金尚均「人種差別表現と個人的連関――特定(諸)個人に向けられたヘイトスピーチについて」『龍谷法学』49巻4号(2017年)
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この数年、『ヘイト・スピーチの法的研究』(法律文化社、2014年)を編集し、さらにヘイト・スピーチの刑事規制に関する多数の論文を公にしてきた著者の最新論文である。
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ヘイト・スピーチは、不特定多数の人々に対する誹謗中傷と排除の言動を指すが、特定(諸)個人に対するヘイト・スピーチもありうる。不特定多数に対するヘイト・スピーチは日本では刑事規制の対象にならないとされてきたが、後者の特定(諸)個人に対するヘイト・スピーチは名誉毀損罪や侮辱罪に当たる場合がある。
早くから差別表現の刑事規制問題を論じてきた刑法学者の平川宗信は、この類型について、名誉毀損型と言うよりも、「粗暴犯」型と把握できるとし、刑法の侮辱罪を名誉毀損罪から切り離して、粗暴犯型の侮辱罪規定に再編成して、これに対処する方法を提案してきた。
金尚均は、平川の提案の積極面を踏まえつつ、ヘイト・スピーチによって侵害されるのは名誉ではなく、人間の尊厳であることの意味を再考する。人として認めて初めて名誉が生じるのだから、人間の尊厳を否定するということは、そもそも名誉など成立しないということである。名誉の毀損と人間の尊厳の保護法益としての理解は明らかに異なる。
「属性を理由とする差別的言動であるヘイトスピーチは、――何らの文脈もなく突発的に発せられるのではなく――ある社会において歴史的に形成され、固定化された、特定の集団に対する蔑みないし同等の社会の構成員であることの否認を認識的背景にして発せられることから、これが特定の個人に対して発せられたとしても、――『おまえら、○○人はゴキブリだ』、『おまえみたいな○○人は日本から出ていけ』という発言のように――属性を理由に当該集団の構成員に対して罵詈雑言や誹謗中傷が行われる場合には、集団そのものが蔑まれていることで、構成員である彼の名誉は、実は既に問題になっておらず、――名誉が問題になる前提としての――同じ対等な地位を持つ社会の構成員であること、ひいては同じ人間であることを否定されているわけであり、それゆえ人間の尊厳に対する攻撃が本質であることを明らかにし、その上で名誉と人間の尊厳との相違を示す必要があるからである。」
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そこで金はドイツにおける集団侮辱罪の規定、学説、判例を瞥見した上で、「名誉毀損・侮辱罪の文脈に照らすと、表現による(諸)個人の社会的評価の低下又は社会的情報状態の悪化が、個人の努力ではどうにもならない属性を理由とする集団に対する社会的偏見又は憎悪に基づいて属性によって特徴づけられる集団に関する表現によって生じた場合、これは、純粋、一個人だけに向けられた攻撃とは言い難い。」と言う。被害は個人だけでなく、集団にも及ぶからである。個人の名誉毀損と言う理解では把握できないヘイト・スピーチの特徴がある。
かくして金尚均は、ヘイト・スピーチ解消法を改正して、人種差別及び排除煽動の禁止、属性を理由とする侮辱の処罰を規定するよう提案する。
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ヘイト・スピーチの刑事規制に関して長年取り組んできた著者による論文であり、本論文では、ヘイト・スピーチ一般ではなく、個人的連関のある場合に焦点を絞って論じている。明らかに個人的連関のある場合であっても、名誉毀損とは異なり、ヘイト・スピーチでは人間の尊厳が失われ、しかも直接標的とされた個人だけではなく、当該集団にも被害が生じることが的確に把握されている。ヘイト・スピーチの刑事規制につき、日本刑法で対応可能な局面と、対応できない局面とを腑分けして、次の議論につなげることは重要である。