Friday, December 10, 2021

非国民がやってきた! 007

三浦綾子『この土の器をも』(新潮文庫)

三浦の自伝「道ありき第二部 結婚編」(1970)であり、闘病に明け暮れた青春時代を描いた「道ありき」に続いて、三浦光世との結婚生活を描いている。

幼馴染で精神的支えであった前川正に死なれたのち、1959年に旭川営林署員だった三浦と結婚、1961年に小説を書き始め、初の短編小説が『主婦の友』に軽視された(林田律子名義)。続いて、朝日新聞社の懸賞小説に応募するため1963年に書きあげた作品が、196412月から朝日新聞に連載され、ベストセラー『氷点』となった。自伝第二部は小説が入賞するまでを描く。三浦綾子は1922年生まれなので、1970年には50歳少し前だが、この時点で自伝の第二部を書いている。かなり早い気もするが、闘病生活や『氷点』のベストセラー化とともに、信仰に生きる三浦綾子の日々の信仰表明でもあっただろう。

貧しい2人は一部屋しかない小さな小さな家で暮らしたが、病後の虚弱な身体での精いっぱいの暮らしを支えたのは光世の愛と信頼、頻繁に訪れる友人知人たち、そして2人の信仰であった。やがて歩けるようになった綾子は雑貨屋を開いたり、2人で教会の部屋を借りて住んだり、苦労しながら歩む。そうした中、図書係として図書の販売に携わりながら、図書を読み続け、やがて小説を書き始める。青春時代から短歌を詠み続けていたが、小説へと転身する。その日々の随想が本書である。

旭川に暮らした三浦は、文壇なるものにはほとんど顔も出したことがなく、他の小説家との交流も決して多くはないが、初めて見た小説家は松本清張だったという。小説を書くのに参考にしたのは、唯一、丹羽文雄の16頁の新聞小説作法であり、あとは独学独習だ。そして1963816日、旭川で松本清張の講演会に聞きに行ったという。テーマは冤罪・白鳥事件。

「作家を目の当たりに見たのは、あの時が確か初めてのことであったと思う。」

さらにホテルに電話して、運よく松本清張とわずかながら話したという。

「受話器をおいてから、わたしはみすみす氏と会うチャンスを逃してしまったことを、残念に思った」。

朝日新聞の懸賞小説に応募しようと考えていたので、ここで松本清張に合えば、もしかすると審査員であるかもしれない松本清張にそのことを話すことになる。まるで、審査に手心をとお願いする立場になりかねない。そういうことのないよう、せっかくのチャンスにもかかわらず、清張に会いに行かなかったのだ。

清張とデビュー前の三浦綾子の唯一の接近遭遇チャンスである。もしこの時に出会っていたなら、と思うが。

清張は1909年生まれだから、1963年には54歳になる。もっとも、清張の作家デビューは遅く、1950年代だ。『点と線』『ゼロの焦点』『日本の黒い霧』を書いていたが、『昭和史発掘』連載より前である。