Thursday, May 04, 2017

桧垣伸次『ヘイト・スピーチ規制の憲法学的考察』を読む(5)

桧垣伸次『ヘイト・スピーチ規制の憲法学的考察――表現の自由のジレンマ』(法律文化社、2017年)
第4章連邦最高裁と表現の自由――アメリカの「特殊性」
桧垣は、批判的人種理論による批判等にもかかわらず、アメリカ判例法理、連邦最高裁はなぜ表現の自由を手厚く保護するようになったのかと問う。アメリカも一貫してこれほど表現の自由を手厚く保護してきたわけではないが、1960年代以降、ヨーロッパがヘイト・スピーチを規制する方向に向かったのに対して、アメリカは逆方向を歩んだ。桧垣は、ブライシュの研究等により、ヨーロッパとアメリカの表現規制をめぐる歴史を追跡する。ブライシュ『ヘイトスピーチ』はすでに翻訳があり、明戸隆浩がブライシュ理論を活用して議論を展開してきた。桧垣は、ロバーツ・コートにおける、2005年から2014年の諸判決を検討する。ヘイト・スピーチに限らず、表現の自由についての判例法理の動態をあきらかにする。
桧垣によると、連邦最高裁の判例の動向は、イデオロギー・ラインやプロ・ビジネスか否かでは説明できないという。歴史的文脈からする説明も見られるが、ウルドロンによると、歴史的文脈による説明も決して十分ではないという。ヨーロッパではナチズムヤホロコーストの歴史が強調されるが、アメリカでは人種に基づく奴隷制度についての記憶がある。ウォルドロンはマイノリティの尊厳を保護するためヘイト・スピーチ規制派憲法上正当化されると主張する。
桧垣はさらに、表現の自由の担い手の変化を指摘する。かつてはマイノリティが表現の自由を主張したのに対して、いまやKKKや政治資金を支出する政治団体や大企業が表現の自由を主張している。
「また、現代では、リベラルの側から、差別解消のためにヘイト・スピーチやポルノを規制すべきであるとの主張もされている。それゆえ、アメリカでは、近年、言論の自由は、『自由を守るために規制されるべき』であるとの主張がなされるようになっている。」
桧垣はこうした変化を踏まえて、「様々な表現類型の害悪や歴史的文脈等を緻密に検討し、『適切な形で再構成』するべきだろう。」とまとめ、第5章の検討につなげる。
<コメント>
第1に、桧垣は、ヘイト・スピーチ規制に消極的なアメリカの判例法理を紹介し、憲法学を検討し、そこからヘイト・スピーチ規制の根拠となるべき論理を発掘する手法を採用している。魅力的な議論である。
第2に、桧垣は、アメリカの「特殊性」を検討している。他のテーマでは用いられないにもかかわらず、表現の自由になると、「普通の国」と「特殊な国」という短絡的な二項対立が持ち出される。子どもじみた発想であり、学問とは無縁であるが、なぜか憲法学において圧倒的に多用される。決めつけと思い込みは恐ろしいものである。桧垣もこの議論を前提としているようだ。この種の議論をしたがるのもアメリカと日本だけであると言えよう。その意味では「アメリカと日本の特殊性」なのかもしれない。ヘイト・スピーチ刑事規制に関する基本文書として知られる「ラバト行動計画」の作成段階では全世界(西欧、東欧、アフリカ、アジア、アメリカ州)の立法例が詳細に検討されてきた。国際的な研究水準はどんどん高くなっている。日本にもすでに詳しく紹介されている。ところが、日本の憲法学は1周どころか2周も3周も遅れている。桧垣もこの点は超えていないようだ。
第3に、資本主義国家と社会における表現の自由とは何かの重要な一端を桧垣は指摘している。市民社会における表現の自由の重要性は言うまでもないし、現在でも表現の自由を手厚く保護するべき理由がある。しかし、表現の自由は、思想や表現によって支えられているのではなく、実際には資金力によって支えられている面がある。そのことは古くから誰でも指摘してきたことであるが、わかっていながら、憲法論からは除外されてきた。それが思想の自由市場論という、根拠のないイデオロギーの欺瞞的帰結である。桧垣は、思想の自由市場論に立っているが、このことには言及していない。