Thursday, May 04, 2017

桧垣伸次『ヘイト・スピーチ規制の憲法学的考察』を読む(6)

桧垣伸次『ヘイト・スピーチ規制の憲法学的考察――表現の自由のジレンマ』(法律文化社、2017年)
第5章ヘイト・クライム規制論と表現の自由の原理論
本書の基本的主張は前章までに十分示されているが、桧垣はさらに理論的検討を積み重ねる。アメリカにおけるヘイト・スピーチの規制をめぐる議論として、まず「表現の自由の原理論」として、思想の自由市場論、自己統治の理論を取り上げる。その上で、規制に消極的な議論として、ベイカーとポーストの見解を紹介・検討し、次に規制に積極的な議論としてヘイマンとツェシスの見解を紹介・検討する。
桧垣は「どちらの価値が優先されるか」として、自律理論を検討した上で、「しかし、思想の自由市場論又は自立理論は、表現の自由の中心的な価値とはならないと考えるべきである。なぜならば、これらの理論をとり、修正1条の範囲を拡大すると、公的言説に与えられた強力な保護を希釈することになりかねず、また、民主的過程に委ねられるべき問題にまで介入する力を司法部に与えることになってしまうからである」という。
桧垣は「民主政への参加」について、ドオーキンやウルドロンの論争を通じて、ヘイト・スピーチ規制法と政治的正統性、ヘイト・スピーチと人間の尊厳に即して検討する。
桧垣は次のようにまとめる。
「本章では、言論の自由は、個人の権利として重要であるが、民主政への参加という観点から、公的言説にはより手厚い保護が必要であると考えるべきであると主張した。なお、本章では、民主主義を、単なる公的な意思決定とするMeiklejohnBorkのような立場ではなく、公的意見の構築への参加を重視するPostの立場が妥当であると考える。これは、自己統治の観点から、言論の価値序列を認める立場である。すべての言論に同様の保護を与えるとするならば、すべての言論の保護が同様に低くなるか、あるいはすべての言論の保護を厚くするために、規制が必要な言論の規制が困難になってしまうため、言論の自由が機能するためには、このような線引きは避けられない。Holmesのような思想の自由市場論を重視する立場に立つと、ヘイト・スピーチと他の言論とを区別することはできない。Heymanは、Holmesの考え方は、真実を力と同視するものである――優越的な集団が何を欲するか、そしてそれをどのように達成するのかを決めるメカニズムである――と批判し、このような立場はとるべきではないとする。」
「また、公的言説が重要といえども、絶対の保護を受けることはあり得ない。言論が生み出す害悪は、自由な言論のために払うべきコストであるといわれるが、ヘイト・スピーチのような言論においては、それを払っているのは社会全体ではなく、被害者であるマイノリティである。言論の自由に絶対的な保護を与えるのではなく、人間の尊厳や平等など、『他の民主的価値』との衡量が必要となると考えるべきである。すなわち、人間の尊厳や、平等、名誉、礼節、共同体といった価値を強調する、より『個人の権利基底的な枠組』に立ち返ったアプローチをとるべきである。」
<コメント>
第1に、桧垣は思想の自由市場論、ホームズ流の議論に批判的なことが判明する。前に、桧垣は思想の自由市場論を前提とするようだと書いたのは、私の読み間違いのようだ。
第2に、民主政、参加の観点を強調する議論は、刑法学者の金尚均の議論と同じ問題意識である。私も、国連人権理事会の議論を参考に「民主主義とレイシズムは両立しない」と主張してきた。ダーバン宣言などに立ち返って、もう一度考えてみよう。
第3に、私も、「人間の尊厳や平等など、『他の民主的価値』との衡量が必要となると考えるべきである。すなわち、人間の尊厳や、平等、名誉、礼節、共同体といった価値を強調する、より『個人の権利基底的な枠組』に立ち返ったアプローチをとるべきである。」という主張に賛成だが、この点はさらに検討するべき課題が残っているだろう。
規制消極論からは、「個人」に対する名誉毀損の規制は認められるが、「集団」に対するヘイト・スピーチの規制は認められないとの批判がある。日本国憲法が「個人主義」を採用しているとの理解を絶対化して、他のテーマでは別だが、ヘイト・スピーチに関しては個人主義に対する例外を一切認めないかのような論調が強い。日本国憲法が「個人主義」を採用していることが、「集団処罰」を認めないことの強い根拠となることは明らかである。しかし、ヘイト・スピーチの動機としての「集団の属性」を考慮することが直ちに日本国憲法の「個人主義」に反することにはならないはずだ。とはいえ、この議論は、規制消極論には認めがたいものであろう。桧垣は、この点をどのように理解しているのだろうか。私にとっても課題である。