金尚均編『インターネット時代のヘイトスピーチ問題の法的・社会学的捕捉』(日本評論社、2023年)
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第3章 ヘイトスピーチ規制の合憲性をめぐる議論と表現の自由法理
濵口晶子は、ヘイトスピーチ規制の許容性をめぐる学説の論拠を確認し、この問題が憲法学説にどのような変容を迫るものかを検討する。
濱口は、まず表現の自由の優越的地位論や思想の自由市場論などを瞥見し、他方で最高裁判例との間に隔たりがあることを確認する。
次に濱口は規制消極説と積極説を検討する。消極説として、自己実現論、自己統治論、思想の自由市場論、公権力介入への危惧論を取り上げ、横田耕一、斎藤愛、小泉良幸、市川正人、松井茂記、塚田哲之、阪口正二郎などの見解をフォローする。これまでも、同様の検討がなされてきたが、濱口も同じ経路をたどる。
さらに濱口は積極説として、表現の価値論、対抗言論不機能論、ヘイト・スピーチの害悪論を取り上げ、内野正幸、棟居快行の見解を見る。これも従来よくあるパターンである。
濱口はここから、さらに最近の議論に立ち入る。表現の自由法理に忠実であることとヘイト・スピーチ規制について毛利透、害悪について桧垣伸次、表現の自由の保護領域について曽我部真裕の見解を整理する。
そのうえで、濱口はマイノリティ差別問題に半歩踏み込む。「差別構造におけるマイノリティとマジョリティの位置付け」について塩原良和や出口真紀子ら社会学・心理学の見解を参照し、「差別的表現・ヘイトスピーチ規制を民主政における表現の自由の重要性から位置付け直す視点においては、被害当事者・マイノリティの声の公的言論空間への現れかたを実質的に問うことが重要である」と的確に述べる。
濱口は「表現の自由の問題から、人格権・平等原則の問題へ」として、志田陽子説を踏まえつつ、マイノリティ排除による人格権侵害に着目し、憲法14条の平等原則にたどり着く。もっとも、濱口は「その検討は今後の課題としたい」と論考を閉じる。
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濱口の議論は正当な方向に歩みを進めていると思う。とはいえ、スタートラインからいきなり逆方向に猛烈ダッシュして、ぐるっと遠回りして、ようやくスタート地点に戻ってきたと思ったら、「その検討は今後の課題としたい」と中断して、休憩している印象だ。
人格権侵害や平等原則違反やマイノリティ排除の問題は、この10年以上、主要な積極説論者が一貫して主張してきたことだが、濱口はその論者には言及しない。不思議な論文だ。
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濱口には下記の論文がある。いずれもドイツにおける人間の尊厳を扱った好論文である。
濵口晶子「個人の人格的尊厳の憲法的保護――ドイツにおける名誉保護をめぐる憲法論議を素材に」名古屋大学法政論集215号(2006年)
濵口晶子「放送メディアに対する人間の尊厳の保護――「ビッグ・ブラザー」に見るドイツ人間の尊厳概念の新構成」名古屋大学法政論集228号(2008年)
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濱口は、人格権侵害や平等原則違反やマイノリティ排除の問題をきちんと検討しようとしており、ヘイト・スピーチ規制積極説に歩んでいくことが期待できる。その意味で歓迎すべき論文である。
ただ、濱口と私の間には基本的に大きな相違があるので、その点を確認しておこう。
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濱口論文で取り上げられた憲法学説は、いずれも表現の一元的モデル観に立っている。表現行為は、その主体が一人で行うものであり、一人の行為によって表現は完結している。表現は個人の自己実現の問題として把握される。もちろん、表現による自己統治論、民主主義論に見られるように、表現の社会性にも視線は及ぶが、個人の孤的な行為が表現と理解されている。思想の自由市場に登場するのも個人であり、表現の自由の主体も基本的には個人である。
濱口の理解も一元的モデル観である。マイノリティ排除問題に論及するが、「表現の自由の問題から、人格権・平等原則の問題へ」として、表現や、表現の自由ではなく、人格権の問題として論じる。なぜ、「表現の問題」として論じないのだろうか。
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表現の多元的モデル観
私は一元的モデル観は不適切であり、表現行為を理解していないと考える。人間はぽつんと一人で存在する訳ではないし、一人だけで行為するわけでもない。人間は社会的存在であり、その社会性を抜きに表現を理解することはできない。
私は東京造形大学で31年間、美術・デザインの学生に教えてきた。表現は単独では成立しない。絶海の孤島で発話者が何かを叫んでも、誰にも聞き取られることがなければ、表現とは言えない。発話は聞き取られることで表現となる。画家が絵を描いて、誰にも見せずに、直ちに焼却処分してしまえば、それは絵画作品として成立しない。絵画は見られること、鑑賞されることで絵画作品となる。
表現とは、表現行為をする者と、それを聞く者、見る者とが揃うことで成立する。表現はコミュニケーション行為であり、発信する者と受信する者が必要である。TV放送は、TV受像機が一つも存在しなければ、放送として成立しない。画家と、画家が描いた絵画と、それを見る鑑賞者がいて初めて絵画作品は成立する。さらに言えば、絵画作品は見られるだけの存在ではなく、場合によっては絵画が私たちを見守るという関係性も想定できる(前田朗編『美術家・デザイナーになるまで――いま語られる青春の造形』彩流社、2019年)。
https://www.sairyusha.co.jp/book/b10015445.html
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表現の多元的モデル観を採用すれば、表現の自由の意味にも変化が必須となる。「私個人の表現の自由」ではなく、「私たちの表現の自由」が原理となるからだ。話す自由があっても聞く自由のない社会に表現の自由はない。絵画を描く自由があっても発表する自由のない社会に表現の自由はない。
話す行為の主体は個人であり、聞く行為の主体も個人であるが、表現とは他者との関係行為であるから、表現の自由にも他者との関係が内在する。表現の多元的モデル観は多元性、複数性、交響性、双方向性で成り立っている。つまり対話型が基本である。常に応答がなされるわけではないが、応答可能性によって支えられる。
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このことは憲法第21条にも明確に定められている。憲法第21条1項は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」と定める。
第1に、集会は個人では成立しない。諸個人の存在が前提であり、諸個人が集結し、居合わせることで成り立つ。
第2に、結社は個人では成立しない。諸個人の存在が前提であり、諸個人が集結し、居合わせることで成り立つ。
第3に、言論は個人では成立しない。諸個人の存在が前提であり、言論を支えるシステムが存在しなければならない。
第4に、出版は個人では成立しない。執筆、編集、印刷、製本をはじめ、出版を支えるシステムが存在しなければならない。
このように憲法第21条は明確に表現の多元的モデル観を表明している。
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それではヘイト・スピーチとはいかなる事態であろうか。法務省はヘイト・スピーチの3類型として、排除・排斥、脅迫・害悪の告知、侮蔑・侮辱を提示している。ヘイト・スピーカーは「死ね」「殺せ」とマイノリティを排除し、脅迫し、侮蔑する。そこでは対話型のコミュニケーションは成立しない。双方向性ではなく、一方向性の罵詈雑言である。交響性はかき消される。マイノリティの応答は無用であり、圧し潰され、抑圧される。
つまり、ヘイト・スピーチとは表現ではなく、「表現を口実とした表現の否定」であり、「疑似表現による表現の抑圧」なのだ。ヘイト・スピーカーは公衆に差別を煽動する。その限りでは話者と聴衆の関係があるように見えるが、そこでは差別や暴力の煽動という、国際常識から言って犯罪の共犯関係しか存在しない。
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表現の一元的モデル観に立つ憲法学は「ヘイト・スピーチこそ典型的な表現である」と主張するのだろう。応答可能性など必要なく、一方向の言いたい放題、罵詈雑言こそ守られるべき表現だと考えるのだろう。表現観が未熟であり、人間観が浅薄と言うべきではないだろうか。
<追記>
上記本文を投稿した後、気になって確認したところ、憲法教科書における表現の自由の記述は、私が指摘した表現の一元的モデル観であっても、「知る権利」や「個人情報保護」の箇所では、表現を受け取る側、自己情報をコントロールする側にたった定義がなされている。
その限りでは多元的な視点が採用されているとも言える。ただ、上記で私が述べた多元的モデル観とは異なる。
最高裁判例でも、端的に表現の自由を定義する場合と、知る権利に即して定義する場合とで、異なる定義方法を採用している。
上記本文の私の記述は大雑把に過ぎるので、論文で言及する場合には、それぞれの論者が一元的モデル観なのか多元的モデル観にも親和的なのかを確認する必要がありそうだ。