ヘイトスピーチ研究文献(197)敵意の法理
大林啓吾「敵意の法理」『千葉大学法学論集』第33巻第3・4号(2019)
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序
Ⅰ 敵の法理
Ⅱ ケネディ裁判官による敵意の法理の発展
Ⅲ 敵意の法理の機能
Ⅳ 敵意の法理の課題
Ⅴ 日本における敵意の法理
後序
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奈須祐治の論文「ヘイトスピーチと『個人の尊厳』」で注記されていたので、読んでみた。憲法学における「敵意の法理」、聞いたことがなかったので興味深い。約50頁にわたる本格的な論文で、敵意の法理の形成過程、判例における展開が分析されている。
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国家は時に敵意や悪意を規制することがる。大林によると、特に暴力団に関する暴対法、暴力団排除条例、暴走族追放条例などは特定の集団に狙いを絞り、社会的排除を意図して規制しているという。
アメリカ憲法には敵意に関する規定はないが、判例法において敵意に関する検討がなされ、2017年のウイリアム・アライザの研究によって一気に注目を集め、敵意の法理が議論されるようになった。敵意とは、「政治的多数派が特定の集団が気に入らないという理由で規制する事」を意味する。
「政府は公共善に適う法令しか制定してはならず、それに合致しないものは正当な利益を持つとはいえない。公衆衛生の維持や公共の安全、さらには社会的弱者の救済などは公共善に仕える正当な政府利益の典型例である。だが、少数派を敵とみなして不利益を課したり排除したりすることは公共善に仕えるとはいえないというわけである。」
アメリカの判例では、例えば、ヒッピーをフードスタンプから排除するために受給対象を変更した立法の事案、中絶規制が中絶の選択を認めないという価値判断を押し付けることが人格否定につながるとされた事案、同性愛者やバイセクシュアルに対して法的保護を認めない法制定が差別に当たらないかが問われた事案、同性愛行為を禁止するテキサス州法の合憲性が問われた事案など、いくつもの判例で、立法は敵意に基づいてなされたか否かが検討された。
大林論文はこれらの判例を丁寧に紹介・分析している。なかなかおもしろいが、大林自身が示しているように、今後の帰趨は読みにくい。第1に、敵意の法理と呼んでいるが、法理としての明確性、安定性はないようだ。第2に、他の法理、とりわけ尊厳の法理を適用すれば済む事案に強引に敵意の法理を持ち込んでいる気配もある。第3に、敵意の法理を牽引してきたケネディ判事が2018年に退官した。第4に、大林論文は「Ⅴ 日本における敵意の法理」という章を設けているが、日本でこの法理が用いられたわけではない。大林が、もし日本に持ち込めばこうなるかもしれないと仮説をたてているだけである。
敵意の法理の応用可能性は両義性があるのではないだろうか。
一方で、国家が差別的立法を行った場合に、立法過程を検討してそこに敵意があれば違憲と判断する局面である。暴対法や暴排条例よりも、もっと直接的な差別立法として、高校無償化からの朝鮮学校除外問題を考えることができる。国家が朝鮮学校を露骨に敵視して法的行為が行われている。
他方で、差別禁止法やヘイト・スピーチ刑事規制法を制定した場合、「差別は表現の自由だ」と合唱してきた日本憲法学からすると、「特定の差別的表現に敵意を持って規制する立法は違憲である」という主張につながるかもしれない。
敵意の法理はこのように両義性があるように思われる。日本の裁判所はどちらの使い方をするだろうか。レイシズムを反省してこなかった日本憲法学はどちらの使い方をするだろうか。むしろ、差別であるか否か、人間の尊厳に反するか否かという枠組みの方が自然かもしれない。