上瀧浩子「ヘイトスピーチと表現の自由について」『GLOBE』99号(2019年、世界人権問題研究センター)
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2ページの短い論考だが、ポイントを絞って明快に論じている。
上瀧は人種差別撤廃委員会の一般的勧告35号に従って、「ヘイトスピーチと表現の自由の関係についてはあれかこれかという関係ではなく、むしろ規制が表現の自由に資するという立場」を宣言する。
そして、ヘイトスピーチの害悪としての「沈黙効果」に注目し、その観点から言論の自由市場について検討し、インターネットの言論の自由市場では、マイノリティとマジョリティの関係がそのまま反映されるため、マイノリティの言論が「不可視化」されるという。
加えて、言論の自由市場を「質」ではなく「量」の観点から見ると、「国民の知る権利」は情報の量に関連し、「インターネットの言論状況の量はマイノリティに不利な非対称となる。そのため、マイノリティとマジョリティの言論の不均衡を『公平』に是正するための何らかの措置が必要である。この言論の多様性の確保は、『国民の知る権利』として構成することもあり得るが、むしろ、マイノリティの情報を発信する権利と構成することが実態に即していると思われる。」と提唱する。
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前提及びヘイト規制が必要という結論は、私と同じだが、理由付けの一部が異なるので興味深い。
共通点の第1は、日本におけるヘイトの現状認識であり、極めて深刻であり、何らかの対処が必要という点である。
第2は、人種差別撤廃条約及び人種差別撤廃委員会の一般的勧告35号を参照する点である。
第3は、ヘイト・スピーチの刑事規制は表現の自由に反するのではなく、表現の自由の保障に資するという点である。私は「表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを刑事規制する」と主張してきた。
第4は、それゆえヘイト・スピーチ解消法では不十分で、ヘイト・スピーチ規制が必要であり、日本政府が人種差別撤廃条約第4条(a)(b)に付した留保を撤回するべきだという点である。
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このように上瀧と私の基本認識は共通であるが、言論の自由市場の位置づけは異なる。
私は「思想の自由市場」「言論の自由市場」論を採用しない。そもそも言論の自由市場論は単なる比喩的表現に過ぎず、社会科学的に到底評価しえない。憲法論としてもあまりに粗雑であり、適用できない。5年、10年の短期的なスパンなのか100年、1000年の長期的スパンなのかさえ明らかでなく、問題外である。日本国憲法のどこにも言論の自由市場などを予想させる条項は存在しない。日本国憲法が言論の自由市場論を採用していると証明されたことは一度もない。以上が私の考えだ。
ところが、多くの憲法学者と弁護士が、言論の自由市場論を採用し、当たり前のごとく語る。私の指摘に応答した憲法学者を見たことがない。憲法学者は、一切根拠を示すことなく言論の自由市場が絶対命題と考える。根拠を尋ねることは許されない。宗教だ。
現実がこうなので、上瀧は、私のように言論の自由市場論を否定するのではなく、言論の自由市場論を前提としてもヘイト・スピーチ規制が可能であることを示そうとする。この意味で興味深い。この点は奈須祐治の議論も似ていると記憶する。
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ただ、マイノリティとマジョリティの情報の「量」の問題として位置付けることは適切だろうか。
これに対しては、すでに榎透が、マジョリティの側の心ある者が、マイノリティとともに対抗言論を行うべしという議論をしている。私は榎説を批判しているが、上瀧説に説得力があると言えるためには榎説に応答する必要があるだろう。
私の認識では、ヘイト・スピーチで問題となるのは、マイノリティとマジョリティの情報の「量」の問題ではない。マイノリティの属性(アイデンティティ)に対する攻撃が行われることが問題なのだ。変更できない属性への攻撃の問題を情報の「量」の問題に還元してよいだろうか。言論の自由市場の前提は、討論を通じて少数意見が多数意見に変わりうるという想定である。およそまともな論拠ではないが、仮にそれを前提としたとしても、討論を通じてマイノリティの属性がマジョリティに変わるということは考えられない。言論の自由市場が機能する前提が成立していない。問題は情報の「量」ではなく、主体の質(属性)と量(マイノリティ性)である。
とはいえ、この点はもう少し深める必要がありそうだ。