Wednesday, November 30, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(217)レイシズムを考える07

明戸隆浩「差別否定という言説――差別の正当化が社会にもたらすもの」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)

1 はじめに――現在進行形の「否定」

2 事実の否定と責任の否定

3 事例(1)――「ファッキンコリア」

4 事例(2)――関東大震災における朝鮮人虐殺

5 おわりに――「差別否定」にどう対抗するか

明戸は、エリック・ブライシュ『ヘイトスピーチ』の翻訳を手始めに、ヘイト・スピーチに関する社会学的論考を多数発表してきた。法律論に傾きがちな私にとっては、明戸の分析に学ぶことは重要である。

明戸は西欧における「ホロコースト否定」に代表される「歴史修正主義」に言及しつつ、「否定」は「歴史」に限られず、「差別否定」と呼ぶべき事例があることに着目する。「直接的差別が行われた後で、それを否定したり、過小評価したり、正当化したりする」言説であり、「差別煽動」→「直接的差別」→「差別否定」という流れで理解できるという。

明戸はブライシュのホロコースト否定論の説明では、「正当化」「過小評価」「否定」の三つに分けられているという。他方、テウン・ヴァン=ダイクは、「否定」「過小評価」「正当化」「弁解」「非難」「転化」が挙げられる。明戸は、これらを手掛かりに、検討する。

一つの視点は、「事実そのものを」否定する場合と、「(事実については認めたうえで)事実についての責任」を否定する場合の区別である。

また、事実の否定だけならば「自己弁護」にとどまるが、さらに文音で被害者側に責任を押し付ける「犠牲者避難」を伴う場合がある。

明戸は、第1に「事実の否定」と「責任の否定」、及び第2に「自己弁護」と「犠牲者非難」という視点を交差させて、差別否定の分類を試みている。

明戸は具体例として、2017年の「ファッキンコリア」事件について、否定と過小評価、転化、正当化と弁解、非難の要素を抽出する。また、関東大震災朝鮮人虐殺をめぐる議論にも、否定と過小評価、転化、正当化と弁解、非難の要素があるという。

最後に明戸は、「差別否定」をあらためて「ヘイトスピーチ」の議論に位置付けなおす。ドイツをはじめ、西欧では、ホロコースト否定を処罰する例が少なくないので、これらを参照して考察すると、2016年のヘイト・スピーチ解消法の定義では「差別否定のように結果として扇動効果をもつような言動については、明示的な対象となっていない」とし、「差別否定」の言説が差別煽動としてかなり大きな役割を果たしていることに注目すべきだという。差別否定の一部は、最近、研究が進んでいるマイクロ・アグレッションとも重なるだろう。

歴史否定犯罪について、私の見解は『ヘイト・スピーチ法研究序説』第10章第5節「歴史否定犯罪(アウシュヴィツの嘘)」、及び『ヘイト・スピーチ法研究要綱』第9章「ホロコースト否定犯罪を考える」において詳しく示した。

西欧諸国ではナチスによるユダヤ人迫害をはじめとする歴史的犯罪の否定が問題となるが、東欧諸国ではスターリン時代の犯罪の否定がとわれる。他方、韓国ではこの種の立法提案がなされてきたため(法律はできていない)研究が進んでいる。また、西欧では「法と記憶」をめぐる議論になるが、ラテンアメリカでは「真実への権利」のフィールドになる。論じるべきことは多いので、明戸論文をきっかけに、さらに研究をすすめたい。

Monday, November 28, 2022

それでも核兵器と戦争の廃絶を求めて

大久保賢一『迫りくる核戦争の危機と私たち――「絶滅危惧種」からの脱出のために』(あけび書房)

https://akebishobo.com/products/nuclearwarfare

大久保は弁護士で、日弁連憲法問題対策本部核兵器廃絶部会長、日本反核法律家協会会長、核兵器廃絶日本NGO連絡会共同代表である。

著書に『「核の時代」と戦争を終わらせるために』(学習の友社)

https://www.hankaku-j.org/books/220122.html

『「核兵器も戦争もない世界」を創る提案』(学習の友社)

https://www.hankaku-j.org/books/210806.html

『「核の時代」と憲法9条』(日本評論社)

https://www.nippyo.co.jp/shop/book/8036.html

があり、核廃絶運動の理論的先導者である。

大久保はこのところ矢継ぎ早に核廃絶を求める著書を送り出しているが、2022年の著書は2冊目になる。ロシア・ウクライナ戦争における核使用の危機を敏感に受け止めて、核使用を阻止し、核廃絶を訴える。日本における「核共有」論への批判も重要な動機である。

序  核戦争の危険性と私たちの任務

   ――核兵器廃絶と9条の世界化を

第1部 ロシアのウクライナ侵略を考える

第2部 米国の対中国政策と核政策  

第3部 核兵器廃絶のために

第4部 核兵器廃絶と憲法9条

資 料 核兵器禁止条約の基礎知識

400頁に及ぶ本書で、大久保は従来からの核廃絶の主張を展開するが、同時に2022年の現在の課題として、ロシア・ウクライナ戦争、米中対立、日本における反核の理論と運動について積極的に議論を繰り広げる。現在このテーマでもっとも精力的な議論をしている論者である。

世界には12,000発の核弾頭があり、プーチンは核使用の威嚇を行い、米中対立も激化している。「核の傘」に依存している日本は核兵器禁止条約に反対し、政治家は「核共有」を唱えている。

「核持って絶滅危惧種仲間入り」という川柳を紹介しながら、大久保は、この状況を打開するために論戦を挑む。

「明日、地球が滅びようとも、私は、今日、リンゴの木を植える」

本書には大久保の論説30本が収録されている。4部構成であるが、どこから読み始めるのも自由だ。後ろから読み始めても構わない。弁護士であり反核の理論家であるが、大久保の論説はフツーの市民にも読みやすい。専門知識をかみくだき、ていねいに論じている。自説を展開することよりも、反対意見を紹介して、一つひとつていねいに応答する。論点が明確で、読者は自分の目で比較検討できる。自分の頭で考えなおすことができる。

本書に限らず、大久保の著作は、いずれもフツーの市民に語りかけるスタイルである。大久保を直接知る者なら、大久保は話し言葉と書き言葉が見事に合致した論者であることを知っている。

もちろん、反核、反戦争の理論書だから、国際法の引用も決して少なくない。核不拡散条約や核兵器禁止条約や、国際司法裁判所の判決も引用される。それでも、小難しい本にならないところが、大久保流である。

理論論争の中で、大久保は絶妙のネーミングも駆使する。一例をあげると、大久保は「『死神のパシリ』の妄動を許すな」という。「死神のパシリ」とは、9条の非軍事平和主義を投げ捨てて、核兵器に頼れと主張する「核共有」論者のことである。具体的には安倍晋三元首相、高市早苗自民党政調会長(当時)、維新の会などのことである。死神とは「人を死に誘う神」、パシリとは「使い走り」である。核不拡散条約も核兵器禁止条約も無視して、核兵器依存を公言するのは「死神のパシリ」だという。

「主観的にはプーチンと敵対しているつもりのプーチン主義者」と言ってもよいのかもしれない。

私は「安倍晋三は安倍サタン晋三だ」と命名した。日本はサタンだと主張する統一教会の広告塔をわざわざ買って出たのだから、安倍サタン晋三こそ「本名」というべきだろう。「パシリ」ではなく「ミドフィルダー」かもしれない。

3部「核兵器廃絶のために」で、大久保は「核兵器5か国首脳共同声明の虚妄」「岸田首相の核兵器廃絶論の虚妄」「日本政府は、なぜ、核兵器禁止条約を敵視するのか」「浅田正彦氏は『核兵器廃絶』おいわない!?」「『核軍縮コミュニティー』の対立を乗り越えることは可能か」「『核兵器のない世界』を実現するために政府との『対話』と『共同』は可能か」「『市民連合』と野党の政策合意について」など、変転する情勢に合わせて、多彩な議論を繰り広げる。

はっきりしているのは、原則である。平和であり、戦争回避であり、核抑止批判であり、国際人道法であり、憲法の国際協調主義であり、9条である。つねに原則を確認し、その都度の論点に即して議論を展開する。柔軟だが、堅固でもある。どちらとみるかは論者の立ち位置によって異なるかもしれない。

国際情勢は最悪である。国内情勢も悲惨である。憲法無視の岸田政権が悪法の積み重ねに励もうとしている。

だが、大久保は諦めない。大久保は俯かない。口を閉ざすことも、筆を置くこともない。現実が厳しくなればなるほど、舌鋒鋭く現実に立ち向かう。平和運動の現場に根差し、非核・反核運動の現場からエネルギーを得て、大久保は弛むことなく、核戦争の危機に立ち向かう。

終末時計が「残り100秒」を示しても、1秒でも針を戻すために大久保の闘いは続く。

Sunday, November 27, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(216)レイシズムを考える06

百木漠「『左翼的なもの』への憎悪」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)

1 憎悪の転移

2 「左」から「右」へ

3 「置き去りにされた人々」からの反撃

4 「戦後」体制の反転

5 結語

ネット上の議論が、しばしば「知識人」や「左翼」への反発と憎悪をたぎらせ、感情的に爆発していることはずっと以前から指摘されていた。メーリングリストで議論が始まった時期にも顕著だったが、その後、ツイッターをはじめとする「瞬時」の投稿スタイルが定着するようになり、ポピュリズム、炎上、フェイク全盛となり、事実も論理もお構いなしの罵声が飛び交うようになった。「左翼」への嘲笑や猛攻撃が常態化している。もっとも、そこで「左翼」とされているのが何であるのか、実態としてはイメージしにくく、現実離れのした、どうでもよい議論という印象があった。とりあえず、見る必要はないし、見ても時間の無駄であることだけははっきりしている――と考えるのが普通だろう。

百木は、単に時間の無駄であるとは考えず、「左翼的なもの」への憎悪が存在するのであれば、それはどのような憎悪なのか、どこから、なぜ生まれてくるのかを分析しようとする。メディアの在り方が大きく変化し、オンライン・メディアが世論を形成し、政治・社会・経済に多大の影響を与えている現在、どんなにくだらないと思われる意見であっても、否、くだらなければくだらないほど、事実を無視すれば無視するほど、そしてフェイクであれヘイトであれ陰謀論であれ、現実に多大の影響力を有するのだから、きちんと分析する必要がある。なるほどと思うが、私にはできない仕事だ。

百木は、「昨今のヘイトスピーチを支えているのは、在日の人々への直接的な憎悪であると同時に、より広範な『左翼的なもの』に対する敵意でもある。この両者が混ざりあうことによって、互いの憎悪がさらに増殖・拡散され、もはや現実の在日の人々に対する批判・非難としてほとんど実態をなさないところにまで、『在日』バッシングが膨れ上がってしまうという構造が形成されているのである。」という。

さらに「このような『憎悪』の歪んだ構造は、間違いなく戦後日本の特異な言説空間に由来するものである。日本のヘイトスピーチ問題が、西洋的なレイシズム(人種差別)の観点だけからでは解けない理由はそこにある」という。

こうした問題意識から、百木は、1982年生まれの自身の生育史や経験を基に、過去20年ほどのヘイトの歴史をフォローし、「価値観の反転」を確認する。そのうえで、百木は欧米諸国のヘイト現象においても、「左派・リベラル側の問題」を焦点化する。百木にとって、ヘイトはヘイト側の問題ではなく、「左派・リベラル側の問題」になる。

百木は日本における「価値観の転換」」を1990年代における「日本の『戦後』体制の実質的な終焉」に求める。

この状況を克服しなければならないが、百木は「厄介なことに、左翼的な人々がヘイトスピーチの『正しくなさ』を強調すればするほど、右翼的な人々はそれに対する反発を強め、いっそうヘイトスピーチ的な言動を強めていくという悪循環の構造がある」という。

百木の問題意識を、私は共有していないため、論理をすんなり理解することができていない。

日本におけるヘイト・クライムとヘイト・スピーチには150年の歴史があり、戦後日本社会においても構造的な差別の下で継続してきたので、1990年代の「日本の『戦後』体制の実質的な終焉」を焦点化する理由もよく理解できていない。

私の理解では、ヘイトは「左派・リベラル側の問題」ではなく、ヘイト側の問題である。百歩譲っても、ヘイト側と被害者側を含んで形成されている日本の歴史的制度的な差別構造の問題である。「右派」と「左派」の非難合戦は、どうぞご自由にというしかない。そこにマイノリティを巻き込んで、マイノリティにヘイトを浴びせる加害をやめてほしいだけである。それは「ヘイトスピーチの『正しくなさ』」という話ではなく、人権侵害であり、犯罪であるという話である。犯罪を処罰するべきであるということは、「左派」か「右派」かとは関係ない。EU諸国では、ヘイト・スピーチを処罰するのが常識である。

とはいえ、百木の言う通り、メディアにおいては「左派・リベラル」への憎悪が言説を規定しているように思える。それがフェイクやヘイトと結びついているのも、なるほどそうだろうと思う。その意味では、百木のような分析が必要なのだろう。

Sunday, November 20, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(215)レイシズムを考える05

遠藤正敬「国籍と戸籍」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)

日本における差別の動機(根拠)として主要なものが国籍と戸籍である。外国人差別は国籍による差別であり、女性差別や部落差別は戸籍に関連して行われた。このことはずっと以前から指摘され、その批判をする思考もよく知られてきた。国籍と戸籍の結びつきもそれなりに知られてきた。遠藤は、日本的差別の根拠となる国籍と戸籍の連関を主題に据える。

遠藤は『戸籍と無戸籍』(人文書院)、『戸籍と国籍の近現代史』(明石書店)の著者である。

1 差別の温床となる戸籍

2 旧植民地をめぐる国籍問題

3 戸籍における“排外主義”

4 戦後における戸籍の“純化”

5 今なお残る国籍の壁

6 おわりに

戸籍については知っているつもりになっていたが、「日本の植民地統治における国籍と戸籍の関係」の複雑な経過(朝鮮、台湾、樺太)の差異はきちんと知らなかった。遠藤は国籍と戸籍による管理・統合・排除のメカニズムをていねいに説明している。

「戸籍は“排外主義”をそのひとつの主柱」としている。つまり、国家による排外主義である。壬申戸籍に始まる家制度と不可分の戸籍は、「制度としての家が日本国家の基盤とされ、日本人は必ず一つの家に属することが求められた」という。知っていたことだが、その意味を正確に理解していたわけではない。遠藤によると「まさしく家=戸籍は日本人にしか生存を許さない空間なのであった」。

戦後においても1952年通達から1959年通達にかけて、「国民国家の再編」、旧植民地出身者の排除、外国人の排除が進み、その下で「日本国民」が再構築された。

1981年の難民条約加入により部分修正がなされたものの、基本法制に変化はなく、いまなお「日本国民」は独自の国籍と戸籍の枠内に幽閉され、外国人排除を当然とする思考様式に捕らわれている。反差別の運動にかかわる市民であっても、国籍と戸籍の閉鎖空間から逃れられるわけではない。

「戸籍は、民族、文化、ジェンダーといったさまざまな差異をもつ個人のアイデンティティをその硬直した規格に押し込んで『日本人』として画一化するものである。その規格への適合を拒む者は『まつろわぬ者』や『非国民』として貶められる。かくして日本国家への同調圧力がつくり出されている。これが戸籍のもつ権力性をもってきた。」

なるほど、その通りと思う。遠藤はさらに次のようにまとめる。ここが重要だ。

「レイシズムの厄介なところは、『国民』という表装的な同質化を強要する裏面で、その内なる『血』をも取り沙汰して排撃する点である。戸籍は出自にまつわる境界線を『日本人』のなかに設定し、かつ公示することによって社会的な差別や格差を再生産する効果をもってきた。これは支配権力が国民を階層的・分断的に統治するという目的に役立ってきたものといえよう。」

国籍と戸籍の壁と同時に、日本国家は「外国人登録」というシステムを構築した。そこにおける「朝鮮籍」の複雑な歴史は、日本国家の人民支配の特質を浮き彫りにする。出入国管理も含めて、その全体を見据えることで、日本国家が見えてくる。

歴史学の真髄に触れる01 『歴史のなかの朝鮮籍』

https://maeda-akira.blogspot.com/2022/02/a.html

https://maeda-akira.blogspot.com/2022/02/blog-post_26.html

https://maeda-akira.blogspot.com/2022/02/blog-post_83.html

崩壊を加速させる日本解体論

白井聡・望月衣塑子『日本解体論』(朝日新書)

https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=23726

<政治状況も、国民生活も悪化の一途をたどり、日本を蝕む閉塞感に打開の一手はあるのか。政治学者と新聞記者が、政治・社会・メディアの問題点、将来に絶望しながら現状を是認し続ける「日本人の病」に迫る。さらに戦後の歴史、国民意識の現在地を踏まえながら、縮小するこの国の、向かうべき道筋を示す。>

1章 77年目の分岐点

2章 「政治的無知」がもたらす惨状

3章 壊れていくメディアと学問

4章 癒着するメディアと権力

5章 劣化する日本社会

6章 国家による侵攻の衝撃

「永続敗戦論」「国体論」の政治学者と、映画『新聞記者』のモデルによる対談だ。

1章・第2章では主に日本政治の病理を鋭く批判し、第3章・第4章ではメディアと学問の劣化・衰退を論じる。第5章は、日本政治・メディア・学問の劣化を必然化させる日本社会の劣化を分析する。

随所で、うん、うん、そうだ、そうだ、その通りと頷きながら読める本であり、ほとんどすべて、私たちがこれまで言ってきたことと同じだ。

与党の横暴と混迷、官僚の腐敗、財界の悲惨さ、ジャーナリズムの消失、御用学者の跋扈――何も新しいことがないと言ってよいほど、この国の愚劣さと恥辱をあますところなく論じている。残念ながら、すべて賛成と言ってよいほどだ。だから、面白いと言えばおもしろいが、おもしろくないと言えばおもしろくない。

天皇制からアメリカ支配に代わった「国体」の寿命が尽きようとしており、日本はあらゆる領域で腐敗しており、腐臭を放つばかりだという。政治外交的に属国であり、内政も外政も自分では決められない。経済的にも衰退の一途を辿っており、放っておけば崩壊するだけの日本を、白井と望月はさらに「解体」しようとする。

政治経済のみならず、メディアや学問も含めて腐朽が進行する一方だが、この国を支えてきた「国民主権」の虚妄は、「国民」の一員たる白井や望月も責任の一端を負う。それゆえ、この国の解体に最後までつきあう姿勢であろう。

白井は、日本は崩壊するしかない、早く崩壊した方が、まだ救いが生まれるかもしれないと考えているようだ。もっとも、その先に何が待っているかには言及がない。おみくじ占いではないので、やむを得ない。

6章はロシア・ウクライナ戦争を取り上げているが、レーニン研究者の白井はロシア留学経験があるので、この章だけは、知らなかったことが語られている。別の意味でおもしろい。

戦争については、白井の実感として、ロシアは戦争をやめないだろうと悲観論を唱えている。残念なことに白井の実感には根拠がありそうだ。困ったことだ。

Thursday, November 17, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(214)レイシズムを考える04

間庭大祐「ヘイトクライム、あるいは差別の政治化について――アレントの全体主義論からレイシズムを考えるための試論」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)

間庭は、20132月の大阪・鶴橋における「鶴橋大虐殺」発言に「理解しがたいほどのイマージナルで虚構的な性質」を感じ取り、「死」を語る非現実感に戦慄を覚え、20世紀の暴力を全体主義の悪夢と受け止めたアレントの戦慄になぞらえる。そこで暴力としての人種差別を、アレント的な思索により解明しようとする。

ナチスドイツによるユダヤ人絶滅政策が受け入れられてしまった原因を、アレントは、暴力の道具的性格に見出す。「道具はそれを使用する人間の講師によってはじめて暴力となる」ので、正当な目的であれば暴力があたかも正当であるとみなされることがある。

間庭によると、「暴力が人間の人間に対する感覚麻痺を伴った関係切断――人間と『物』との二分法――によって為されるものである以上、人種差別主義はまったく暴力的である。」

その暴力行使を正当化する原理が問われなければならない。それがイデオロギーであり、イデオロギーとしての差別が猛威を振るうことになる。

イデオロギーとしての差別は、アレントの主題では政治的反ユダヤ主義のことである。20世紀の反ユダヤ主義が汎民族運動のうちに現れている。自民族にとって都合の良い仮想現実を提供してくれるのが、反ユダヤ主義である。これがのちに全体主義に継承される。「差別の政治化の極限状態としての全体主義」に目を移す必要がある。

間庭によると、全体主義のイデオロギーは似非科学的な支配装置にほかならないが、イデオロギーは人々に<超意味>をもたらす。「経験としての強制収容所の核心」をアレントは「世界の無意味性」に見出す。それは「自己の無用性」を意味することになるので、世界の意味を見失い、実存的苦境に立たされた人々は、<超意味>に吸引される。

「見捨てられた人間」――「他者との共同性から見捨てられ無世界であるがゆえに、虚妄な世界観あるいはすべてを説明し尽くしてくれるかのようなイデオロギー的<超意味>に頼らざるをえず、きわめて能動的に自己の観念へ閉じこもる」人間。これがテロルへの回路を開く。

間庭は次のように述べる。

「こうした極限的な差別の政治化は、排除し抹殺すべき『内部の敵』を意識的かつ能動的に創出しなければならない原理と構造を内包している。イデオロギー的『プロセス』に飲み込まれた人間はさらに現実から逃避し、イデオロギー的世界観から生まれる自己観念を養うために、常に自分の憎悪の対象を生産し続けねばならなくなるのである。こうなれば、もはや『ユダヤ人』が現実的に何であるのかはまったくどうでもよいことになる。というのも、あくまで『ユダヤ人』は差別の政治化のためのシンボルにすぎなくなるからである。そうであるがゆえに、彼らは『ユダヤ人』を絶滅させると次の格好の餌食を見つけ出し、限りなく『プロセス』を維持し続ける。差別の政治化の最終地点は、人類の絶滅なのである。」

アレントはこうした20世紀の暴力経験を乗り越えるために、「複数」の人々による世界の共有を、他者とのコミュニケーションを通して、自分を創造しなおすことに見る。

間庭の言葉では「自己観念への逃避を自覚的に拒否することであり、人間一人ひとりの『かけがえのなさ』への想像力を保つこと」とされる。

アレントの『全体主義の起源』は何度か読みかけたが、結局、通読できないままである。アレント研究はずいぶんたくさん出ているので、いくつか読んだが、新書レベルの解説にとどまる。現代思想における最重要の思想家であると思うが、自分できちんと読めていない。

間庭の思索は、20世紀の暴力経験をいかに乗り越えるかに向けられており、生産的な議論だ。欲を言えば、差別の歴史的構造的な文脈とイデオロギー的な文脈を、もっと明確に接合して展開してもらえると良いなと思う。間庭としては、それは十分配慮した上でのことだろうが、読者の問題意識が、個人の「想像力」の問題に限定される恐れはないだろうか。もっとも、それは読者が自分で考えるべきことかもしれない。

Wednesday, November 16, 2022

ヘイト・クライム禁止法(204)デンマーク

デンマークがCERDに提出した報告書(CERD/C/DNK/22-24. 7 February 2019

1に、ヘイト・クライムの管轄である。2015年春、ヘイト・クライムと闘う責任が、デンマーク安全情報サービス機関から国家警察に移管された。国家警察はヘイト・クライムが全警察管区で的確に扱われるよう、警察官に十分な研修を行っている。ヘイト・クライムの特定、記録、捜査、処理に関する法執行官研修は、デンマーク警察学校の研修に含まれている。ヘイト・クライム監視計画の履行のため、全管区にガイドラインを送付し、捜査と記録を促進している。2018年、デンマーク国家警察は、IT行政システム(POLSAS)にヘイト・クライムを正確に記録するために協議している。刑法266条に違反する犯罪についてはPOLSASに記録している。

2017年、デンマーク国家警察は、ヘイト・クライム監視方法に変更を加えた。POLSASにおけるヘイト・クライム記録では検索が不十分だったので、検索を容易にするように変更した。

デンマーク国家警察はヘイト・クライム監視計画の年次報告書を出版し、20189月に第3次報告書をまとめた。報告書は2017年以後の事件を446件記録している。報告書作成時、95102人に対する訴追が行われた。2017年のヘイト・クライムの半数が被害者の国籍、民族性、人種、皮膚の色に関連する動機で行われた。監視方法に変更があったため、直接の比較はできないが、2016年以前と2017年以後の傾向は同じと思われる。

2に、司法省とコペンハーゲン大学の協力により、人種的動機による暴力犯罪等の被害者になるリスクに関する年次報告書を作成している。20082016年報告の分析では、暴力犯罪被害者の7%が人種主義によるもので、6%が人種主義による可能性があるものであった。女性よりも男性被害者の方が人種動機による被害を受けやすい。

3に、検察庁のヘイト・クライム・ガイドラインである。警察と検察のヘイト・クライム処理ガイドラインは、検察庁の命令に基づいている。これは刑法266条bと816項、及び人種差別禁止法に関するものである。ガイドラインは2016年に改訂された。すべてのヘイト・クライムをPOLSASに記録することにした。

2011年命令に基づくガイドラインでは、人種差別禁止法の適用が地方検察官の任務とされていなかった。2016年ガイドラインは、人種差別禁止法の全事件が地方検察官の管轄とされた。現行ガイドラインはICERDの要請に従って、刑法266条b違反事件の効果的捜査を求めている。

4に、重点項目としてのヘイト・クライムである。201617年、ヘイト・クライムが検察官の重点項目とされた。法解釈、量刑、証拠規則を判例において明確にすることである。警察と検察はこのために継続的に統計に取り組んでいる。

5に、人種差別禁止法である。検察官は人種差別禁止法を管轄し、年次報告書を作成している。201318年の報告書には人種差別禁止法違反が13件記録されている。公訴提起されたのは4件で、2件は無罪となり、1件は有罪が確定し、1件は法的警告がなされた。1件は手続き中である。

6に、人種主義動機を持った犯罪(刑法816項)である。刑法816項違反の全事件を警察統計から引き出すことはできないが、検察庁の判例分析によると、201317年、一連の判決があり、民族的出身、信仰、性的指向に基づく犯罪について刑罰加重がなされている。

7に、デンマーク雇用法では、ジェンダー、人種、皮膚の色、宗教、政治的信念、性的指向、年齢、障害、国民的社会的民族的出身に基づく差別は違法である。労働市場差別禁止法があり、直接差別と間接差別を禁止している。

CERDのデンマークへの勧告(CERD/C/DNK/CO/22-24. 1 February 2022

人種主義ヘイト・クライムとヘイト・スピーチ事件が過少にしか報告されていない。包括的な情報収集メカニズムが存在しない。刑法816項について、警察、検察、裁判所が記録した事件数にギャップがある。人種差別を助長する団体、当該団体への参加を刑法上の犯罪としていない。政党の政治論議において偏見と排外主義が見られる。委員会は次のように勧告した。

人種主義ヘイト・クライムとヘイト・スピーチ事件を被害者が報告できないようにしている障壁を除去すること。被害者がヘイト・クライムとヘイト・スピーチは処罰される犯罪であり、救済が得られることを啓発すること。当局が捜査、訴追、処罰する意思を高めること。

複合的な動機の場合も含めて人種主義動機の犯罪が効果的に捜査、訴追されるようにヘイト・クライム法を適用すること。

人種主義ヘイト・クライムとヘイト・スピーチの包括的な情報収集制度を設置すること。犯罪のカテゴリー、ヘイト動機の類型、標的とされる集団、司法的フォローアップを含めること。

警察と、ヘイト・クライムとヘイト・スピーチの影響を受けるコミュニティの対話を継続すること。

条約第4条を完全に履行し、暴力と人種差別を助長・煽動する団体と宣伝活動を禁止し、公的議論におけるプロパガンダとフェイク・ニュースに対抗言論を強化すること。

CERDは人種主義プロファイリングについて、警察が民族的マイノリティを犯罪被疑者として嫌疑をかける結果、デンマーク人と民族的マイノリティとで訴追の比率が異なることを指摘する。デンマークには人種プロファイリングの明確な定義がなく、法執行官のためのガイドラインもないため、人種プロファイリングを防止できないと指摘する。

人種プロファイリングを明確に定義し、法律で禁止し、警察による職務質問等における人種プロファイリングを予防すること。

被逮捕者の民族的出身を系統的に記録し、民族プロファイリングの統計情報を収集すること。

法執行官による民族プロファイリングの申立件数を監視し、申立に対処すること。

デンマーク人以外の民族背景を有する者を警察の第一線に採用し、無意識に行われる人種プロファイリングを可視化し、減少させる努力を強化すること。

ヘイト・スピーチ研究文献(213)レイシズムを考える03

隅田聡一郎「資本主義・国民国家・レイシズム――反レイシズム法の意義と限界」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)

『マルクスとエコロジー』(堀之内出版)の著者・隅田は、レイシズムと国家の関係について「マルクスの資本主義分析の観点」からの議論を試みる。

隅田は、伝統的マルクス主義においては国家を資本家階級の「道具」として規定し、上部構造としていたこと、これに対して唯物論的国家分析によると、国家は特定の社会関係が帯びる「形態」と把握されるという。「国家装置」と見るか、「権力関係」とみるかの違いが生じる。

だが、「国民国家とレイシズムの関係を考察するためには、資本主義の政治的形態に関する抽象的分析を具体的に発展させなければならない」。レイシズムをたんにイデオロギー装置と見るのではなく、「レイシズムの近代的形態を資本主義国民国家の政治的形態として把握すべきである」。

隅田はより具体的に考察するために、「国家の歴史社会学」の知見を応用し、「国家の社会化」において、人間身体が生―権力の対象として「人種化」され、生と死を切り分けるレイシズムが国家機能に組み込まれると、ミシェル・フーコーを援用する。

近代国家におけるレイシズムの発現形態や機能は、国によりさまざまであり、隅田は、戦後の日本では、東アジアのポストコロニアル諸国家システムのもとで「一九五二年体制(出入国管理令、外国人登録法、法律第一二六号)」として独自のスタイルで形成・確立したという梁英聖の議論を引用する。

梁英聖『レイシズムとは何か』について

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/03/blog-post_8.html

国家がレイシズム暴力に対してどのような行動、対策をとるのかが重要だが、隅田によると、「そもそも、資本主義国民国家が、反レイシズム実践に強制されることなく、レイシズム暴力およびレイシズム実践を積極的に禁止・抑制することなどありえないのだ。つまり、資本主義国民国家は、反レイシズム法及び規範が埋め込まれた公民権法を絶えず骨抜きにし、レイシズム国家としての形態規定性を貫徹させようとする」という。

このように冷静に認識しつつ、国民国家に反レイシズム対策を取らせる法理と運動、実践の組織化が重要となる。

隅田はアメリカの公民権法の歴史をたどり、紆余曲折にもかかわらず、アメリカ流の反レイシズム実践が持った意味を確認する。

これに対して、日本はICERDが求める反レイシズム法を持たず、拒否をあらわにしている。その理由を、隅田は、岡本雅享に依拠して説明する。第1に、反レイシズム運動の脆弱性であろ。第2に、日本型企業社会である。

なるほど、とも思うが、運動の力量不足と企業社会に理由があるとすると、日本国家のせいではなく、政治の責任が解除されてしまうようにも読める。隅田はそういうつもりではないだろうから、最大の理由は「資本主義国民国家のレイシズム国家としての形態規定性」にあるという前提の上での議論だろう。

資本主義、国民国家、レイシズムの関係については、的場昭弘『19世紀でわかる世界史講義』でも論じられている。

https://www.njg.co.jp/post-37596/

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本書第一部には、これまでに紹介した兼子歩、松本卓也、隅田聡一郎の論文のほかにも、マイクロ・アグレッションに関する金友子、レイシズムの社会心理学に関する高史明、差別の哲学に関する堀田義太郎の論文が収められている。後3者の論考・テーマについては、私の旧稿で言及したことがあるが、いずれも学ぶことの多い研究者である。兼子、松本、隅田の論文は初めて読んだが、やはり勉強になった。

6本の論考を読んでの最初の感想は、よくこれだけ多彩で、有益かつおもしろい論考を集めたものだということだが、続いて、6本の論考がそれぞれ独自に、もっと端的に言えば、無関係に並んでいることには、不思議な思いもした。「共同研究」ではなく、偶然的に『図書新聞』に連載された論考を再整理・編集したのでやむを得ないだろうが。いずれにしても、これだけ多方面からレイシズムに光を当てている点は、驚くべきことだろう。ここから次々と、多彩で素晴らしい研究が始まるのだろう。

Monday, November 14, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(212)レイシズムを考える02

松本卓也「レイシズムの精神分析――ヘイトスピーチを生み出す享楽の論理」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)

松本は2つの論点を提示する。

「ひとつは、レイシズムが生み出すメンタルヘルス上の被害とそれに対する心のケアの問題であり、もうひとつは、ヘイトスピーチやヘイトクライムを行うレイシストの心理の問題である。」

前者について、松本は精神状態の悪化やうつ病、PTSD、さらには覚せい剤依存やアルコール依存などを指摘する。海外では研究があるが、日本では「まともな研究がほとんどなされていない」という。松本は、ジャーナリストの中村一成や弁護士の師岡康子を引用する。メンタルヘルスの研究がないためだ。この点について、松本らは調査中であり、その結果は今後公開されると予告する。

私の『序説』第4章「被害者・被害研究のために」の「第3節 ヘイト・クライムの被害」では、アメリカにおけるヘイト・クライム研究における被害論を紹介した。その後、日本でも実態調査が徐々に進んでいるが、まだまだ不十分である。理論研究もこれからだ。松本らの研究が公開されるのを待ちたい。

松本論文は、後者の問題――レイシストの心理に向かう。ただし、個人のパーソナリティ問題に還元することなく、それがなぜレイシズムという形で噴出するのかを明らかにしようとする。

そこで松本は、フロイトとラカンの精神分析におけるレイシズム研究を参照する。その上で、特に享楽の論理に焦点を当てる。

「ラカンがレイシズム論に付け加えた重要な寄与は、レイシズムを享楽の病理として捉える際に、そもそも自らの享楽が本質的に<他者>の享楽によってしか位置づけることができない、という逆説の存在を強調したことである。」

私たちの享楽はあらかじめ失われているのに、「この享楽の不可能性は、『どこか他のところに十全な享楽を得ている人物=<他者>が存在している』という空想を生み出してしまう」という。

「そこから、『私が十全な享楽に到達できないのは、この人物が私の享楽を盗んだからだ』という結論が引き出されるとき、そこにレイシズムが生まれる」。

ドイツ人がユダヤ人による盗みや裏切りを非難し、日本人が在日朝鮮人の「特権」を非難するように、享楽の盗みを他者に帰責することで、自分の責任を全面解除し、他者への攻撃を容易にする身勝手な理屈だが、これはある意味「魅力的」なアイデアである。だから、この罠から逃れることが難しくなる。

松本は次のように述べる。

「グローバリゼーション下における私たちの享楽の論理は、複数の享楽のモードの共存を許しつつも、単一の享楽のモードを『理想』とし、その他の享楽のモードを排斥してしまう可能性――すなわち、レイシズムの可能性――をつねに内包させているのである」。

ただし、これだけが結論となるべきではないという。松本は最後に次のように付け加える。

「だが、これは精神分析によるレイシズム論の最後の言葉ではない。享楽の多文化共生の不可能性という居心地の悪い結論が、私たちの存在論的条件をなす享楽の論理から生じているとすれば、精神分析は、グローバリゼーション下で顕著にあらわれる自分とは異なる享楽のモードにいかに煩わされずにすますか、自分自身の享楽の(不)可能性といかに付き合っていくかを考える上できわめて重要な実践となることであろう。」

失われた享楽の論理が、ヘイト・スピーチやヘイト・クライムのメカニズムを示してくれることはそれなりに理解できる。植民地主義や国民国家という歴史的構造的な局面とは別に、パーソナリティに即して、レイシズムを分析する際の一つの視点としておもしろい。享楽の論理を超えるための論理を、松本の次の論文に期待したい。

中国から略奪した文化財の返還を求める11・19集会

1119日(土)1315分から、JR田町の港区立産業振興センター・大ホール(札の辻スクエア・11階)で、「中国文化財返還運動を進める会」の主催で、緊急集会「中国から略奪した文化財の返還を求める1119集会」が開催されます。

「中国文化財返還運動を進める会」は、日本が中国から収奪した文化財を「元の場所」に返還する運動に取り組んでいます。

当面の返還対象は、

日清戦争直後の1895年に遼寧省海城の仏教寺院の三学寺から略奪した「石獅子」(現在、靖國神社に一対二体と栃木県の山縣有朋記念館に一体あり)と

日露戦争後に租借地となった遼寧省旅順から1908年頃までに略奪した「鴻臚井(こうろせい)碑」(現在、皇居の吹上御苑にあり)です。

「中国文化財返還運動を進める会」は、「不当に入手した異国の文化財は、目に見えない傷がある。元に戻すことが近代史の再構成、脱植民地化になる」(五十嵐彰氏)、「物を返せば終わりという問題ではない。日本人が主体的な意志で返すことが過去の清算になる。」「人の命は戻らないが、文化財は生きている。それを返すことで歴史への道を探ろうという運動だ」(纐纈厚氏)と考えて返還運動を進めています(「東京新聞」2022412日、925日・参照)。

本集会「中国から略奪した文化財の返還を求める1119集会」で、

 

●山田朗先生(明治大学教授)は「中国侵略戦争を反省し教訓を学ぶ中から日中友好と中国文化財返還の実現を目指して前進しなければならないこと」等について、

 

●東海林次男さん(東京都歴史教育者協議会会長)は「不正な手段で日本に持ち込まれた中国等の文化財と向き合う中から、元の場所に返還することが収奪された文化財の本来の価値を取り戻してモノの見えない傷を修復することであること」等について、問題提起を行います。

 

中国からのオンライン発言(中国の大学教授のご発言)もあります。

大変、興味深い集会となりますので、多くの皆さま方のご参加をお願い致します。

★事前参加登録が必要です。恐縮ですが、大至急、下記のメールまで、①氏名②ふりがな③連絡のとれる電話番号 を記載して、申し込みをお願い申し上げます。

E-mail: murayamadanwa1995@ybb.ne.jp

連絡先 090-8808-5000

 

           記

 

1119日 日中の草の根運動で中国文化財返還を実現しよう!

 

日時:1119()1315分(13時開場)

会場:港区立産業振興センター/ホール大

東京都港区芝5-36-4札の辻スクエアの11階  TEL:03-3578-2558

交通機関:JR田町駅から4分、都営三田線三田駅から2

*資料代1000

 

講演(1)日中戦争とウクライナ戦争から学ぶもの                                                      

           軍拡・改憲・さらなる戦争を許さないために     

     講師 山田 朗(明治大学教授)                                                

講演(2)モノが語る歴史の捏造と瑕疵文化財                                                         

    講師 東海林 次男(東京都歴史教育者協議会会長)                                     

 

◎ブックレット『中国文化財の返還-私たちの責務』(500)円を販売中です。

 

主催:中国文化財返還運動を進める会         

共同代表:五十嵐彰(慶應大学非常勤講師)纐纈厚(山口大学名誉教授)東海林次男(東京都歴史教育者協議会会表)藤田高景(村山首相談話を引き継ぐ会)

ヘイト・スピーチ研究文献(211)レイシズムを考える01

兼子歩「一世紀前の『ヘイトの時代』から考える」清原悠編『レイシズムを考える』(共和国、2021年)

『図書新聞』に31回連載されたレイシズム論を1冊にまとめた著書である。全21章と1コラム。編者の清原は社会運動論とメディア論の研究者。本書には社会学、政治学、哲学、文学、芸術学、環境学、精神医学、社会心理学など多様な研究分野からの論考が収められている。冒頭の清原「差別に抗するために学ぶ」において全体の概要がまとめられているので便利だ。

兼子はアメリカ社会史、ジェンダー研究者。共著に『「ヘイト」の時代のアメリカ史』(彩流社)がある。

兼子は、アメリカ南部におけるリンチの歴史的考察に挑む。私たちは、先住民族や黒人奴隷に対する差別の歴史を単純化して理解しがちだが、奴隷制が終了して一定の時期を経て、黒人男性をレイピスト、犯罪予備軍として描き出す「神話」がなぜ、どのように形成されたのか。その背景を理解するためには、白人男性の世界観がいかなるものであったかを明らかにする必要があるという。

奴隷所有のプランターや、自営農民のヨーマンが形成していた南部の産業構造の変化、奴隷解放後の北部資本の南部への流入などの状況変化によって、それまでの「男らしさ」意識に変容が生じた。「南部白人男性民衆の『白人』としての特権的『男らしさ』を回復する決定的な武器」としての「リンチという暴力」が生み出される。兼子はそのメカニズムをていねいに分析している。

産業構造の変容だけですべてを説明できるわけではなく、その下でリンチを正当化する言説がいかに配備され、どのように機能したかも問われる必要があり、兼子は南部白人男性リーダーたちがリンチ正当化言説に利益を見出した理由を解明する。再建期に、「黒人支配」妥当と白人至上主義がどのように形成されたかである。

兼子は次のように述べる。

「南部エリートが主導したこのような集合的記憶は、人種隔離制度や黒人選挙権剥奪を正当化するのみでなく、白人至上主義を標榜する民主党の支配に歴史的正統性を付与し、これに対して異人種間協調に基づいて抵抗しようとする政治運動や労働運動の正当性を歴史によって否定する、という政治的機能を果たしていた。」

「黒人男性による白人女性強姦の恐怖という歴史の新たな記憶に根ざした言説を白人エリートから突き付けられた零細農民や労働者階級の白人男性たちは、社会経済的な階級の共通性に基づいた異人種間連帯か、あるいは自己に従属する白人女性を『保護』する白人男性としての人種的連帯化の選択を迫られることになる。」

家父長制と白人至上主義に彩られた「男らしさ」の幻影が黒人リンチを呼び起こし、正当化したということは、「防衛的ヘイト・クライム」と同じメカニズムかもしれない。

兼子は最後に、トランプ時代のヘイトを一世紀前のリンチの時代と対比する。時代も背景も異なるが、アメリカにおいて白人かつ男性であるということの特権性をいかに意識するかという視点での分析の必要性を指摘している。

私は『序説』第3章第2節で、ブライアン・レヴィン、及びキャロライン・ペトロシノによるヘイトのアメリカ史を紹介した(149~159頁)。

奴隷制廃止後のヘイトの歴史的分析を詳しく考えたことがないので、兼子論文はとても興味深い。奴隷制、リンチの歴史、そして銃社会の形成(この点は兼子論文では扱っていない)を視野に入れないとアメリカのヘイトは理解できない。

Wednesday, November 09, 2022

風化を押しとどめる調査報道

日野行介『原発再稼働――葬られた過酷事故の教訓』(集英社新書)

https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-721228-0

第1部 安全規制編

 第1章 密儀の中身

 第2章 規制委がアピールする「透明性」の虚構

 第3章 規制は生まれ変わったのか?

第2部 避難計画編

 第4章 不透明な策定プロセス

 第5章 避難所は本当に確保できているのか

 第6章 隠蔽と杜撰のジレンマ

 第7章 「絵に描いた餅」

 第8章 避難計画とヨウ素剤

補遺 広瀬弘忠氏インタビュー ――フクシマ後も変わらない原発行政の虚構

岸田政権は原発再稼働と新規原発建設に向けて動き出した。福島原発メルトダウンから11年半しかたっていないのに、過酷事故の教訓が生かされていない。

本書は228月出版なので、岸田政権の原発建設方針発表前に書かれたものだが、まさにタイムリーな本と言える。

日野はジャーナリスト・作家、元毎日新聞記者。『除染と国家 21世紀最悪の公共事業』(集英社新書)、『調査報道記者 国策の闇を暴く仕事』(明石書店)、『福島原発事故 県民健康管理調査の闇』『福島原発事故 被災者支援政策の欺瞞』(いずれも岩波新書) 、『原発棄民 フクシマ5年後の真実』(毎日新聞出版)等著書多数。

第1部 安全規制編では、原子力規制委員会の審議が、いかに再稼働ありきで動いているかを検証する。資料のチェックや基準の解釈を自由自在に操って、何としてでも再稼働を許す結論につなげる姿勢が顕著である。変更した姿勢を隠そうともしないといった方がよいが、通常は報道されないため、知られることがない。日野は原子力規制委員会の資料を徹底追及する。

第2部 避難計画編でも、実施できない机上の避難計画を並べて、つまりアリバイ作りに励んでいるだけの実態がある。以前から知られていることではあるが、日野は具体的に、資料に基づいて、避難計画のずさんさを暴露する。

1部・第2部ともに、大筋は良く知っていることだ。しかし、詳細は知られていない。具体的な資料に基づいた綿密な調査報道によって、風景がガラリと違って見えてくる。隠蔽、捏造、改変のごまかしを暴くのは大変根気のいる仕事だ。官僚機構が膨大な情報を隠し持っているからだ。フクシマの教訓を風化させ、闇に葬ろうとする力に抗して、日野はゆるぎなく、たゆみなく、着実に調査報道を進める。

日野はこう語る。

「国策と対峙する調査報道に必要なものは、プロフェッショナルとしての『狂気と執念』だけというのが私の持論だ。『狂気』は固定観念なく物事の本質を見抜く見識であり、『執念』は自らが確信した本質を追い求め続ける気力や体力だと考えている。」

Tuesday, November 08, 2022

やわらかいフェミニズムの方へ

河野貴代美編著『やわらかいフェミニズム――シスターフッドは今』(三一書房)

https://31shobo.com/2022/08/22004/

<「フェミニズムはどうなっているの?」という問いかけがある。

 フェミニズムの掲げた「反差別」「反性差別」「反暴力」「平等」「平和」を降ろすつもりはない。でも反教条的、反原理的、反強制的なフェミニズムを目指したい。>

もくじ

はじめに(河野貴代美)

第1章 モザイク模様のフェミニズム(荒木菜穂)

第2章 差別する/差別されるという個人的体験

1 自分の物語から(河野和代)

2 在日朝鮮人三世という存在(高秀美)

3 差別について(河野貴代美)

第3章 次世代との交流におけるフェミニズム

1 インタビュー 子どもには自分の人生を生きてほしい(小川真知子)

2 インタビュー フェミニストも子育ては試行錯誤(加藤伊都子)

3 アメリカで起きていること(ゴードン美枝)

第4章 少女マンガに描かれたシスターフッド(小川真知子)

第5章 自由に、闊達に、謙虚に生きる

1 私が私になることと対男性との関係(河野和代)

2 女性たちはどのようにしてフェミニズムと出会うのか(加藤伊都子)

3 出会いを求めて(河野貴代美)

第6章 やわらかいフェミニズムの体験 執筆者座談会

終わりに(河野貴代美)

『それはあなたが望んだことですかフェミニストカウンセリングの贈りもの』や、『わたしを生きる知恵 − 80歳のフェミニストカウンセラーからあなたへ』に続く河野貴代美とその仲間たちのフェミニズムの旅をめぐる一冊である。

主にフェミニストカウンセラーによる文章で、カウンセラー自身の体験も含めて、女性たちが遭遇する困難にどのように向き合っていけるか、悩みを共有し、語り合い、乗り越えを図るための著書だ。

フェミニズムという言葉や思想がこの国に紹介されて久しいが、フェミニストカウンセラーや、やわらかいフェミニズムという考え方はあまり知られていない。

河野貴代美は「はじめに」で、「支え合う関係性の構築」を説くことから始める。自立した「強い個人」の思想を基軸にしてきた近現代の思想とはやや異なる入り方である。最近ではケアの思想、「弱い個人」という思考もかなり理解されてきている。

何も介護の現場の思考だけではなく、人間はもともと一人では生きられない。一人では「人間」になることもできない。人々が支え合う関係性が不可欠であり、社会的諸関係の結節点として個人が生み出される。「支え合うフェミニズム」「シスターフッド」がそもそものフェミニズムだという。

河野は次に「二項対立は単調、何かを見落としている」として、二項対立的発想からの自由を説く。フェミニズムに限らず、どの思想も近代的な二元論の罠に陥りやすいので、要注意だ。

さらに河野は「多様性を越えて」と説く。「二項対立を越えて多様性へ」ではなく、「多様性を越えて」である。「多様性」は重要だが、多様性に縛られていないか。多様性の困難性を自覚する必要がある。

それゆえ、河野は「多様性を含み込んだインターセクショナリティ」という。「白人中産階級異性愛者のフェミニズム」を出発点としつつ、黒人フェミニズム、有色人種フェミニズム、障がい者フェミニズム、肥満フェミニズムなど多様な立場が、分断することなく、分断されることなく、翼を広げること。

こうして「想像力への想像力」に到達する。違いやわからなさを乗り越える想像力を身に着けるには、想像力の豊かさと限界の振れ幅への想像力が必要だ。

それでは「やわらかいフェミニズム」とは何か。

河野は「正解はない」と宣言する。「私の主張する<やわらかいフェミニズム>とはそういうものである。」そして「自分との対話を始めてほしい」という。

ここから本書の問いが始まり、執筆者たちはそれぞれの空間、立ち位置、歴史、人間関係を振り返り、自分に問いかける。

つまり、やわらかいフェミニズムは、定義されない。定義を求めない。まとまった思想や理論ではない。正解や結論を求めない。

ぶつかり、立ち止まり、悩み、自分に問いかけ、仲間と語り合う、そのプロセスこそフェミニズムである。

荒木菜穂は「モザイク模様のフェミニズム」において、「フェミニズムの複数性――面白さと、ややこしさ」を論じる。フェミニズムの目的はジェンダー構造の可視化と批判だが、それも労働、家庭、性、身体など関心領域によりさまざまでありうる。

「ジェンダーに縛られない個人の生き方を再定義」することも必要だが、「主体的な、欲望の実現のための女性たちの行動は、ジェンダー構造の追随や強化につながる」という。ダブルバインドに直面する。

フェミニズムの中での対立が生じるので、荒木は「フェミニズムとフェミニズム」と題して、対立の起源や、解消のための議論を瞥見する。行き着く先は「私のフェミニズム、あなたのフェミニズム」だが、単なる相対主義や個人主義ではない。「自分とは異なる事情を持った女性はどのように構造によって『作られ』『扱われて』きたのかの想像力を持つことこそ、フェミニズムのもっとも成熟した姿ではないだろうか」という。

シスターフッドにたどり着いて立ち止まるのではなく、シスターフッドを支える条件の解明、その動態と過程への参与こそが重要となる。フェミニストカウンセリングはケア・フェミニズムを要する。

正解はないが、正解を求める姿勢、態度、運動、過程、その継続こそ重要、というのは、ある種の逃げにも見えるが、一人ひとりの女性たちの経験に根差したフェミニズムでなければならない以上、モデルや正解が用意されていないのはむしろ当然なのかもしれない。

「やわらかいフェミニズム」という表題を見たときに、ただちに「かたいフェミニズム」はどのようなフェミニズムだろうか、と考える。だが、本書は「かたいフェミニズム」を論じない。

誰の、どのようなフェミニズムが「かたいフェミニズム」であるかがわかれば、それとの対比で「やわらかいフェミニズム」がわかりやすい、と思うのは、あらかじめ本書を誤解、誤読すると決まった読み方となるだろう。多彩で多面的なやわらかいフェミニズムの多様さに着目するべきなのだろう。

私とほぼ同世代の小川真知子が「多分私のシスターフッドの原型は『赤毛のアン』かなと。生涯で一番繰り返し読んだ本が実は『赤毛のアン』のシリーズで、三〇歳ぐらいまで結構繰り返し読んでいます。」という。アン、マリア、リンドのシスターフッドという観点で読み直すことができるという。

私も高校時代に友人の勧めで『赤毛のアン』を全巻読んだ。ちょうど、無頼派の太宰、安吾、織田作に嵌っていた時期だ。おまけにノーマン・メイラーやフォークナーに出会って、読みふけっていた時期でもある。

だから、無頼派やメイラーやフォークナーの世界――いわばブラザーフッドに満ちた世界と、ルーシー・モンゴメリの世界の違いに、驚嘆したことを記憶している。

私にとって、無頼派はともかく、メイラーやフォークナーの世界はむしろ人工的で、遠い世界と感じられたため、『赤毛のアン』のシスターフッドの方がなじみやすい感じがしたものだ。里中満智子から池田理代子、さらには岩舘真理子、山岸涼子、吉田秋生などへの関心につながるような気がする。本書では樹村みのり以後の「少女マンガ」が取り上げられている。

もっとも、当時、フェミニズムという言葉は知らなかった。

1980年代にフェミニズムを知り、著名なフェミニストの代表的な著作をいくつも読んだが、影響を受けるようになったのは1990年代半ばに日本軍性奴隷制(慰安婦)問題に取り組むようになって以後のことだ。

私はフェミニストではないが、直接影響を受けたのは、松井やより、西野瑠美子、大越愛子からだ。特に90年代から2000年代にかけて、授業でフェミニズムを取り上げる時は大越の著書を使っていた。

それとは別に国連人権機関に通い、国際人権法の文献に接するようになって以後、日本フェミニズムとは異なる、第三世界フェミニズム、最近の言葉ではサウス・フェミニストたちの議論に学んできた。

欧米の中産階級フェミニズムも重要な成果を上げてきたが、サウス・フェミニズムの緊張感と迫力はまさに現実を反映しているためだ。アフガニスタン・フェミニズムのRAWAもその好例だ。

日本フェミニズムはサウス・フェミニズムとは縁がないように見えるが、どうだろう。サウス・フェミニズムとやわらかいフェミニズムの間の対話はどのようにして成立するだろうか。

Sunday, November 06, 2022

緊急シンポジウム 統一教会の実態を徹底的に暴く

緊急シンポジウム

統一教会の実態を徹底的に暴く

山口広他『統一教会との35年の闘い』(旬報社)刊行記念

35年間の闘いの総括と今後の闘いの展望

安倍元首相銃撃事件を契機に、統一教会による深刻な被害の実態が赤裸々となってきている。そして、自民党と統一教会のズブズブの関係が暴露され続けている。

統一教会という、反社会・カルト集団は、解散させるしかない。

長年にわたって信者・被害者の訴訟・救済に取り組んできた「全国霊感商法対策弁護士連絡会」の弁護団(山口広・全国霊感商法対策弁護士連絡会・代表世話人ほか)と、統一教会と政治家の癒着を追って20余年のジャーナリストの鈴木エイトさんが、評論家・佐高信さんのコーディネートのもと、霊感商法の手口、統一教会の実態・歴史を全面的に明らかにし、今後の闘いの方向性を提言します。立法、司法、行政は何をなすべきかを探りましょう。                        

大変、興味深いシンポジウムとなります。

多くの参加者が見込まれます。定員250名で締め切りますので、至急、下記のメールアドレスまで、お申し込み下さい。

        記

●日時  122() 午後5時~(午後430開場)

●会場  衆議院第一議員会館・地下一階 大会議室 

*午後430分から、衆議院第一議員会館のロビーでスタッフが入館証の配布を始めます。

●主催  共同テーブル

 

●申し込み先 多くの参加者が見込まれます。定員(250名)になり次第、申し込みを締め切りますので、大変、恐縮ですが、なるべく早めに下記のメールアドレスまで、出席申し込みを、お願いいたします。

E-mail  e43k12y@yahoo.co.jp

●「共同テーブル」連絡先  

藤田高景 090-88085000 石河康国 090-60445729 

 

プログラム

1 コーディネーター  

佐高信(評論家)  

井筒大介(弁護士・全国霊感商法対策弁護士連絡会・事務局)

2 発言者 

山口広(弁護士・全国霊感商法対策弁護士連絡会代表世話人・初代事務局長)

鈴木エイト(統一教会と政治家の癒着を追って20余年のジャーナリスト)

郷路征記(弁護士・全国霊感商法対策弁護士連絡会代表世話人・統一教会の伝道手法を分析して35年)

川井康雄(弁護士・全国霊感商法対策弁護士連絡会2代目事務局長)

阿部克臣(弁護士・事務局)

木村壮(弁護士・事務局)

中川亮(弁護士・元新聞記者)

久保内浩嗣(弁護士・脱カルト協会事務局長)

元統一教会信者や信者二世(要請中)

3 質疑応答

4 まとめと閉会挨拶  

閉会 7時30分

Friday, November 04, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(210)法と言語2

韓娥凜「ヘイトスピーチに見られる『言葉のお守り』――排外主義団体の選挙演説の分析から」名嶋義直編『リスクコミュニケーション――排除の言説から共生の言説へ』(明石書店、2022年)

権力が発信する「リスクコミュニケーション」言説に内在する管理と排除の実践を批判する著作の第2章が選挙演説におけるヘイトスピーチの分析である。韓娥凜は京都外国語大学講師等、専門は社会言語学、批判的談話研究。

本書「おわりに」において次のように述べている。

「自分たちの立場を守るために、他者を排除し、リスク視する行為そのものが長期的には日本社会にとって本当のリスクであることを我々は忘れてはならない。この社会で共に生きる様々な構成員を『ウチ』の共同体として認め、二分化する見方に惑わされないよう心掛ける必要がある。」

1節 はじめに

2節 ヘイトスピーチをどのように分析するか

3節 選挙演説のヘイトスピーチで語られているもの

4節 「排除」と「差別」を正当化する論証構造

5節 ヘイトスピーチに向き合う「権力」の姿勢

6節 ヘイトスピーチによる「排除」にどう対抗するか

韓は、20194月の統一地方選挙の際の日本第一党の立候補者による選挙演説を分析し、「ウチ」と「ソト」の二分化、スローガンの使用、文末表現の特徴、曖昧表現等を抽出する。そのうえで、国民安全に危険・危機を与えるリスク存在化、経済・財政への負担(「在日特権論」のような)が用いられていることを確認する。

さらに、排外主義団体だけでなく、安倍晋三首相(当時)の発言を見ても、同様のレトリックが用いられているとし、政治権力と排外主義団体のコラボを指摘する。

ヘイト・スピーチは差別の一つであり、この国の差別は偶然起きる事象ではなく、構造的歴史的に形成されている。在日朝鮮人に対する差別は日本政府の政策によって推進されてきたのであって、在特会以前に、日本政府が差別の張本人である。

日本第一党の選挙演説だけを、他と切り離して分析すると、ヘイト・スピーチの実態を正しく把握できない。

韓は、日本第一党の演説を丁寧に分析するとともに、政権の姿勢がヘイト・スピーチを温存させ、悪化させていることに気付いている。

個々のヘイト・スピーチへの対処が必要なだけでなく、政権による差別をやめさせ、差別禁止法とヘイト・スピーチ処罰法を作ることによって、政府による差別と排外主義団体によるヘイトを終わらせなければならない。

Wednesday, November 02, 2022

東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会 第25回公開シンポジウム

 「東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会」主催(第6回年次総会)

第25回公開シンポジウム(沖縄開催)

「沖縄から東アジアの平和を問う!」

           

「東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会」主催の公開シンポジウム(第6回年次総会)を下記のような形で開催します。共通テーマは、「沖縄から東アジアの平和を問う!」です。多くの皆様方のご参加をお待ちしています。

 

期日:2022年1113日(日)14:00~17:00(開場13:30)

会 場:沖縄県男女共同参画センターてぃるる(沖縄県那覇市西3-11-1

資料代:500円(非会員のみ) 

※事前申し込みは不要です。

 

●プログラム●

 

Ⅰ 開会の挨拶(14001410) ※10分  与那覇恵子 (研究会共同代表)

   

司会者:木村 朗(鹿児島大学)(研究会共同代表)

 

Ⅱ 基調報告(1410154030

【第一報告】

西原和久(名古屋大学名誉教授、成城大学名誉教授)

「砂川闘争と東アジア共同体構想の課題・再考――アジア主義をこえて」

【第二報告】

谷山博史(元日本国際ボランティアセンター (JVC) 代表理事)

「戦争の足音が近づいている~土地規正法と『台湾有事』」

【第三報告】

東江日出郎(東北公益文科大学教員、研究会事務局長)

「マルコス外交の100日~ドゥテルテ外交の類似性と相違」

※休 憩   約10

 

Ⅲ 質疑討論(15501650

フロアから      ※60

 

Ⅳ 閉会のご挨拶(16501700※10

宮城恵美子(研究会執行委員)

 

【お問い合わせ】ご不明な点等がございましたら以下の事務局までお願いいたします。

木村朗:TEL090-2856-0955Mail:k6813082kadai.jp