人道に対する罪について論じてきた。最近は日本植民地主義の歴史と構造を解明する努力を続けてきた(前田『要綱』第3章・第4章)。その続きを書いて、植民地主義批判を一歩深めようとしているところで、今春には活字になる見込みだ。
中には地獄まで裕仁を追いかけて行った増田都子もいるが、多くの日本人は天皇をニュースとして消費しているだけかもしれない。
https://maeda-akira.blogspot.com/2015/08/blog-post_18.html
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大久保は「日本人の心性」を論じ、川端康成に言及する。ならば、三島由紀夫の文化としての天皇制論をどうとらえるのだろうか。他方で大江健三郎、そしてもう一方で桐山襲の『パルチザン伝説』をどう読むのだろうか。
https://maeda-akira.blogspot.com/2019/03/blog-post_92.html
文化としての天皇制の批判的解剖は天野恵一がやりつくした感がある。というか、天野と反天連は上記の①~⑤のすべてを論じてきた。逆に鈴木邦男の『愛国の昭和―戦争と死の七十年』や『天皇陛下の味方です
国体としての天皇リベラリズム』がある。
天皇制と日本文化論はもともと「合わせ鏡」のような存在であるから、西洋近代法思想だけでは天皇制を解けないとして「日本人の心性」に及ぶのであれば、さらに論ずべき課題は少なくない。