Saturday, July 12, 2014

差別団体に公共施設を利用させてよいか(3) 

三 日本国憲法に照らして考える
 山形県や門真市と、その他の自治体の考えの分かれ目は、あたかも集会の自由をどう考えるかにあるかのごとく報道されているが、その認識は正しくない。                                      
本来の論点は、ヘイト・スピーチやヘイト集会に地方公共団体が管理する公共施設を貸すことができるかどうかである。地方公共団体がヘイト・スピーチやヘイト団体に協力してよいか、便宜供与してよいかという問題である。                                                           
 山形県条例について見てみよう。山形県条例第一条は「県民の生涯にわたる学習活動を総合的に支援し、地域の活性化を担う人材の育成及び県民の文化の振興を図るため、◯◯県生涯学習センター(以下「センター」という。)を置く」と、目的を定めている。この目的に明らかに反する活動に対して利用を認めるべきではないから、この目的に明らかに反する活動に対して利用申請を却下することは当然である。                                                           
そして、条例第三条は「知事は、センターの使用の目的、方法等が次の各号のいずれかに該当するときは、許可をしてはならない」として、次の三つを掲げる。(1)公益を害するおそれがあるとき。(2)センターの管理上適当でないと認めるとき。(3)その他センターの設置の目的に反すると認めるとき。                                               
このうち(1)については、公益を害することを明確に証明する必要があり、その現実的危険性が明確でない場合に利用を却下することはできない。(2)(3)についても、そのように判断する根拠を明確にする必要がある。過激な人種差別・人種主義の煽動を行ってきたことで有名な団体の活動であっても、それが室内で平穏に行われる限りは、(1)の要件を満たさない場合がありうる。                                                             
しかし、(2)(3)の要件を満たしていると判断できる場合がある。当該団体構成員が、ある外国人学校に押し掛けて異常な差別街宣を行い、裁判所による有罪判決が確定している場合。当該団体構成員が人権博物館に押し掛けて差別街宣を行い、裁判所による損害賠償命令が確定している場合。当該団体構成員が、ある企業に押し掛けて特定民族の女優をCMに使うなと強要行為を行い裁判所による有罪判決が確定している場合。たとえば、以上の要件を満たす場合、県は当該団体による公共施設利用申請を許可してはならず、却下するべきである。                                                                     
ここで重要なのは当該団体及び集会が人種差別、人権侵害であるのかである。一般的抽象的に集会の自由があるか否かではない。                                                                    
                                      
1 憲法第一三条                                                     
日本国憲法第一三条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とする。個人の尊重、人格権、幸福追求権などの規定である。                                 
第一三条を直ちに権利請求の根拠とすることができるか否かについては議論がある。憲法学上、政府が個人の尊重に反する行為を積極的に行った場合には、当該行為が違憲であると判断されることがありうるが、政府の不作為に対して、個人が政府に作為を求める規定とは理解されていない。                                                                  
佐藤幸治(京都大学名誉教授)は、憲法第一三条の権利を「包括的基本的人権」と位置づけて、個人の尊重について次のように述べている。                                                                
「では、『個人として尊重される』とは、いかなる意味か。それは、上述のように、一人ひとりの人間が人格的自律の存在として最大限尊重されなければならないということである。この『個人の尊重』は、『個人の尊厳』、さらには『人格の尊厳』の原理と呼ぶこともできる。次の一四条は『人格の平等』の原理を規定しており、一三条と一四条と相まって、日本国憲法が『人格』原理を基礎とすることを明らかにするものである。『人格の尊厳』は当然に『人格の平等』を意味する理であるが、『人格の尊厳』は、他の人格との関係をひとまずカッコに入れて、『人格』それ自体のあり方ないし内的構造を示すものである。」(佐藤幸治『日本国憲法論』成文堂、二〇一一年、一七三~一七四頁)                                                    
辻村みよ子(東北大学教授)は、憲法第一三条の権利を「包括的権利と基本原則」に位置づけて、次のように述べている。                                                      
「一三条前段の『すべて国民は、個人として尊重される。』という規定は、いわゆる個人主義の原理を掲げたものと解される。個人主義の原理とは、『人間社会における価値の根源が個人にあるとし、何にもまさって個人を尊重しようとする原理』である。一方では、『他人の犠牲において自己の利益を主張しようとする利己主義』を否定し、他方では『「全体」のためと称して個人を犠牲にしようとする全体主義』を否定することで、『すべての人間を自主的な人格として平等に尊重』している。」(辻村みよ子『憲法・第四版』日本評論社、二〇一二年、一五三~一五四頁)                                                             
ところで、本件で問題となっている事態は、政府(地方自治体)が差別団体による差別集会のために公共施設を供与するという事態であり、換言すれば、政府が差別行為に加担する事態である。第一三条に即して言えば、政府が個人の尊重や人格権に反する行為に手を貸す行為を行ってよいかである。                                                      
なお、第一三条は「すべて国民は」と定めているが、これが日本国籍保持者に限定される趣旨ではなく、日本社会構成員が含まれると解釈するべきであるし、そのように解釈されている。                                                      
また、「個人の尊重であるから人種・民族差別問題とは関係ない」と解釈するべきではない。個人の尊重の原理は個人主義の立場であるから、人種や民族が憲法第一三条の主体になることはない。しかし、人種・民族等の属性に対する攻撃は、他者のアイデンティティに対する侵害であり、諸個人の尊重を妨げる明白な行為である。憲法第一三条は「他人の犠牲において自己の利益を主張しようとする利己主義」を否定するものであって、政府がそのような行為に加担したり、促進することは行ってはならない。                                
                                              
2 憲法第一四条                                        
 日本国憲法第一四条第一項は「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と定める。                                                                           
 この規定は、国民が「差別されない」ことを明示しているが、政府による非差別の保障がどこまで義務的であるかについての見解は多様でありうる。政府が積極的に差別を行った場合には違憲であると判断されることがありうるが、政府が社会的差別を是正できなかったからと言って直ちに政府の責任が問われるわけではない。                                                             
 佐藤幸治は「元来平等は国家による不平等な取扱いを排除するという自由権的文脈で捉えられていた」としつつも、次のように述べている。                                                       
 「しかし、上述の平等観念の変容とも結びつきながら展開してきた現代積極国家にあって、国家は自ら差別してはならないだけでなく、社会に事実上存在する不平等を除去しなければならないという、積極的ないし社会権的内容を盛り込んで平等権を捉えようとする考え方が強くなってきた。そして、このことと関連して、社会の中の根強い差別意識のため、通常の社会経済的過程から疎外されている者が存すると認められる場合に、国家は、その者の平等を保障するための措置をとる義務を負うとともに、その者を通常の過程に参与させるために必要やむをえないと考えられるときは、一時的にその者に対して一般の人に対すると異なる特別の優遇措置を講ずることが求められるという考え方が登場する。」(佐藤前掲一九八頁)                                                            
 辻村みよ子は、形式的平等と実質的平等に関連して、次のように述べている。                                
 「しかし、上記のように、平等の観念自体に変化が生じ、実質的平等保障の要請が強まっていることによって、一四条にも実質的平等の保障が含まれると解することも妥当となる。ただし、実質的平等をも保障していると理解する場合にも形式的平等の原則が放棄されたわけではない。理論上はあくまで形式的平等要請が原則であり、法律上の均一的な取扱いが要請されるが、一定の合理的な別異取扱いの許容範囲内で実質的平等が実現されると解するのが筋であろう。」(辻村前掲一七二頁)                                                            
ここでも、第一三条と同じ構図で考えることができる。本件で問題となっているのは、政府(地方自治体)が差別団体による差別集会のために公共施設を供与するという事態である。換言すれば、政府が差別行為に加担し、「共犯者」となることである。第一四条に即して言えば、政府が法の下の平等や非差別に反する事態に手を貸す行為を行ってよいかが問われている。このことを抜きに、集会の自由などという議論をするのは非常識で、初歩的な間違いである。                                                        
                                              
3 憲法第二一条                                                     
 日本国憲法第二一条第一項は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」とし、第二項第一文は「検閲は、これをしてはならない。」とする。                                    
 差別団体の公共施設利用を集会の自由の問題に局限する思考によれば、集会の自由は表現の自由であり、優越的地位にあるので、当該団体や個人の性格や集会の内容に照らして判断してはならないとされる。そのような判断が行われることは、検閲と言うべき事態と言うことになる。しかし、このような思考は不適切である。                                                      
 第一に、憲法第一三条や第一四条を無視する根拠がない。憲法学は第二一条の表現の自由を「優越的地位」と称して、事実上絶対化する議論を展開してきたが、不適切である。憲法第二一条をいくら強調しても、憲法第一三条及び第一四条を覆す理由にはならない。                                
 第二に、表現の自由の根拠は人格権と民主主義に求められる。その人格権とはまさに憲法第一三条である。憲法第一三条の人格権を破壊するヘイト・スピーチを、人格権を根拠にする表現の自由を口実に許すのは論理矛盾である。                                               
 第三に、民主主義についても同じことが言える。ヘイト・スピーチはターゲットとされたマイノリティの社会参加を阻み、民主主義を否定する行為である。金尚均は「ヘイトスピーチの有害性は、主として、社会のマイノリティに属する個人並び集団の社会参加の機会を阻害するところにあり、それゆえ、ヘイトスピーチを規制する際の保護法益は、社会参加の機会であり、それは社会的法益に属すると再構成すべきである」と主張している(金尚均「名誉毀損罪と侮辱罪の間隙」『立命館法学』三四五・三四六号、二〇一二年)。                                       
民主主義を根拠に表現の自由の優越的地位を唱えながら、表現の自由を口実に民主主義の破壊を擁護するのは論理矛盾である。                                                                  
 第四に、表現の規制に関する内容中立原則なるものはアメリカ憲法の判例法理である。アメリカ判例に学ぶべき点が多々あるにしても、そのまま日本国憲法の解釈に持ち込むには、それを正当化する論理が必要である。                                                 
 しかし、十分な理由が示されたことはなく、むしろアメリカ憲法と日本国憲法の間には大きな差異が目立つ。                                                
    アメリカ憲法の表現の自由規定(修正第一条)と日本国憲法第二一条は、規定様式が全く異なる。修正第一条は「連邦議会は、国教の樹立に関し、自由な宗教活動を禁止し、言論または出版の自由、平和的に集会し、苦情の救済を求めて政府に請願する人民の権利を縮減する法律を制定してはならない。」である。                              
    アメリカ憲法には日本国憲法第一三条に相当する規定がない(独立宣言にはある)。                                            
    アメリカ憲法には日本国憲法第一四条に相当する規定がない。                                               
    本国憲法第二一条及び第一二条は、アメリカ憲法よりも、フランス憲法の内容となっているフランス人権宣言第一一条と類似した形式である。                                               
日本国憲法第一二条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」である。つまり、濫用の防止と責任である。                                                 
フランス人権宣言第一一条は「思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利の一つである。したがって、すべての市民は、法律によって定められた場合にその自由の濫用について責任を負うほかは、自由に、話し、書き、印刷することができる。」である。すなわち、第一に表現の自由の保障であり、第二にその制約原理(濫用の防止)である。                                      
    本国憲法第二一条及び第一二条は、アメリカ憲法よりも、国際自由権規約(市民的政治的権利に関する国際規約)第一九条第二項及び第三項と類似した形式である。                                          
国際自由権規約第一九条第二項は「すべての者は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。」であり、第三項は「2の権利の行使には、特別の義務及び責任を伴う。したがって、この権利の行使については、一定の制限を課すことができる。ただし、その制限は、法律によって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。(a)他の者の権利又は信用の尊重。(b)国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護。」である。すなわち、第一に表現の自由の保障であり、第二にその制約原理(責任)である。                                             
これまでの憲法学の多数説は、憲法構造の違いを無視してアメリカ憲法の法理をそのまま持ち込もうとするものであり、日本国憲法の基本原理を踏まえているとは言い難い。差別表現をめぐる憲法学の多数説について詳しくは、前田朗「差別表現の自由はあるか」(本誌五六一~五六四号、二〇一二年)参照。