Saturday, October 03, 2015

「奇妙なナショナリズム」研究に学ぶ(1)

山崎望編『奇妙なナショナリズムの時代――排外主義に抗して』(岩波書店)が出た。編者・山崎望は政治学・政治理論、駒澤大学准教授。他の7人の執筆者も、社会学、社会運動論、比較政治学、国際社会学、などの研究者。1960年代生まれが1人、70年代生まれが5人、80年代生まれが2人の、中堅・若手による意欲的な研究書である。
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巻頭の山崎望「序論 奇妙なナショナリズム?」は、本書の基本的な問題意識と構成を呈示している。
「ポスト国民国家」の配置をグローバル化と新自由主義による国民国家の揺らぎとしてとらえ、「境界線の政治」を問う形で、最近登場しているナショナリズム現象を「見慣れない」「奇妙な」ナショナリズムと位置付ける。著者は6つの類型を呈示する。
第1は、国民なき状態の国家が、国民国家形成を志向するナショナリズム。
第2は、国家なき状態の民族が国民国家形成を志向するナショナリズム。
第3は、対外的に拡張する帝国主義的なナショナリズム。
第4は、植民地からの分離・独立を目指すナショナリズム。
第5は、国民統合の機能を果たすナショナリズム。
第6は、既存の国民国家を解体し、新たな国民国家形成を求めるエスニック・ナショナリズム。
ところが、グローバル化と新自由主義と言う背景をもつナショナリズムは、これらとは異なるさまざまな奇妙さを有する。奇妙なナショナリズムの特徴を整理した著者は、そのアリーナを6次元と分類する。
第1は、日常レベル。
第2は、書籍やサイバー空間。
第3は、社会運動レベル。
第4は、政治的レベル。
第5は、公的制度として制度化されたレベル。
第6は、国際関係のレベル。
著者はこれら6つの次元で展開するナショナリズムの分析のために、奇妙なナショナリズムは「政治アリーナの配置(コンステレーション)の中に現れる現象として相対的に把握すべきであろう」という。その実践が、著者及び7人の執筆者たちの論文である。
以上の叙述は簡潔に整理されていて、わかりやすい。本書の見取り図を示すために書かれた序論としての意味がよくわかる。

もっとも、ナショナリズムの6類型はわかりやすいようでいて、わかりにくい。
(1)明治維新期の日本で機能したのは第1の類型であろうし、日清・日露戦争以後の帝国主義的膨張期に機能したのは第3の類型であろう。それでは、戦後日本国憲法体制の下ではどうだったのだろうか。戦後民主主義と象徴天皇制の下で第5の類型が機能したと見ることができるのだろうか。この時期の一番の問題は、植民地の独立という脱植民地過程が実在したにもかかわらず、そのことをほとんど隠蔽・無視したことにあるのではないだろうか。植民地の歴史の否認の裏側に日本ナショナリズムが張り付いていたのではないだろうか。また、経済成長後の大国主義意識はどうであろうか。第3の類型だが、軍事的側面ではなく経済的側面が前景化されたと見るのだろうか。
(2)6類型が掲げられているが、それらの間の重畳や、相互移行をどう見るかである。序論という性格から、立ち入った議論を展開していないのかもしれない。

(3)私見では、在日朝鮮人に対する差別とヘイトは、いくつもの歴史的段階を経て形成されてきたものである。例えば、第1に、日清・日露戦争を始めとする帝国主義的膨張のもとで朝鮮を植民地化した過程、第2に、植民地朝鮮に対する進出・収奪・搾取、第3に、植民地人民を日本本土に迎え入れた後に生じたコリアン・ジェノサイド(関東大震災朝鮮人虐殺)、第4に、植民地独立=脱植民地過程の否認、植民地支配責任論の不在、第5に、国籍剥奪された朝鮮人の「在日朝鮮人」の形成と、文部省による朝鮮学校差別に典型的な差別とヘイトの増幅、第6に、在日朝鮮人の人権運動と、国際人権法の影響による在日朝鮮人の人権の前進、第7に、1980~90年代における」「反北朝鮮キャンペーン」による反感と差別の醸成、第8に、朝鮮による日本人拉致が明らかになって以後の反発、等々。こうした歴史的経過を経て、この国に深く根付いた排外主義、レイシズム、朝鮮人差別。ナショナリズム論はこうした歴史的経過をどのように再整理するのだろうか。