Friday, October 08, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(188)イギリスの宗教的ヘイト・スピーチ法

村上玲「宗教批判の自由と差別の禁止(一)(二):イギリスにおける神冒瀆罪から宗教的憎悪扇動罪への転換に関する考察」阪大法学62巻5号・6号(2013年)

はじめに

第一章      神冒瀆罪の概要

第一節      神冒瀆罪の歴史

第二節      神冒瀆罪が適用される宗教と同罪の成立要件

第三節      神冒瀆罪と欧州人権条約

第二章      宗教的憎悪煽動罪の創設と神冒瀆罪の廃止

第一節      神冒瀆罪の問題点と改廃に関する議論

第二節      宗教的憎悪煽動罪の創設

第三節      神冒瀆罪の廃止

第四節      宗教的憎悪煽動罪の創設と神冒瀆罪の廃止に関する検討

おわりに

村上によると、イギリスでは1688年の王政復古期以来、神冒瀆罪がコモンロー上及び制定法上の犯罪とされてきた。欧州人権条約を批准しても、まだ国内効力が十分なかった時期まで、それが続いた。しかも、宗教一般を保護するのではなく、キリスト教だけを保護する法制であった。1998年の人権法以後、状況が変わり始め、宗教的憎悪煽動罪の創設が2006年、神冒瀆罪の廃止が2008年に実現した。村上はその歴史をていねいにフォローし、20062008年法改正の意味を解き明かす。

神冒瀆罪は20世紀後半まで有効とされていたが、1985年の法律委員会は廃止を提案し、2003年の貴族院特別委員会は、神冒瀆罪は欧州人権条約に適合しないとした。神冒瀆罪の実際の適用はほとんどなくなっていたこと、犯罪成立要件が不明確であったこと、欧州人権条約に適合しないことが意識される中、社会情勢や法律状況にも変化があった。法律では、1986年の公共秩序法により人種的憎悪煽動の禁止が定着した。宗教的憎悪に応用できるかが意識された。2001年の9.11同時多発テロによって、テロ対策法の必要性と、他方で反イスラムの動きが社会問題となった。

1998年の人権法制定を受けて、2003年、貴族院の特別委員会が設置され、神冒瀆罪は差別的なので、非差別の法改正の必要性が指摘された。政府は欧州人権条約に適合した宗教的憎悪煽動罪の創設をめざした。2006年、人種的及び宗教的憎悪法が制定され、宗教的憎悪扇動罪が1986年の公共秩序法に組み入れられた。

村上によると、宗教的憎悪煽動罪が新設されたのは、2005年選挙で労働党がイスラム教指導者らを守ることを公約に入れていたこともあったという。ただ、人種的憎悪扇動罪では、「威嚇的な」の他に、「口汚い」や「侮辱的な」が要件になっていたのに、宗教的憎悪扇動罪では、「口汚い」や「侮辱的な」が削除され、「威嚇的な」場合だけ犯罪となる。また、表現の自由との調整のために、「特定の宗教や信条、信仰体系等に対する、議論、批判又は反感、嫌悪、嘲笑、侮辱を表現することを禁止し、又は制限するといった効果を与えるものではない」と明示されたという。宗教的憎悪扇動罪だが、嫌悪、嘲笑、侮辱の表現は禁止されない。このように宗教的憎悪扇動罪の成立範囲がほんのわずかになったことで、実際の適用事例も限られたものになると予想された。「イスラム教徒をなだめる目的で」最初からザル法をつくったということになる。

村上によると、日本には民事損害賠償裁判はあるが、関連刑事法は存在しない。他方、表現の自由は極めて重要とはいえ、最高裁判所は絶対的保障を認めず、「たとえ表現の自由といえども、決して他の権利に比して絶対的な優越的地位を占めているとは断言していない」。その意味では宗教的憎悪扇動罪の可能性が全くないわけではないようだ。

ただ、宗教の定義の困難性、保護される宗教と保護されない宗教という差別が生じる恐れ等を考えると、村上は、「どの宗教に対しても国家が平等であるためには、積極的に保護を与えるのではなく、敢えてどの宗教にも関与しない」ことが「公正」だという。議論は二転三転する。憲法201項後段や憲法21条の趣旨からいっても、イギリスの宗教的憎悪扇動罪の手法を採用すると、日本国憲法に反する恐れがあるという。「以上のことから考えても、現状において日本政府が宗教に関する差別的表現に関して採りうる方策について、神冒瀆罪及び宗教的憎悪扇動罪と憲法との適合性を鑑みる」ならば、「差別的行為を放置し、何もしないという方策」を補強する要素しか見当たらないという。宗教的ヘイト・スピーチを規制せず、放置せよという結論である。

そう述べつつも、村上は、最後に、子どもの権利条約と子どもポルノ禁止法の関係のように、国内外の要請を受けて新しい罪が制定される可能性も残されているので、宗教的憎悪扇動罪の可能性を全否定はしない。国際自由権規約があるからだろう。立法事実があるのであれば「社会及び治安の維持を目的に一定の表現機影が認められうる余地が生じてくる」という。

それでは可能性があるかというと、そうではなく、議論は三転四転して、「イギリスが採用した表現規制をあくまで参考に留め、当該規制を日本の宗教観を踏まえた日本国憲法の解釈に合わせた形で、制約を極力限定化することによって表現の自由を最大限確保するという法政策がなされなくてはならないものと考える」――これが村上の最後の結論である。

村上論文はイギリスの宗教的憎悪扇動罪を、神冒瀆罪の歴史の検討、そこからの変遷過程の分析を通じて詳細に論じているので、とても参考になる。

最後に議論が三転四転するのは、「キリスト教原理主義」に匹敵する「表現の自由原理主義」にとらわれているからである。村上に限らず、多くの論者に共通だが、論理が空転している。次のような構造になっている。

1.宗教的ヘイトが増えているから、対策が必要だ。

2.しかし、表現の自由が大切だ。

3.国際条約でも処罰せよとしているから、対策が必要だ。

4.しかし、表現の自由が大切だ。

5.イギリスでも立法しているので参考になる。

6.しかし、表現の自由が大切だ。

7.立法事実があるのであれば立法も必要だ。

8.しかし、表現の自由が大切だ。

この論法は日本の憲法学に共通である。「アベスガ論法」とさして変わらない。奇怪な話である。

日本国憲法の表現の自由の解釈・法理について、村上の議論はぶれる。(1)途中まではアメリカ憲法論を参考にした憲法学のレベルで論じていると見える。(2)だが、途中で村上は「最高裁判所は絶対的保障を認めていない」ことに注意を喚起している。(3)ところが最後に村上は「当該規制を日本の宗教観を踏まえた日本国憲法の解釈に合わせた形で、制約を極力限定化することによって表現の自由を最大限確保するという法政策がなされなくてはならない」とする。ここでは最高裁判例よりもアメリカ憲法流の憲法学が念頭に置かれていると思われる。

日本の憲法学は表現の自由については、最高裁判所の確立した判例を理由も示さずに排斥する。頭にあるのはアメリカ絶対主義だからだ。

最高裁判所判例が確立していても、そこに不備があれば批判するのは当然である。しかし、憲法学は1970年代以来半世紀の間、アメリカ判例という古くさい法理を持ち出して最高裁判所を批判してきた。その批判は受け容れられなかった。同じ批判を延々と続けても、そこに対話は生まれない。それでもえんえんと続けるのは、芸がないというか、思考力がないというか。