Friday, April 04, 2014
ヘイト・クライムと闘う人々
中村一成『ルポ京都朝鮮学校襲撃事件』(岩波書店)
ヘイト・スピーチを2013年の流行語にすることになった事件の一つである2009年12月4日に始まる京都朝鮮学校襲撃事件を取材したルポである。著者は毎日新聞記者を経てフリーとなり、在日朝鮮人、移住労働者の人権や、死刑問題をテーマにしている。『年報死刑廃止』に、著者は死刑関連映画評を書き、私は死刑関係文献紹介を書いている。私が編集した『なぜ、いまヘイト・スピーチなのか』(三一書房)にもヘイト・スピーチの被害者の状況について書いてもらった。本書は雑誌『世界』に連載した記事をまとめたものだ。安田浩一『ネットと愛国』が加害者側の正体に迫る書だったのに対して、本書は被害者側の状況、被害、苦痛、思い、そして闘いを描き出す。
著者は、京都朝鮮第一初級学校の子どもたち、教員たち、父母たち、卒業生などに取材し、<12.4以後>を伴走・伴奏するように、ともに生きる。子どもたちを守るために必死だった教員たち。罵声を浴びせられ続けてトラウマになった教員や父母たち。事件から逃れ、日本社会から逃れたかった被害者たち。逃げても問題は解決しないので訴訟で闘うことを選んでいく過程。事件に対処せず放置した警察との闘い。刑事告訴を受理させる闘い。接近禁止の仮処分決定にもかかわらず押し掛けてくるレイシスト。これに対する間接強制の申し立て。そして、民事訴訟の闘い。教員たちと父母たちの闘いを法的に支えた弁護士たち。それらの様子が詳しく描かれている。レイシズムが吹き荒れ、ヘイト・クライムが「表現の自由」などという虚構の理屈で容認されてきた日本社会の現実を冷静に顧みるために、著者は取材を続けた。
「被害者たちの証言を聞き取り、差別とは人の尊厳を否定する重大な犯罪であると訴える。それが取材開始前の、そして初期の目的だった。だが、事件が残した傷はあまりに深かった。人はここまで残酷になれる。そしてこの社会では、人の『命』に斬りつける罵詈雑言が『表現の自由』として許容される。さらにはこの社会の多数者は、いまだもってこの行為に無関心を決め込んでいる。聴き取る私の内面でも、自分が生きる世界への信頼感覚が崩壊していった。」
それでも著者が伴走を続けたのは、そこに人間の尊厳を求めて闘い続ける人々がいたからである。著者は、その「覚悟と決断の足跡」を伝えようとする。レイシズムを批判し、乗り越える課題を、著者はともに闘い、日本社会に突き付ける。
レイシズムとの闘いの中心で立ち上がった金尚均(龍谷大学教授)は私にとっても尊敬する刑法学者だ。ここ数年、一緒にヘイト・クライム研究会を主宰してきた。弁護団の冨増四季、上瀧浩子、康仙華たちも研究会の仲間だ。著者も含めて、みな知り合いなので、顔を思い浮かべながら読んだ。あとがきには『ヘイト・スピーチとは何か』(岩波新書)の著者・師岡康子(弁護士)の名も登場する。
康仙華(弁護士)は朝鮮大学校法律学科卒業生で、弁護士になったとたんにこの事件が起きた。在日朝鮮人は、事件現場にいなかったとしても、実質的に被害者の一人でもある。被害者の視点で、法律論を研ぎ澄ますことができるだろう。
私も民事訴訟では「意見書」を書いて裁判所に提出させてもらったので、昨年10月7日の民事訴訟第一審・京都地裁の圧倒的勝利はわがことのように嬉しかった。著者もジャーナリスト冥利に尽きる一日だっただろう。
著者はこの4月13日昼に文京区民センターで講演することになっている。ヘイト・クライムと闘う人々に連なるために、4月13日は文京区民センターへ!