榎透「権力の濫用――ヘイト・スピーチ規制を考える前に」『専修法学論集』144号(2022年)
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3 日本におけるヘイト・スピーチ対策の検証
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榎は、「公権力の濫用は、現在の日本でも実際に起こっていると考えられる」とし、「公権力の行使者は、具体的案件を解決するうえで必要であると考えるならば、それが有権解釈者の恣意性を疑われるものであるとしても、憲法や法令の解釈変更の可能性を追求する」(49頁)と言う。そして、ヘイト・スピーチ規制に飛びつく前に、こうした権力の性格を十分に理解しておくことも必要ではないだろうか。」(50頁)と主張する。
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国際社会では、ヘイト・スピーチ刑事規制の濫用の恐れについての議論は長年にわたって繰り返し行われてきた。常識の部類に属する。
日本ではヘイト・スピーチ刑事規制がなかったので、十分な議論が行われた訳ではない。その意味では榎の主張にも意味があるかもしれない。
ただ、それならば、ヘイト・スピーチ解消法以来の法状況に目を配るのが普通ではないだろうか。
私が榎の立場なら、最低限、次の点を検証するだろう。
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第1にヘイト・スピーチ解消法.
ヘイト・スピーチ解消法制定から7年になる。解消法は刑事規制を持たないが、ヘイト・スピーチ対策の基本姿勢を表明した。法制定以来、法務省はその見解を表明し、協議会を重ね、地方自治体との連携を強化してきた。警察庁もヘイト・スピーチの現場での対応方針を修正してきた。
それでは、「公権力の行使者は、具体的案件を解決するうえで必要であると考えるならば、それが有権解釈者の恣意性を疑われるものであるとしても、憲法や法令の解釈変更の可能性を追求する」といった事態が生じたであろうか。真っ先に議論すべきだろう。
榎はなぜこの点を検証しないのだろうか。
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第2に地方自治体条例における実名公表。
大阪市条例はヘイトを行った者の実名公表を定め、大阪市は実際にこれを適用・実施した。これに対して、実名を公表されたヘイト・スピーカーが「実名公表は憲法違反だ」と違憲訴訟を提起した。裁判所は「実名公表は違憲ではない」と判断した。
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第3に地方自治体における公の施設利用のガイドライン。
川崎市の協議会が施設利用ガイドラインを提言し、川崎市はガイドラインを作成した。京都府、京都市など各地の地方自治体もガイドラインを作成した(詳しくは前田『ヘイト・スピーチと地方自治体』参照)。ガイドラインの運用もすでに4~5年の実績を有する。
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第4に川崎市条例における刑事罰。
川崎市条例は、ヘイトを行った者に、勧告及び命令を出し、命令に従わなかった場合、つまり3度目のヘイトをした場合に刑事罰を適用する仕組みを作った。それから3年になる。
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第5にヘイト関連の名誉毀損訴訟判決。
この10数年、ヘイト関連の名誉棄損訴訟が増加している。個人に対する名誉毀損もあれば法人等に対する名誉毀損もある(詳しくは前田「ヘイト・スピーチの要素と類型」『明日を拓く』134・135号、2022年参照)。ヘイト・スピーチへの関心が高まり、重要事案は以前よりもはるかに多く報道されるようになった。このことが裁判実務に影響を与えただろうか。行政権ではなく、司法権の運用である。
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第6にヘイト・クライム刑事判決。
ヘイト・クライム事件が増え、刑事事件が広く報道され、ウトロ放火事件、コリア国際学園事件、徳島脅迫事件など、判決も相次いでいる。徳島脅迫事件では、法廷で検察官が「これはヘイト・クライムだ」と明言した。徳島事件は脅迫状によるヘイト・スピーチであり、ヘイト・クライムでもある。捜査、訴追、立証、判決の検証が必要だろう。
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以上のように、ヘイト・スピーチ対策にはすでに多くの実績があり、情報があり、公的決定があり、判決があり、権力による運用実態がある。
「公権力の行使者は、具体的案件を解決するうえで必要であると考えるならば、それが有権解釈者の恣意性を疑われるものであるとしても、憲法や法令の解釈変更の可能性を追求する」という榎理論を検証するための素材が山のようにある。
なぜ、榎はこれらの事例を検証しないのだろうか。
なぜ、榎は、あえてヘイト・スピーチ関連事案から目を背けて、集団的自衛権をめぐる解釈変更や、臨時会の招集要求の無視問題や、検察官の定年延長をめぐる解釈変更を取り上げるのだろうか。