Wednesday, February 16, 2022

表現の自由に守る価値はあるか!? 06

松井茂記『表現の自由に守る価値はあるか』(有斐閣、2020年)

最後にまとめておこう。

表現の自由に守る価値はあるか?

答はもちろんイエスである。表現の自由には守る価値がある。

表現の自由の大切さは言うまでもない。権力が表現に介入するためには正当性、必要性、合理性を十分に満たした場合でなければならない。権力は暴走する。それゆえ、権力行使にはつねに市民的統制を確保する必要があり、立法・行政・司法のすべてにわたって慎重に検討を施すことが求められる。

そのために憲法学が長年の努力を積み重ねてきた。立法や判例への批判的検討も重要である。日本に限らず、国家権力が市民の表現の自由を不当に規制してきた歴史があるので、表現の自由の格別の重要性を説くのは学説の重要な役割である。その意味で松井の努力は貴重である。

しかし、表現の自由は個人の人格権の一部であるだけでなく、民主主義社会にとって枢要な価値である。民主主義に適った表現の自由とは何かを解明しなければならない。論者によって民主主義のイメージは異なるかもしれないが、住民の一部を排除・迫害・殲滅するレイシズムが民主主義と相容れないことは否定できないだろう。民主主義とレイシズムは両立しない。民主主義を実現するためにレイシズムを抑止しなければならない。レイシズムの典型であるヘイト・クライム/スピーチを容認しておくと、民主主義は実現できず、社会が壊れて行く。前田朗『増補新版ヘイト・クライム――憎悪犯罪が日本を壊す』(三一書房)参照。

表現の自由の口実の下、人間の尊厳を侵すことを放任してはならない。人間の尊厳は国連憲章、世界人権宣言、国際人権規約その他の人権条約において人権の基盤とされている。日本国憲法第13条は個人の尊重をうたうため、日本国憲法は人間の尊厳を保障していないという憲法学説もあるが、日本国憲法前文、第13条、第14条及び第24条の「個人の尊厳と両性の本質的平等」等に照らして、日本国憲法の下でも人間の尊厳を保障するべきである。

ヘイト・スピーチは人間の尊厳を否定し、侵害し、人間の尊厳を基本価値とする現代国際人権法を敵視する。表現の自由の名のもとにヘイト・スピーチを容認すると人間の尊厳を損なう。

表現の自由に守る価値はあるか?

答はもちろんイエスである。表現の自由には守る価値がある。

しかし、憲法解釈は憲法の条文と体系に即して行うべきである。憲法解釈に当たって、私が重視するのは次の4つである。言うまでもないが優先順である(前田『ヘイト・スピーチ法研究要綱』119121頁)。

①日本国憲法(前文及び各条文)

②確立した判例

③日本が批准した国際条約

④慣習国際法

ここには比較法的知見、外国法情報は含まれない。とはいえ、比較法研究も重要であるので、

⑤比較法的知見も参照することはある。

私は世界150カ国のヘイト・スピーチ法制定状況を紹介してきた。これを「前田は世界150カ国でヘイト・スピーチを処罰するから日本も処罰するべきだと主張している」と誤解して非難する論者がいるが、私はそうした主張をしていない。

私は比較法研究や外国法研究にはあまり関心を持っていない。私が世界各国の状況を紹介してきたのは、③の国際条約、及び④の慣習国際法への関心であり、国際法の「実行例」を確認するためである。もちろん、日本国憲法第21条と同じ条文の憲法(あるいは類似した憲法条文)があれば、その国の憲法解釈も参考にすることはできる。

松井はどうであろうか。本書を見る限り、松井は、①の日本国憲法前文、第12条、第13条、第14条にまったく関心を示さない。

②の最高裁判例を批判し、それとは異なる法理を唱える。

③の国際条約、及び④の慣習国際法についても、ほとんど言及しない。

松井が重要視するのは、アメリカ判例法理及びカナダ判例法理だけである。特にアメリカ判例法理を基準にして、日本国憲法の体系的解釈を度外視し、日本最高裁の判例(確立した判例)を否定し、ヘイト・スピーチ解消法を批判し、地方自治体条例を批判し、ヘイト・スピーチ規制論を批判する。一網打尽の勢いは結構だが、松井説は、日本国憲法第21条、第12条(公共の福祉)、第13条(個人の尊重、人格権、公共の福祉)、第14条(法の下の平等、差別の禁止)の解釈論とは言えない。日本国憲法の解釈ではなく、改憲論と見るべきである。

松井は、憲法第1条の解釈においてアメリカ法を基準にするだろうか。憲法第9条、第10条、第25条、第41条、第65条、第92条の解釈に際して、アメリカ法を基準にするだろうか。それはあり得ないだろう。ところが、第21条だけは絶対的にアメリカ法を基準するべきだと主張する。そして勢い余って憲法第12条、第13条、第14条を「削除」する。過激なまでのアメリカ絶対主義であり、属国主義、脱日入米である。権力の暴走も怖いが、憲法学の暴走も危険だ。

アメリカ憲法の表現の自由と日本国憲法の表現の自由が同じ条文であるのなら、まだ理解できるだろう。しかし、両者に類似性はない。日本国憲法の表現の自由の規定上の特徴は欧州諸国の憲法の表現の自由規定により近いし、国際人権規約と同じ構造を持っている。しかし、松井は、理由を示すことなく、ひたすらアメリカ法理を参照する。

日本国憲法の条文を無視して、外国判例法理に従えと言うのは、憲法解釈ではなく、改憲論である。「アメリカ憲法も日本国憲法も表現の自由を保障しているから同じであり、アメリカ憲法の判例法理に従え」などという暴論は改憲論としても水準が低すぎる。「表現の自由という価値を守るのがアメリカであり、日本でも同じ精神を持つべきだ」というのは、あまりに粗雑である。憲法解釈はもっと慎重かつ緻密であるべきだ。

表現の自由に守る価値はあるか?

答はもちろんイエスである。表現の自由には守る価値がある。

だが、「表現の自由を守れ」と念仏を唱えても、表現の自由を守ることはできない。表現の自由には同時に責任が伴わなければならない。憲法第12条が明示している。憲法第12条は自由の行使に伴う責任と、公共の福祉を明示している。憲法第21条の適用もこの要請を満たす必要がある。表現の主体についても、表現の自由と責任を十分認識する必要がある。

ところが、憲法学は表現の責任を一切論じない。憲法教科書を10数冊見ても、表現の自由という言葉だけが乱舞し、「表現の責任」は一度も登場しない。ひたすら責任なき表現の自由だけが語られる。これでは表現の自由は守れない。むしろ、自ら表現の自由を掘り崩してしまう。前田朗『メディアと市民――責任なき表現の自由が社会を破壊する』(彩流社)参照。

また憲法学は表現の自由の主体を論じない。実際、憲法学が絶対視するのは「マジョリティの表現の自由」であり、「マイノリティの表現の自由」は一顧だにしない。ヘイト・スピーチはマイノリティの排除や差別を唱え、マイノリティの表現の自由を否定する。しかし、憲法学は「マジョリティがマイノリティを排除し差別する表現の自由」を必死になって擁護する。

表現の自由とは国家権力による介入を規制する原理であって、私人間の関係を規制する原理ではないというのは理由にならない。憲法第11条、第12条、第97条を踏まえて、適正な表現の自由と責任を考えるなら、何よりもまずマイノリティの表現の自由を擁護し、マイノリティの人間の尊厳を保障することが、マジョリティの憲法学の最大任務であると理解できるはずだ。

表現の自由に守る価値はあるか?

答はもちろんイエスである。表現の自由には守る価値がある。

だが、「表現の自由だけに守る価値がある」のではない。民主主義にも人間の尊厳にも人格権にも法の下の平等にも差別の禁止にも守る価値がある。日本国憲法は数多くの価値を擁護し、数多くの自由と権利を保障する。その基本原理は民主主義であり、主権の民主的構成であり、人間の尊厳であり、法の下の平等と非差別であり、個人の自由と権利である。表現の自由は、民主主義、人間の尊厳、法の下の平等と非差別という原理と調和しなければならない。無責任な表現の自由を呼号することをやめて、表現の自由と責任を考えれば足りるだけである。(完)