秦博美「前田朗『ヘイト・スピーチ法研究要綱─反差別の刑法学』(三一書房、2021年)を読んで(下・完)」『北海学園大学法学研究』58巻4号(2023年)
*
本年1月にこのブログで、秦論文前半についてコメントした。
https://maeda-akira.blogspot.com/2023/01/blog-post_79.html
以下はその続きである。
*
目次
一 はじめに
二 本書のはしがきと全体構成
三 憲法学者の見解(総論)
四 憲法学者の見解(各論)
五 検討
1 (近代)個人主義
2 思想の自由市場論(以上57巻4号)
3 見解規制、観点規制、内容規制
4 事前規制、予防規制
六 その他の論点
七 終わりに
*
今回は「五 検討」の「3 見解規制、観点規制、内容規制」以下である。
*
秦は、「3 見解規制、観点規制、内容規制」で、私の見解を検討する。
私は、憲法学における「見解規制、観点規制、内容規制」の主張には合理性があるとは思っていないが、『ヘイト・スピーチ法研究要綱』ではそこまでは主張していない。『要綱』では、憲法学による「見解規制」論は半世紀もの歴史があるが、最高裁に採用されず、学者による学者のための学説にとどまっている現実を前に、憲法学者があたかも「見解規制」論が当然の理論であるかの如く述べていることに疑問を抱いて、「その法理はそもそも最高裁によって採用されていない。半世紀以上採用されなかったし、今後も採用される見込みがあるわけではない。憲法学者にとっては重要な「理論」かもしれないが、およそ現実と切り結んでいない。」と批判した。
これはいささか乱暴な批判であることは承知の上である。最高裁によって採用されていないことを、その理論を批判する論拠として用いることは必ずしも正しいわけではない。ただ、憲法学者の論文を見ると、「公共の福祉」論の扱いもそうだが、憲法の明文も最高裁判例も無視して、あたかも自説が正当であることが論証済みであるかのごとく論じているものが目立つ。倒錯と言うしかない。そのことを指摘するために、やや乱暴な批判をした。
秦は、私の見解を見たうえで、憲法学者の見解を点検する。駒村圭吾、桧垣伸次、佐々木弘通、安西文雄、斉藤拓実、松井茂記、宍戸常寿といった論者の見解を丁寧に引用しながら、秦は論述を進める。
秦は次のように述べる。
「駒村教授は、「導入される集団誹謗規制や類型的排除が、例えば、国籍等に基づく集団誹謗にだけ限定されるとしたら、内容規制だけでなく、見解規制あるいは見解差別(……)の問題にもなり得ます。」と述べている。評者には、国籍、民族を限ったヘイトスピーチの規制が、立法事実に基づき対象を限定しており、また、国家施策への批判とも無関係であるにもかかわらず、何故「見解規制」としてのハードル(価値観に対する介入?)をも課せられるのかが理解できない。」(436頁)
秦は「見解規制」論そのものを否定するわけではないが、駒村の「見解規制」論の議論の仕方について疑問を提起している。
さらに秦は次のように述べる。
「憲法学者が「およそ現実と切り結んでいない」という批判を「甘受」するとするなら、それは、半世紀以上変わらない日本の最高裁判所の判例法理に対してであるとともに、ヘイトスピーチの被害の現状(六の2参照)に対してということになろう。」(439頁)
私は、憲法学者が「およそ現実と切り結んでいない」といささか乱暴な批判をしたが、秦は、私の批判の趣旨に全く見るべきものがないとは言わず、私の趣旨を理解している。「批判を「甘受」するとするなら」という表現は、この批判が正当であるか否かについて積極的に論及していないものの、この批判の意味を受け止める姿勢を示しているのだろう。
そして秦は次のように述べる。
「著者の立場は、「表現の自由を理由にヘイト・スピーチ規制」をするというものであり、斉藤拓実講師の「アメリカにおける表現の自由の『過剰』」という表現に対し、「現実には『マジョリティの差別表現の自由の過剰』にすぎず、マイノリティにとっては、表現の自由の『過少』ではないだろうか。法の主体はすべて自由で独立で平等であるという『空想』が無媒介に前提とされると現実無視の議論にならないだろうか」という含蓄のある指摘を行っている。」(441頁)
私が主張しようとしたことを、秦は、憲法学説を参照しながら、再検討している。私の主張を補強してくれているので、大いに励まされる。
*
秦は、「4 事前規制、予防規制」において、私の見解を検討する。
憲法上、表現の自由に対する検閲は許されず、事前規制は禁止されている。どのような場合を事前規制とみるかという論点である。
ヘイトデモやヘイト集会のための公の施設の利用について、大阪市条例と川崎市の公の施設のガイドラインが事前規制か否かが問われる。私は、上田建介の議論を手掛かりに、必ずしも事前規制とみる必要はないと考えた。
秦は、川崎市ヘイトデモ禁止仮処分事件決定や京都朝鮮学校事件判決を検討し、毛利透、上村都、梶原健祐の見解を引用したうえで、次のように述べている。
「「事前抑制」とは、表現行為がなされるに先立ち公権力が何らかの方法で抑止する規制方法をいい、情報が「市場」に出る前にそれを抑止するものであることから、原則的に禁止されると解されている。これに対し、「反復継続される行為」の将来に向けての差止めの場合は、「同種の表現」(その特定には慎重さを要求されるが)は既に「市場」に提出済みであり、事前規制の概念に当てはまらず、厳格な審査を伴う「事前抑制禁止の法理」を適用させる必要はないという解釈も十分可能であろう。」(444頁)
*
この点について、私は『ヘイト・スピーチ法研究原論』第5章第7節で論じた。
*
もう1つ、私にとって大いに参考になったのが「政府言論」に関する議論である。
憲法学の中には、アメリカの議論を参考にした「政府言論」という議論がある。政府の発言も表現の一つであるから表現の自由の保障が適用されるという。
私にはこれがどうしても理解できない。憲法13条や14条があるから、政府が差別をしてはならないことは明確である。表現の自由に関する法解釈としてあれこれ議論するべきテーマではないはずだ。
「このことを抜きに政府言論を表現の自由の問題として位置づけることには疑問が残る。表現の自由は個人の自由であって国家の自由ではない。政府言論を表現の自由の問題とするのはなぜだろうか。」というのが私の疑問である。
秦は高橋和之の議論を引用する。高橋は『人権研究Ⅰ表現の自由』で次のように述べているという。
「政府は、表現(言論)の自由の規制と援助により「言論市場」(公共言論空間)に介入する。しかし、政府が自らの「言論」により言論市場に介入することは、憲法上許されていない。言論市場は表現の自由の主体により構成される「空間」である。政府は、表現の自由の主体ではないから、言論市場に「参加」する資格は、憲法上ない。」(以上は秦論文450頁より)
そして、秦は次のように述べる。
「著者のいうとおり、「政府言論を律するのは民主主義であり、権力分立であろう」。憲法99条は公務員の「憲法尊重擁護義務」を規定しており、「政策執行を授権する法律の合憲性」に問題があれば、公権力は、「規制」の場合のみならず、「政府言論」の場合も、違法性と損害が個別に認められれば国家賠償法1条の責任を問われることになろう。」(451頁)
基本的に私と同じ主張であり、秦説に賛成である。
私は、上記の文章を書いたときに、これは私のオリジナルだ、と思い込んでいた。高橋和之がすでにこのように述べていたことを知らなかった。不勉強だ。
秦のおかげで、私の主張は憲法学的にみて、さほどおかしなものではなく、むしろ、有力な立論でありうることがわかった。感謝したい。
*
秦は最後に次のように述べる。
「ヘイトスピーチの規制は、確かにヘイトスピーチの自由を制限するものではあるが、表現の自由との関係では社会の安全弁としての「統制」と評価すべきもので、「制限」と考えるべきではないということになる。いま、表現の自由の規制の限界ではなく、(マジョリティの)表現の自由の限界が問われているように思われる。」(451頁)
重要な指摘だ。
*
秦は冒頭で、2020年5月のグテレス国連事務総長による「国連ヘイト・スピーチ戦略と行動計画」を紹介し、「沈黙することは憎悪と不寛容に無関心のシグナルを送ることである」という部分を強調していた。
秦は末尾で、ふたたびこの点に言及している。
「ヘイトスピーチの「被害者」からすれば、積極的「観衆」も消極的「傍観者」も同断なのである。自分が「観衆」ではないことに安住することは許されまい。「観衆」とともに「傍観者」も、(健全な)社会の(健全な)構成員として免責されるわけではない。「民族」一般に解消されない「個人の尊厳」が厳としてあるのである。」(452頁)
自分の法理論の帰結がヘイト・スピーチの容認、放置、そして結果としてヘイト・スピーチへの加担とならないよう、社会の構成員として向き合う姿勢の表明である。まさに議論はここから始まる。