Sunday, May 28, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(100)人種差別表現と個人的連関

金尚均「人種差別表現と個人的連関――特定(諸)個人に向けられたヘイトスピーチについて」『龍谷法学』49巻4号(2017年)
この数年、『ヘイト・スピーチの法的研究』(法律文化社、2014年)を編集し、さらにヘイト・スピーチの刑事規制に関する多数の論文を公にしてきた著者の最新論文である。
ヘイト・スピーチは、不特定多数の人々に対する誹謗中傷と排除の言動を指すが、特定(諸)個人に対するヘイト・スピーチもありうる。不特定多数に対するヘイト・スピーチは日本では刑事規制の対象にならないとされてきたが、後者の特定(諸)個人に対するヘイト・スピーチは名誉毀損罪や侮辱罪に当たる場合がある。
早くから差別表現の刑事規制問題を論じてきた刑法学者の平川宗信は、この類型について、名誉毀損型と言うよりも、「粗暴犯」型と把握できるとし、刑法の侮辱罪を名誉毀損罪から切り離して、粗暴犯型の侮辱罪規定に再編成して、これに対処する方法を提案してきた。
金尚均は、平川の提案の積極面を踏まえつつ、ヘイト・スピーチによって侵害されるのは名誉ではなく、人間の尊厳であることの意味を再考する。人として認めて初めて名誉が生じるのだから、人間の尊厳を否定するということは、そもそも名誉など成立しないということである。名誉の毀損と人間の尊厳の保護法益としての理解は明らかに異なる。
「属性を理由とする差別的言動であるヘイトスピーチは、――何らの文脈もなく突発的に発せられるのではなく――ある社会において歴史的に形成され、固定化された、特定の集団に対する蔑みないし同等の社会の構成員であることの否認を認識的背景にして発せられることから、これが特定の個人に対して発せられたとしても、――『おまえら、○○人はゴキブリだ』、『おまえみたいな○○人は日本から出ていけ』という発言のように――属性を理由に当該集団の構成員に対して罵詈雑言や誹謗中傷が行われる場合には、集団そのものが蔑まれていることで、構成員である彼の名誉は、実は既に問題になっておらず、――名誉が問題になる前提としての――同じ対等な地位を持つ社会の構成員であること、ひいては同じ人間であることを否定されているわけであり、それゆえ人間の尊厳に対する攻撃が本質であることを明らかにし、その上で名誉と人間の尊厳との相違を示す必要があるからである。」
そこで金はドイツにおける集団侮辱罪の規定、学説、判例を瞥見した上で、「名誉毀損・侮辱罪の文脈に照らすと、表現による(諸)個人の社会的評価の低下又は社会的情報状態の悪化が、個人の努力ではどうにもならない属性を理由とする集団に対する社会的偏見又は憎悪に基づいて属性によって特徴づけられる集団に関する表現によって生じた場合、これは、純粋、一個人だけに向けられた攻撃とは言い難い。」と言う。被害は個人だけでなく、集団にも及ぶからである。個人の名誉毀損と言う理解では把握できないヘイト・スピーチの特徴がある。
かくして金尚均は、ヘイト・スピーチ解消法を改正して、人種差別及び排除煽動の禁止、属性を理由とする侮辱の処罰を規定するよう提案する。
ヘイト・スピーチの刑事規制に関して長年取り組んできた著者による論文であり、本論文では、ヘイト・スピーチ一般ではなく、個人的連関のある場合に焦点を絞って論じている。明らかに個人的連関のある場合であっても、名誉毀損とは異なり、ヘイト・スピーチでは人間の尊厳が失われ、しかも直接標的とされた個人だけではなく、当該集団にも被害が生じることが的確に把握されている。ヘイト・スピーチの刑事規制につき、日本刑法で対応可能な局面と、対応できない局面とを腑分けして、次の議論につなげることは重要である。


Wednesday, May 17, 2017

日本国憲法のレイシズムを問うために

鄭栄桓「在日朝鮮人の『国籍』と朝鮮戦争(1447-1952年)――『朝鮮籍』はいかにして生まれたか」『PRIME』40号(2017年)
かつての外国人登録、現在の外国籍の在日朝鮮人の在留カード及び特別永住者証明書には「朝鮮」「韓国」の2つの表示が用いられている。1947年には「朝鮮」のみであったのに、その後、「韓国」が導入され、ともに地域を表示するものであった。ところが、「韓国」はいまでは大韓民国籍を表示しているのに、「朝鮮」は地域等の表示であって、朝鮮民主主義人民共和国を表示するものではない。にもかかわらず、「朝鮮」を朝鮮民主主義人民共和国と結び付けて、政治的に差別がなされていることは周知のことである。
これは朝鮮半島の分断という歴史的理由が背景となっているものの、朝鮮植民地支配の責任に頬かむりし、それどころか植民地支配の帰結としてつくり出された在日朝鮮人に対する責任も無視し、逆に差別してきた日本政府の政策に由来する。日本政府の差別政策は見事に一貫しているが、具体的な差別方法が一貫していたわけではなく、時期により変遷が見られる。
このテーマには、飛田雄一、大沼保昭、田中宏ら多数の先行研究があるが、著者は1947~52年――1947年は外国人登録命令によって「便宜の措置」として「朝鮮」が採用された年であり、1952年はサンフランスシスコ講和条約発効に伴い朝鮮人の日本国籍が「喪失」したとされた年――の日本政府の施策の変遷を詳細に検討する。
よく知られる通り、外国人登録令は1947年5月3日の日本国憲法施行の前日である5月2日に出された。「国民主権」を定めたはずの憲法施行直前に、天皇の命令によって「国民」の一部を「国民」から除外した。一夜にして100万単位の人間の国籍が剥奪されるという人類史上他に例のない暴挙である。こうして「日本国民」が形成される一方、外国人とされた朝鮮人の処遇はその後、数年間の政策を通じて変遷し、現在に至る。
憲法論的に言えば、憲法制定権力論、国民主権論に直接かかわる問題であるにもかかわらず、憲法学はこれらの歴史を無視ないし軽視してきたといってよい。憲法制定時の「国民(臣民)」に属するとされていた人々が、完成した憲法施行の前日に一方的に「国民」から除外された事実は、日本国憲法の正統性そのものに疑念を抱かせるはずだ。
この事実は、私の関心事としては「日本国憲法のレイシズム」というテーマに属する。あの戦争への反省、国際協調主義、平和主義を基調とし、法の下の平等と差別の禁止を掲げているにもかかわらず、日本国憲法は幾多の差別を容認してきた。むしろ、日本国憲法がレイシズムの根拠にさえなりかねない逆説的な歴史が続いた。そのことを自覚しないがゆえに、憲法学は外国人差別に加担・助長してきたと言ってよいだろう。このテーマで短い論文を書くつもりでいたのだが、ちょうどよい時期に、鄭栄桓論文に出会えた。夏までには「日本国憲法のレイシズム」を問う文章を書きたいものだ。

Sunday, May 14, 2017

よど号拉致問題報道の歴史と現在

「えん罪・欧州拉致」刊行委員会編、前田裕司監修
『えん罪・欧州拉致――よど号グループの拉致報道と国賠訴訟』(社会評論社)
[主要目次]
第1章 すべてはここから始まった
第2章 〈特別寄稿〉“拉致〟報道の検証とヨーロッパ拉致 浅野健一
第3章 ヨーロッパ拉致の真相と八尾恵の“嘘と創作”
第4章 高沢浩司『宿命』はフィクションである
第5章 国賠裁判と真相究明
第6章 「朝鮮から日本を考える」活動
第7章 日朝平壌宣言と拉致問題を越えて日朝国交関係の正常化を
第8章 平壌での座談会と小西隆裕氏への単独インタビュー
1970年3月31日の共産同赤軍派による日航機よど号ハイジャック事件の報道は中学時代だがよく覚えている。とはいえ、ハイジャック犯が何を考え、何を目指していたのかは理解の外だった。今でも同じだ。思想も論理もない、と言わざるを得ない。(幾度も試行錯誤や自己批判を重ねて、元ハイジャック犯たちが多様な思考を紡ぎだしてきたことを否定するつもりはないが)。
1988年の柴田泰弘、及び八尾恵の逮捕報道は記憶していないが、旅券返納命令に対する裁判支援の会の横浜における集会に数回参加し、支援の輪に加わった。八尾恵の変転果てしない証言にふりまわされる結果となった。
1995年ごろには救援連絡センター事務局に入った八尾が、やがて高沢浩司とともにセンセーショナルな時の人になったときの氾濫する報道を丁寧に追いかける気にはなれなかった。高沢の本は読んだが、ノンフィクションではなく「小説」であると見抜けない人間が多いことに驚いた。
それからさらに20年。『救援』紙上の記事は読んできたが、それ以上積極的にかかわることをしてこなかった。近くに関係者がおり、まずは子どもたち、そして本人たちの帰国、処遇を巡って粘り強い努力が続けられてきたことは知っていたが、一つ一つの局面で具体的に何がどうなっていたのかまでは知らない。本書を読んで初めて知ることが多かった。編者、執筆者たちの努力には敬意を表したい。
歴史のあてどなさと怖さを身にしみて感じながら、一度だけ、偶然、高麗ホテルの喫茶店で隣のボックスに陣取っていたメンバーたちの表情を思い起こした。

Wednesday, May 10, 2017

琉球の自己決定権と独立論

里正三『琉球独立への視座――歴史を直視し未来を展望する』(榕樹書林)
はじめに
1 世界経済の仕組み
2 成長路線の限界
3 日本型システムの問題点
4 民主主義と社会参加
5 「日本復帰」への考察
6 中国脅威論
7 戦争を考える
8 目指すべき琉球社会
9 新生琉球の経済政策
10 正義は我が方にあり
20104月に国連人種差別撤廃委員会は、「沖縄における軍事基地の不均衡な集中は、住民の経済力、社会的及び文化的権利の享受に否定的な影響があるという現代的形式の差別に関する特別報告者の分析を改めて表明する(第2条及び第5条)」とし、次いで20149月には「日本が、その立場を見直し、琉球を先住民族として承認することを検討し、また彼らの権利を保護するための具体的な措置をとることを勧告する」としている。「琉球処分」という併合前には国家を形成していたという点で、アイヌ民族よりもはるかに先住民族の権利を有する琉球列島の人々に対して、軍事植民地として継続するために「先住民族の権利」を認めない日米政府は「ならず者国家」である。
琉球民族独立総合研究学会に属し、学会誌にも琉球独立論を執筆した著者による1冊である。大阪に生まれた著者の祖母と叔母が加計呂麻島出身という。1975年に沖縄に移住し、市民運動、平和運動に参加してきた。
琉球王国に対する「琉球処分」の歴史や、現在に至る構造的沖縄差別を前に、うちなんちゅの自己決定権を実現するために、日米による軍事植民地からの脱却を目指す。そのための指針は国際人権法であり、人種差別撤廃条約であり、先住民族権利宣言である。それゆえ、目指すべき琉球社会は徹底した民主社会であり、「非武の邦」である。著者は琉球独立論の背景としての世界経済認識や日本型システムの問題性も詳しく論じている。松島泰勝による琉球独立論の提唱と併せて読むべき1冊だ。
奥付に記載された出版社の住所は「琉球共和国宜野湾市宜野湾」である(郵便番号とEメールアドレスは日本国のものを使っている)。

Monday, May 08, 2017

『アジア現代女性史』11号(2017年)

『アジア現代女性史』11号(アジア現代女性史研究会、2017年)
特集は「WIDF調査団に参加したヨーロッパの女性――レジスタンスから朝鮮戦争停戦運動へ」で、次の4本の論考・資料が収録されている。
ケイト・フレロン・ヤコプスン――デンマークのレジスタンスから国際平和運動へ/藤目ゆき
ケイト・フレロン・ヤコプスンの著作と資料
『ノイエス・ドイチュラント』紙のリリー・ヴェヒター関連記事に寄せて/木戸衛一
朝鮮戦争調査直前のジレット・ジーグレル――『私はP.S.F.にいた』/松田祐子
WIDFとは国際民主女性連盟で、朝鮮戦争のさなかに現地調査を行い、報告書を公表した。
藤目ゆき編『国連軍の犯罪』参照
ケイト・フレロン・ヤコプスンはデンマークの著名な女性ジャーナリストで、ナチス・ドイツに対するレジスタンスに起源をもつ雑誌『自由デンマーク』の編集者である。レジスタンスの闘志としてゲシュタポに逮捕され収監され、フレスリウ収容所に収容された。45年4月に解放された。朝鮮での戦争実態の調査活動や、その後の人生も紹介されている。
リリー・ヴェヒターはドイツの女性平和活動家で、ナチス時代に家族3人を強制収容所で失った。朝鮮戦争の実態調査に加わったことで、ドイツで犯罪者として処罰・弾圧されたという。
ジレット・ジーグレルはフランスのジャーナリスト・作家であり、多くの推理小説を書いている。やはり朝鮮戦争の調査団に参加した。『私はP.S.F.にいた』はレジスタンスの経験をもとにした小説である。

アジア現代女性史研究会
大阪大学人間科学研究科 藤目研究室気付

Sunday, May 07, 2017

「慰安婦」論争の一局面――「上野-吉見論争」は論争だったのか

金富子「上野流フェミニズム社会学の落とし穴」『商学論纂』(中央大学商学研究会)58巻5・6号(2017年)
『継続する植民地主義とジェンダー』の著者、『歴史と責任』『Q&A朝鮮人「慰安婦」と植民地支配責任』の編者であり、「慰安婦」問題の解決を求める運動の中心人物でもある著者の論文だ。
著者は、1997~98年当時の、上野千鶴子と吉見義明の間で交わされた論争を振り返り、その現在的位置と意味を測定しようとする。それが過去の論争ではなく、上野が絶賛する朴裕河の『和解のために』と『帝国の慰安婦』という形で、現在まさに議論と政治の焦点になっているからだ。著者は、上野の『ナショナリズムとジェンダー』が『帝国の慰安婦』に道を開いたと位置付ける。上野が朴裕河の著作を推奨したと言うだけではなく、『帝国の慰安婦』は「上野理論の実践」という側面を有するという。上野のいう「不純な被害者像」、「モデル被害者」論、「民族言説」論などをすべて共有し、反転させたのが朴理論だと見る。
その上で、著者は、2016年3月28日に東京大学で開催された非公開(その後、集会記録はインターネット上で公開)の研究集会における吉見と上野の発言を対比し、『帝国の慰安婦』に対する両者の評価を踏まえて、「学問的手続き」について、朴著は「研究書としては失格」ではないのか、「慰安婦」制度の責任主体をめぐる議論(業者主犯説)、「慰安婦」の「主体性」の理解などについて論じる。
最後に著者は、歴史家の成田龍一の議論を一瞥して、「本稿もまた『上野の議論の錯誤と矛盾』を突いたにすぎないとされるかもしれない。上野氏は『ジェンダー史からの歴史学への挑戦』と述べたが、筆者もまたジェンダー史研究者として応答したつもりである」という。
若干コメントしておこう。
第1に、私は上野-吉見論争が学問的な論争であったとは考えない。小林よしのり―吉見論争の方が、まだしも意義があっただろう。フェミニズムやジェンダーという言葉を振り回せば何かを言ったつもりになれるのは、結構なことだが。とはいえ、上野の影響力の大きさから、20年たっても金富子論文が書かれる必要がある。これは、この国の学問水準の喜劇的な低さを反映している。
第2に、東京大学の非公開研究集会に私も聴衆の一人として参加したが、期待外れであった。議論がかみ合うか否かという以前に、デマを平気で容認し、開き直る論者がいたからだ。朴裕河擁護論者で、まともに議論しようとしたのは西成彦だけだったのではないか。西の主張には首をひねるが、その姿勢はまだしもまともだったと思う。こうした研究集会を実現したオーガナイザーたちには感謝している。
第3に、金富子は上野の「反日ナショナリズム」批判を取り上げて、「上野氏の隠れたナショナリズムが現れている」という。正しいが、「隠れた」の3文字は余計だろう。上野のナショナリズムとレイシズムは20年前から明らかだからだ。

Saturday, May 06, 2017

戦争責任/植民地責任論のもう一つの視座

鄭栄桓「解放直後の在日朝鮮人運動と『戦争責任』論(1945-1949)――戦犯裁判と『親日派』処罰をめぐって」『日本植民地研究』28号(2016年)
『朝鮮独立への隘路』や『忘却のための「和解」』の著者にして、『平和なき「平和主義」』の翻訳者として、在日朝鮮人歴史学/日本歴史学/現代思想の先頭を駆ける著者の地道な歴史研究である。
日本歴史学では、敗戦後の数年間、とりわけ東京裁判期の日本思想の問題として、戦争責任論はあったにしても、植民地責任論がなかったことが知られる。東京裁判における「アジアの不在」や朝鮮植民地支配論の欠落である。これに対して、著者は、解放直後の在日朝鮮人運動に目を向け、そこでは戦争責任、植民地責任論が独自の展開を遂げていたことを提示する。それが、現在の「植民地責任論」といかなる関係にあるのかを問うためにも、当時の議論の状況を提示する必要がある。
著者によると、多様な論点があるが、第1の特徴は、日本の「戦争責任」を追及する論理と重なり合う形で「親日派」批判があったことである。具体的には、一心会に協力した人物が、解放後に朝連創立に関わり幹部となっていたことへの批判が早くに出ていたことが紹介される。韓国における「親日派」追求と並行しつつ、在日朝鮮人世界では独自の追及の議論が存在した。それが当時に日本共産党の議論といかなる関係にあったのかも問われる。
第2に、実際に東京裁判が開廷した時期における在日朝鮮人の論説である。ここでは、世界的な戦争犯罪追及の論理を踏まえながら、日本の戦争犯罪を糾弾しつつ、加えて「親日派」へも厳しく対処する思考が確認できる。朝連と他の民族団体とでは関心の向け方が異なり、やがて対立を孕んでいくことになる。東京裁判判決後は、判決への論評において、南次郎や小磯国昭の量刑の軽さへの批判、天皇不訴追問題、日本国民の責任論などがすでに登記されていた。
著者は次のようにまとめる。
「以上の分析から指摘できることは、当時の『戦争責任』認識にある『植民地責任』論への深化・発展の可能性である。当初から朝鮮人活動家たちは『戦争犯罪人』追放の一環として『親日派』問題を扱う視点を示したが、当時の論調からは東京裁判が設定した『戦争責任』の範疇をいかに植民地支配へと関連付けるかに苦心する様が見て取れる。東京裁判に際しては植民地化を朝鮮『侵略』を犯した『平和に対する罪』と位置付けて判決に異論を示した。また、在日朝鮮人メディアは戦時下における『皇民化』政策を『人道に対する罪』として裁く視点を示した。これらの論調は、同時代の日本人の戦争責任論には全く見られない者である。連合国もまた不問に付した『朝鮮の平和』『朝鮮の人道』を犯す行為に対する重要な異議申し立てと言えよう。韓国における反民特委の活動も、こうした認識の延長上にその意義を認めていたのである。」
著者は「残された課題」として「世界史的な『植民地責任』論」へとつなげることを掲げている。
これまでの東京裁判論や戦争責任/植民地責任論の空白を埋め、議論の射程を広く深く及ぼす論文だ。論文の位置や意義は著者自身が整理している通りであろう。とても勉強になるし、次の論文にも期待したい。
歴史学から離れて、法学的観点から若干の感想を記しておこう。
第1に、戦争責任/植民地責任論と、20世紀初頭に世界的に論究された民族自決権との関係をどのように見るかである。当然、直接的な不可分の関係にあるのだが、植民地時代や解放直後の在日朝鮮人が民族自決権をどのように受け止め、そこから日本による戦争責任/植民地責任をいかに組み立てたのか。
併せて言及しておけば、アイヌモシリや琉球王国に対する植民地支配も同じ文脈で検討されなければならない。
第2に、「世界史的」な議論という点では、第一次大戦後のイスタンブール裁判における人道と文明に対する犯罪の構想がいまだに無視されていることをどう見るかである。私は二次文献に基づいてイスタンブール裁判を紹介してきたが、それ以上の調査・研究はできていない。他の論者はいずれもイスタンブール裁判を無視してきた。
第3に、著者も注目している植民地責任論と平和に対する罪、人道に対する罪の関係である。この点は、国際刑事裁判所規程の制定過程(とりわけ国連国際法委員会の議論)の研究や、ダーバン人種差別反対世界会議における議論ともつながる。
第4に、以上のこととも関連するが、「植民地責任」論と「植民地犯罪」論の関係である。犯罪論ぬきの責任論については、戦争犯罪論ぬきの戦争責任論の限界を私は指摘してきた。戦争犯罪論、犯罪論を踏まえた戦争責任論、及び犯罪ではない場合も含めた戦争責任論の区別と関連をみていく必要があるだろう。植民地犯罪論も同じである。

最後に、著者が対象とした時期は、日本国憲法が制定・公布・施行され、「戦後民主主義」が輝き始めた時期である。
在日朝鮮人から見れば、植民地支配によって、大日本帝国憲法の下で与えられた帝国臣民の自由と権利さえ奪われ、全くの無権利状態に置かれた時期でもある。
日本人にとっては、植民地状態にして差別してきた朝鮮人をあらためて切り捨て貶めることで、「日本人」「日本国民」の主権と自由と民主主義を満喫し始めた時期である。脱植民地化過程をほとんど経ることなく、戦争の「被害者」になったふりをして生きる自由を満喫した時代だ。このことが日本人の戦争責任/植民地責任論に影響を及ぼしたことはもちろんだが、今日のヘイト・スピーチとも見事につながっている。

旭日旗掲揚問題と報道比較

5月4日、アジア・サッカー連盟(AFC)は、アジア・チャンピオンズリーグ(ACL)の水原(韓国)戦で、J1川崎のサポーターが旭日旗を掲げたことについて、AFC主催大会のホーム1試合を無観客試合とし、罰金1万5千ドル(約70万円)を科す(ただし1年間の執行猶予付き)と発表した。
この件に関する各紙の報道を比較してみよう。
東京新聞5月5日:第2社会面:2段48行
見出し「J1川崎 旭日旗問題で処分」
事実を簡潔に報じたうえで、
「AFCの規律委員会は、旭日旗は国籍や政治的主張に関連する差別的象徴とし、倫理規定に違反すると認定した。」
Jリーグの村井満チェアマンの言葉「判断の背景を確認しないといけないが、運営を円滑にするために協力することはありうる」を紹介。
川崎の藁科義弘社長の言葉「旭日旗は一般的に使われてきた事実があり、政治的、差別的なものではない。主張していくべきは主張したい。」を紹介。
毎日新聞5月5日:スポーツ面:2段44行
見出し「執行猶予付きで川崎無観客試合」
事実を簡潔に報じたうえで、
「ACL1次リーグの水原(韓国)戦で川崎サポーター2人が旭日旗を掲げ、反発した水原サポーターが川崎側の出口に押し寄せる騒動になった。」
「川崎の藁科義弘社長は『処分の理由が明確になっていない』としてAFCに問い合わせる方針。Jリーグの村井満チェアマンは『川崎を支える形で日本の立場を主張していく』と語った。」
産経新聞5月5日:社会面:3段58行(そのうち22行は共同通信記事。36行は独自記事)
見出し「J1川崎に無観客試合  『政治的なメッセージない』『国としてきちんと主張を』」
独自記事では、
「旭日旗はかつて旧日本軍の軍旗として用いられたが、現在は海上自衛隊の自衛艦旗に使われているほか、戦前から、漁船の大漁旗や祝賀イメージにちなんだデザインとしても定着している。」
「川崎の藁科義弘社長は『旭日旗に政治的、差別的メッセージは一切ない。正しい認識が得られずに残念だ』と説明。Jリーグの村井満チェアマンも『大変残念。日本の主張をしっかり伝え続けていく』と話した。」
「スポーツ評論家の玉木正之氏は『旭日旗を掲げることが政治的メッセージと関係ないという立場を示すならば、国としてきちんと主張すべきだ』とする。」
麗澤大の八木秀次教授の言葉「旭日旗を掲げる人の大半は応援のためで、ヘイト(憎悪)の意図があるわけではない。日本政府はこれを機に、曖昧だった旭日旗の法的位置付けを明確にする必要がある」を紹介。
読売新聞5月5日:スポーツ面:3段31行
見出し「応援席に旭日旗 猶予付き『無観客』」
毎日新聞とほぼ同じ内容だが、
「旭日旗に政治的、差別的意図はない、というのが日本サッカー協会、Jリーグも含めた日本側の立場。川崎の藁科義弘社長は『処分理由を確認し、今後のことを考えたい』と、質問状を提出する意向を示した。Jリーグの村井満チェアマンも『大変残念。日本の立場をしっかり主張していくことになる』と話した。」
朝日新聞5月5日:社会面:2段48行、及びスポーツ面:1段33行(潮智史)[唯一の署名記事]
社会面:見出し「サポーターが旭日旗 川崎を処分  チーム『政治的でない』アジア連盟『規定違反』」
事実関係が一番詳しく「川崎サポーターが旭日旗を掲げ、水原のスタッフが没収。両サポーターがつかみ合いになったり、水原サポーターがスタジアム外で川崎サポーターを待ち構えたりする騒ぎに。」
旭日旗の解説に「韓国や中国では『日本の軍国主義、帝国主義の象徴』との認識が強い。」
スポーツ面:見出し「視点 旭日旗 処分の重み受けとめて」
「執行猶予つきとはいえ、ホームゲーム1試合の無観客開催を科す処分の重みをきちんと受けとめるべきだろう。」
藁科社長の言葉について、「処分への異議申し立てなどの手段は賢明とは思えない。スポーツ界から政治的な問題に広げることになりかねない。」
「2013年に韓国であった東アジアカップでも旭日旗を巡って、日韓の間で問題となった過去がある。隣国の人々が不快感を示す、という認識は日本サッカー界で共有されている。」
「Jリーグは世界で最も安全な観戦環境を誇りにし、海外にも示してきた。安全やアジアをリードしてきた信頼を失うような事態を避けるためにも、今回のようなことを繰り返さない取り組みにこそ目を向けるべきだ。」


ヘイト・スピーチ研究文献(99)日本の右傾化とヘイト・スピーチ

斎藤貴男「罪深く恥ずかしい『サロゲート』に沈み込む前に」
高史明「在日コリアンへのレイシズムとインターネット」
佐藤圭「ヘイトスピーチ、極右政治家、日本会議」
樋口直人「排外主義とヘイトスピーチ」
北野隆一「狙われ続ける『慰安婦報道』」
以上:塚田穂高『徹底検証 日本の右傾化』(筑摩書房、2017年)
「日本の右傾化」を包括的に、分野別に、ていねいに検証しようという企画の本で、社会、政治、教育、家族、女性、言論、報道、宗教などについて21人の論者がそれぞれ執筆している。全6部にまとめられているが、かなりばらばらの論調だ。あえて視点を統一していない。矛盾をはらみつつも、全体として日本の状況を読者が受け止めるようにしたものだ。そのうち、上記の5本がヘイト・スーピーチ関連。

桧垣伸次『ヘイト・スピーチ規制の憲法学的考察』を読む(7)

桧垣伸次『ヘイト・スピーチ規制の憲法学的考察――表現の自由のジレンマ』(法律文化社、2017年)

終章日本の現状と課題

桧垣は、ヘイト・スピーチが人間の尊厳を損ない、「表現の自由は、民主主義社会において、非常に重要ではあるが、ヘイト・スピーチはその前提を崩すものである」という視点を再確認し、日本の現状と問題点を一瞥する。ヘイト・スピーチ解消法、京都朝鮮学校事件を検討したうえで、「政府言論としてのヘイト・スピーチ解消法」という問題を検討する。
「問題は線を引くか否かではなく、どのように線を引くか、である。すなわち、表現の自由の重要性を認識したうえで、規制範囲を画定する努力が求められる。その際に重要なのは、歴史的文脈に鑑み、ヘイト・スピーチの害悪を緻密に分析することである。なぜならば、ヘイト・スピーチは歴史的な支配・従属関係を強化するものであり、歴史的・社会的文脈は、言葉の害悪の程度に影響するからである。」

桧垣は最後に、「日本における差別およびヘイト・スピーチの実態を解明することが何よりも必要となる」として、本書を終える。

<コメント>
第1に、桧垣の主張は、私たち規制積極派が主張してきたこととほぼ同じである。そのことを、桧垣はアメリカ法の検討を通じて提起した。つまり、アメリカ法であれ、ヨーロッパ法であれ、その他の諸国の法であれ、ヘイト・スピーチの害悪を明確にすれば、人権保障のために刑事規制をすることが正当化できるという一般性を明らかにした。
第2に、桧垣はそのための次の課題として実態解明を強調する。この点はすでにヘイト・スピーチ被害の実態調査として始められている。NGOによる調査に続いて、日本政府も調査せざるを得なくなった。その積み重ねが重要である。
第3に、桧垣は「どのように線を引くか」を課題として唱えるが、具体的な議論をしていない。ここから先は、憲法学とともに、刑法学の課題である。金尚均、桜庭総、師岡康子による議論が重要である。私も同じ地点にたどり着きながら、まだ具体的な条文案を提示していないため、批判されたこともある。ヘイト・クライム/ヘイト・スピーチを調査するために人種差別撤廃委員会に通い始めたのが1998年であり、20年にもなると言うのに、いまだに一般論しか提起していないので、弁解の余地がない。ただ、人種差別撤廃条約2条や4条の調査・研究が緒についたばかりだ。

Thursday, May 04, 2017

桧垣伸次『ヘイト・スピーチ規制の憲法学的考察』を読む(6)

桧垣伸次『ヘイト・スピーチ規制の憲法学的考察――表現の自由のジレンマ』(法律文化社、2017年)
第5章ヘイト・クライム規制論と表現の自由の原理論
本書の基本的主張は前章までに十分示されているが、桧垣はさらに理論的検討を積み重ねる。アメリカにおけるヘイト・スピーチの規制をめぐる議論として、まず「表現の自由の原理論」として、思想の自由市場論、自己統治の理論を取り上げる。その上で、規制に消極的な議論として、ベイカーとポーストの見解を紹介・検討し、次に規制に積極的な議論としてヘイマンとツェシスの見解を紹介・検討する。
桧垣は「どちらの価値が優先されるか」として、自律理論を検討した上で、「しかし、思想の自由市場論又は自立理論は、表現の自由の中心的な価値とはならないと考えるべきである。なぜならば、これらの理論をとり、修正1条の範囲を拡大すると、公的言説に与えられた強力な保護を希釈することになりかねず、また、民主的過程に委ねられるべき問題にまで介入する力を司法部に与えることになってしまうからである」という。
桧垣は「民主政への参加」について、ドオーキンやウルドロンの論争を通じて、ヘイト・スピーチ規制法と政治的正統性、ヘイト・スピーチと人間の尊厳に即して検討する。
桧垣は次のようにまとめる。
「本章では、言論の自由は、個人の権利として重要であるが、民主政への参加という観点から、公的言説にはより手厚い保護が必要であると考えるべきであると主張した。なお、本章では、民主主義を、単なる公的な意思決定とするMeiklejohnBorkのような立場ではなく、公的意見の構築への参加を重視するPostの立場が妥当であると考える。これは、自己統治の観点から、言論の価値序列を認める立場である。すべての言論に同様の保護を与えるとするならば、すべての言論の保護が同様に低くなるか、あるいはすべての言論の保護を厚くするために、規制が必要な言論の規制が困難になってしまうため、言論の自由が機能するためには、このような線引きは避けられない。Holmesのような思想の自由市場論を重視する立場に立つと、ヘイト・スピーチと他の言論とを区別することはできない。Heymanは、Holmesの考え方は、真実を力と同視するものである――優越的な集団が何を欲するか、そしてそれをどのように達成するのかを決めるメカニズムである――と批判し、このような立場はとるべきではないとする。」
「また、公的言説が重要といえども、絶対の保護を受けることはあり得ない。言論が生み出す害悪は、自由な言論のために払うべきコストであるといわれるが、ヘイト・スピーチのような言論においては、それを払っているのは社会全体ではなく、被害者であるマイノリティである。言論の自由に絶対的な保護を与えるのではなく、人間の尊厳や平等など、『他の民主的価値』との衡量が必要となると考えるべきである。すなわち、人間の尊厳や、平等、名誉、礼節、共同体といった価値を強調する、より『個人の権利基底的な枠組』に立ち返ったアプローチをとるべきである。」
<コメント>
第1に、桧垣は思想の自由市場論、ホームズ流の議論に批判的なことが判明する。前に、桧垣は思想の自由市場論を前提とするようだと書いたのは、私の読み間違いのようだ。
第2に、民主政、参加の観点を強調する議論は、刑法学者の金尚均の議論と同じ問題意識である。私も、国連人権理事会の議論を参考に「民主主義とレイシズムは両立しない」と主張してきた。ダーバン宣言などに立ち返って、もう一度考えてみよう。
第3に、私も、「人間の尊厳や平等など、『他の民主的価値』との衡量が必要となると考えるべきである。すなわち、人間の尊厳や、平等、名誉、礼節、共同体といった価値を強調する、より『個人の権利基底的な枠組』に立ち返ったアプローチをとるべきである。」という主張に賛成だが、この点はさらに検討するべき課題が残っているだろう。
規制消極論からは、「個人」に対する名誉毀損の規制は認められるが、「集団」に対するヘイト・スピーチの規制は認められないとの批判がある。日本国憲法が「個人主義」を採用しているとの理解を絶対化して、他のテーマでは別だが、ヘイト・スピーチに関しては個人主義に対する例外を一切認めないかのような論調が強い。日本国憲法が「個人主義」を採用していることが、「集団処罰」を認めないことの強い根拠となることは明らかである。しかし、ヘイト・スピーチの動機としての「集団の属性」を考慮することが直ちに日本国憲法の「個人主義」に反することにはならないはずだ。とはいえ、この議論は、規制消極論には認めがたいものであろう。桧垣は、この点をどのように理解しているのだろうか。私にとっても課題である。

暮らしを破壊する緊急事態条項への批判・検証

清末愛砂・飯島滋明・石川裕一郎・榎澤幸広編『緊急事態条項で暮らし・社会はどうなるか――「お試し改憲」を許すな』(現代人文社、2017年)
第1部 緊急事態条項とは何か
第2部 緊急事態条項で暮らし・社会はどうなるか」
第3部 世界の緊急事態条項
第4部 資料/緊急事態条項
2012年の自民党改憲案以来、話題とされてきた緊急事態条項を多面的に取り上げた、憲法学者による批判の書である。18人の法学者による分担執筆で、私も1項目(「緊急事態条項と共謀罪――法を否定する法をつくること」)を書かせてもらった。
例えば次のような項目の解説が収められている。
「緊急事態に内閣が政令でいろいろな措置をとることができてしまう」
「軍事化と密接な関係がある緊急事態条項」
「憲法は、災害対策の障害になるか」
「戦争で食料不足になったら国は助けてくれるの?」
「学校で、子どもが主人公じゃなくなる?」
「緊急事態宣言下でも研究の自由は守られるのか?」
「『普通の一般的集会だったら心配ない』のか」
「『やましいことはしていないので盗聴されてもいい』のか」
「命を救うために本当に考えなければいけないこと」
緊急事態条項の比較法ではイギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、韓国、トルコ、パキスタン、インドネシア。
執筆者のうち1950年代生まれが4人、60年代生まれが7人、70年代生まれが9人、80年代生まれが1人。

桧垣伸次『ヘイト・スピーチ規制の憲法学的考察』を読む(5)

桧垣伸次『ヘイト・スピーチ規制の憲法学的考察――表現の自由のジレンマ』(法律文化社、2017年)
第4章連邦最高裁と表現の自由――アメリカの「特殊性」
桧垣は、批判的人種理論による批判等にもかかわらず、アメリカ判例法理、連邦最高裁はなぜ表現の自由を手厚く保護するようになったのかと問う。アメリカも一貫してこれほど表現の自由を手厚く保護してきたわけではないが、1960年代以降、ヨーロッパがヘイト・スピーチを規制する方向に向かったのに対して、アメリカは逆方向を歩んだ。桧垣は、ブライシュの研究等により、ヨーロッパとアメリカの表現規制をめぐる歴史を追跡する。ブライシュ『ヘイトスピーチ』はすでに翻訳があり、明戸隆浩がブライシュ理論を活用して議論を展開してきた。桧垣は、ロバーツ・コートにおける、2005年から2014年の諸判決を検討する。ヘイト・スピーチに限らず、表現の自由についての判例法理の動態をあきらかにする。
桧垣によると、連邦最高裁の判例の動向は、イデオロギー・ラインやプロ・ビジネスか否かでは説明できないという。歴史的文脈からする説明も見られるが、ウルドロンによると、歴史的文脈による説明も決して十分ではないという。ヨーロッパではナチズムヤホロコーストの歴史が強調されるが、アメリカでは人種に基づく奴隷制度についての記憶がある。ウォルドロンはマイノリティの尊厳を保護するためヘイト・スピーチ規制派憲法上正当化されると主張する。
桧垣はさらに、表現の自由の担い手の変化を指摘する。かつてはマイノリティが表現の自由を主張したのに対して、いまやKKKや政治資金を支出する政治団体や大企業が表現の自由を主張している。
「また、現代では、リベラルの側から、差別解消のためにヘイト・スピーチやポルノを規制すべきであるとの主張もされている。それゆえ、アメリカでは、近年、言論の自由は、『自由を守るために規制されるべき』であるとの主張がなされるようになっている。」
桧垣はこうした変化を踏まえて、「様々な表現類型の害悪や歴史的文脈等を緻密に検討し、『適切な形で再構成』するべきだろう。」とまとめ、第5章の検討につなげる。
<コメント>
第1に、桧垣は、ヘイト・スピーチ規制に消極的なアメリカの判例法理を紹介し、憲法学を検討し、そこからヘイト・スピーチ規制の根拠となるべき論理を発掘する手法を採用している。魅力的な議論である。
第2に、桧垣は、アメリカの「特殊性」を検討している。他のテーマでは用いられないにもかかわらず、表現の自由になると、「普通の国」と「特殊な国」という短絡的な二項対立が持ち出される。子どもじみた発想であり、学問とは無縁であるが、なぜか憲法学において圧倒的に多用される。決めつけと思い込みは恐ろしいものである。桧垣もこの議論を前提としているようだ。この種の議論をしたがるのもアメリカと日本だけであると言えよう。その意味では「アメリカと日本の特殊性」なのかもしれない。ヘイト・スピーチ刑事規制に関する基本文書として知られる「ラバト行動計画」の作成段階では全世界(西欧、東欧、アフリカ、アジア、アメリカ州)の立法例が詳細に検討されてきた。国際的な研究水準はどんどん高くなっている。日本にもすでに詳しく紹介されている。ところが、日本の憲法学は1周どころか2周も3周も遅れている。桧垣もこの点は超えていないようだ。
第3に、資本主義国家と社会における表現の自由とは何かの重要な一端を桧垣は指摘している。市民社会における表現の自由の重要性は言うまでもないし、現在でも表現の自由を手厚く保護するべき理由がある。しかし、表現の自由は、思想や表現によって支えられているのではなく、実際には資金力によって支えられている面がある。そのことは古くから誰でも指摘してきたことであるが、わかっていながら、憲法論からは除外されてきた。それが思想の自由市場論という、根拠のないイデオロギーの欺瞞的帰結である。桧垣は、思想の自由市場論に立っているが、このことには言及していない。