東京造形大学附属美術館監修『成田克彦――「もの派」の残り火と絵画への希求』(東京造形大学現代造形センター)
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帯の推薦文は、小清水漸。
「『預言者』として、成田克彦はあらわれた。
1966年秋突然の訪問は、VOYANTと名付けたグループへのさそいであった。
片頬に薄笑いを浮かべ、世の中を見透かす不敵な目をした童顔の男は、やがて『炭』を焼いた。
描くのではなく、造るのでもなく、予見をもって『みる』ことにしたのだ。
モノの存在を確かにするばかりでなく、炎で炙り刻を纏わせ意味を付与し、
新たな表現の広がりを見極めたのだ。
そして再び突然、預言者は姿を消した。」
一文字も付け加えることのできない鮮烈で的確な言葉に、万感の思いが込められている。1967年から同じアトリエで制作に打ち込んだ成田と小清水の歴史を推測するしかない。
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成田とは2度呑んだことがあるだけだ。1990年に同僚となり、あいうえお順で近かったためか、新米かつ美術の素人の私に親切に声をかけてくれた。
1度目は、JR高尾駅北口の小料理屋だった。たぶん新人歓迎会の席だから、絵画の有吉徹、オフィスデザインの地主広明、アニメーションの小出正志らがいたはずだ。成田は、初対面の私に「癌で亡くなる家系なので、私は癌になる」と、親せきのうち癌で去った人々の名前を数え上げた。後に絵画の松尾多英も、成田から同じ話を聞かされた体験を語っていたと思う。成田は、食への強いこだわりを持っていた。名レストランを訪ね歩くとか、美食家というのではないが、食材をいかに美味しく食べるかについて一家言を持ち、より味わいのあるもの、より旨いものを食べることに関心を注いでいた。「癌になるまでに」。
素人の私が、一緒に飲んだ成田が「もの派」の成田克彦であることに気づいたのは、翌日、大学で克彦という名前を確認した時だった。うかつだ、いつも。画家の阿方稔に「そうだよ。SUMIの成田さんだよ」と教えてもらったと記憶する。
2度目は、JR高尾駅南口の飲み屋だった。夏の終わりか。映画の波多野哲朗、グラフィックの福徳英夫、色彩学の海本健がいたような気がするが、はっきりしない。覚えているのは、成田が日本酒にも大変なこだわりを持っていることだった。地酒ブームで、地方の良心的な酒蔵から純米酒、吟醸酒が東京に流れ込むようになった時期だったと思う。香露、千代の園、天狗舞、菊姫、〆張鶴、北雪、出羽桜、男山の話で盛り上がった。特に東京では香露がなかなか手に入らなかった時期なので、香露を置いてある渋谷の飲み屋を教えると、熊本出身の成田は大喜びだった。
その後、成田と飲む機会はなかった。1990年の終わりころには調子を崩していたのではないだろうか。91年には授業にもあまり出てこなかったと思う。会って話をした記憶がない。そして、92年4月、成田は47歳で忽然と姿を消した。
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本書は、2015年に開催された展覧会「成田克彦 1973-1992 実験の続き」とシンポジウムの記録である。「もの派」として語られてきた成田だが、「もの派」としての作家活動はごく初期のみで、その後は孤高の道を歩んだ。本書は成田の全貌を照らし出す。成田の作家活動の記録を整理し、成田と親交のあった作家や研究者らの言葉を収録し、さらに、成田を歴史としてしか知らない研究者による分析も含めて、多様な回路から成田に接近できる。執筆は、梅津元、清水哲朗、菅章、永瀬恭一、藤井匡、前田信明、光田ゆり、母袋俊也。