若林三奈「集団に対する差別的言動と不法行為――人間の尊厳と平穏生活権」『法律時報』93巻2号(2021年)
入会拒否のような拒否型差別行為と異なり、不当な差別的言動は人間の尊厳の否定と評価しうるが、それが個人ではなく、「特定の属性(集団)のみを攻撃対象とする場面では、その言動を直ちにその属性を有する個々人の名誉毀損と捉えることは、対象の特定性を欠くことから妥当でない、という理解が一般的である」とされてきたが、近時いくつかの裁判事例が出たことから、さらに検討を要するとして書かれた論文である。
京都朝鮮学校事件判決をもとに「集団へのヘイトスピーチと個人の現実の損害発生の可能性」について見た上で、「集団へのヘイトスピーチと個人の保護法益」として、第1に「名誉」について、「特定人の社会的評価の(現実の)低下」という通説的な不法行為上の名誉概念を相対化することにより、個人の「名誉」侵害と捉える可能性を指摘する。
第2に平穏生活権(住居における平穏生活する人格権)について、川崎市ヘイトデモ差止仮処分命令を素材に検討し、次のように述べる。
「人間の尊厳を否定するヘイトスピーチは、人間の生活に不可欠な人間の生物的・社会的生存条件(環境)を侵害するものであるから、たとえそれが集団に向けられたものであったとしても、そこに属する個人の人格権を侵害するおそれのあるものとして(=現実化すれば絶対権の侵害となる)平穏生活権侵害の問題として捉えうる。ヘイトスピーチは、他者を『人間として適切に承認されること』(私法上の権利能力平等原則)を否定する行為であり、個人が権利主体として権利を平等に享受する前提(社会的生存条件・環境)を客観的に侵害する行為である。その意味で、絶対権の侵害であるから、たとえそれが直接に特定個人の人格に向けられたものではなく、その個人が属する集団に向けられたものであっても、因果関係を補充・拡張し、特定個人の『平穏生活権侵害』として保護することが必要ではなかろうか。」
ただ、著者は最後に「かかる救済を常に事後的に、しかも私人のイニシアティブのもとにのみ期待することが適切であるかは疑問である」とし、「果たして法は自らの権利のために闘う強い個人の登場を期待するだけで良いのか。併せて、言論市場における対等平等性が当事者に真に確保されているのかも問われるべきであり、これを保障できない場面では、経済市場と同様に、何らかの公法的な規制――適正手続によるデモや集会の道路・施設利用の規制等を含む――を検討すべきではないか。このことは『誰一人取り残さない』社会の実現からも不可欠となろう。」として、パリ原則に準拠した国内人権機関や、SDGsにも言及している。
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ヘイト・スピーチの民事不法行為に関する解釈を前進させる論文であり、賛同できる。著者に感謝。
「人間として適切に承認されること」について、私は長年、世界人権宣言第6条の「すべて人は、いかなる場所においても、法の下において、人として認められる権利を有する。」に依拠して、これを主張してきた。ところが、従来、賛成してくれた研究者はほとんどいない。研究会の場で賛成してくれる者はいたが、研究論文レベルでは皆無である。
上記のように「ヘイトスピーチは、他者を『人間として適切に承認されること』(私法上の権利能力平等原則)を否定する行為」と書いてくれるとありがたいが、さらに踏み込んで書いてくれないものか。