Saturday, February 28, 2015

テロリズムとファシズムの内部抗争

*「拡散する精神/委縮する表現(47)」
*『マスコミ市民』2015年2月号掲載(1月20日執筆)

テロリズムとファシズムの内部抗争

 「私はシャルリだ。表現の自由を守れ。あらゆるテロを許すな」――一月のパリで、リヨンで、マルセーユで、三〇〇万人の熱狂が燃えたぎった。
 一月七日、風刺週刊誌『シャルリ・エブド』襲撃事件に端を発するテロ事件で一七人の市民・ジャーナリストが亡くなった。事件に巻き込まれた人々、その家族・友人たちの深い悲しみははかり知れない。
 それでは「あらゆるテロを許すな」というパリの叫びはホンモノだろうか、ニセモノだろうか。前提となるべき事実を確認してみよう。
 第一に、西側先進諸国はこの十数年にわたってアフガニスタン、イラク、シリア等に空爆を行い数十万人のイスラム教徒を殺害し、数知れぬ難民を生みだしてきた。二〇〇三年のイラク攻撃に反対したフランスだが、二〇一三年にはマリ共和国で軍事作戦を展開し、現在は「イスラム国」に空爆を続けている。
 第二に、西側諸国にイスラモフォビアが蔓延し、イスラム教徒に対する差別が続いている。イスラム教徒はフランス国籍であっても二級市民の扱いを受け続けている。スカーフ禁止問題に見られるようにイスラムの文化に対する差別はあからさまである。
 第三に、今回の発端はマホメットをポルノ仕立てにした揶揄と伝えられている。だからと言ってテロ事件が正当化されるはずがないが、「殺人」だから非難されるべきであって、「表現の自由に対するテロ」などと言えるかどうかは慎重な検討が必要である。日本のマスコミも無条件に「表現の自由」と唱え、風刺漫画家を英雄扱いしている。しかし、宗教的動機に基づくヘイト・スピーチを犯罪としている国はいくつもある。イスラム攻撃を長年続けてきた『シャルリ・エブド』にはフランス政府から「自粛要請」が出されていたという報道もある。それにもかかわらず「挑発」を続けてきたのである。
 第四に、デモを呼びかけ、先頭に立ったのは誰か。「イスラム国」爆撃を指示したオランド大統領をはじめ、イギリス、ドイツ等の政治指導者である。
 安倍晋三首相はオランド大統領にあてて次のようなメッセージを送った。
パリで発生した銃撃テロ事件により、多数の死傷者が出たとの報に接し、大きな衝撃と憤りを禁じ得ません。このような卑劣なテロは如何なる理由でも許されず、断固として非難します。ここに日本国政府及び日本国民を代表し、全ての犠牲者及びその御家族の方々に心から哀悼の意を表すると共に、負傷者の方々に心からお見舞い申し上げます。この困難な時に、日本はフランスと共にあります」(外務省ウェブサイト)
 このメッセージによって安倍首相はオランド、オバマ、キャメロン、メルケルとともに「表現の自由」を守り、テロを許さない立場を国際社会に示した。
 しかし、アフガニスタン、イラク、シリア等への空爆と大量殺戮を非難することはなく、むしろ積極的に支持し、加担してきたのが安倍首相ではないだろうか。
 グローバル・ファシズムが世界を席巻し、軍需産業とその代理人が壟断している現在、権力者が言う「表現の自由」とは、戦争と略奪の自由であり、国家テロの開き直りにすぎない。「新植民地主義」と他者に対する侮蔑が手を携えている。マスコミが唱える「表現の自由」とは差別表現の自由であり、マイノリティに対する侮辱でしかない。イスラムに対する侮辱常習犯の『シャルリ・エブド』が果たしてフランス政治権力をどれだけチェックしてきただろうか。オランド等とともに「テロを許すな」と合唱する体制翼賛マスコミは何を守ろうとしているのか。
「あらゆるテロを許すな」と叫ぶマスコミは長年にわたって国家テロに加担してきたのではないか。
 「私はシャルリだ」と叫ぶことは「これからもマホメットを侮辱し、イスラムを貶めよう」と言っているのと、どこが違うのだろうか。

自由の名による抑圧、平和の名による空爆が強行されている世界で、三〇〇万人の熱狂が自由と民主主義の墓掘り人にならない保証はどこにもないだろう。

Friday, February 27, 2015

「私はシャルリではない。テロの挑発をやめよ」

『関西共同行動』ニュース67号(2015年1月31日)に掲載(1月15日執筆)

「私はシャルリではない。テロの挑発をやめよ」
--2015年をどう闘うか

 2015年は戦後70周年と日韓条約50周年であり、その節目を焦点として、すでに様々な情報が流れ、取り組みも始まっている。
他方、2015年の世界はパリ週刊誌襲撃事件という衝撃とともに始まり、フランスを先頭に欧州諸国では「表現の自由」の大合唱が沸き起こった。オランド大統領とフランス300万の熱狂は「私はシャルリ。表現の自由を守れ」と叫ぶ。日本でも政治家とメディアが興奮状態で「表現の自由」を唱えている。この状況をどう理解すべきであろうか。

なぜ彼らは差別表現の自由にしがみつくのか

戦後70周年、日韓条約50周年、パリ襲撃事件と「表現の自由」の大合唱--ここで問われていることは別々の事柄ではなく、<現代帝国主義>と<新植民地主義>というキーワードで繋がっている。グローバル・ファシズムが世界を席巻する現在、権力者が持ち出す「表現の自由」とは、戦争と略奪の自由であり、国家テロの開き直りにすぎない。「新植民地主義」とレイシズムが手を携えている。
パリ襲撃事件後ただちに安倍晋三首相はオランド宛に「卑劣なテロは如何なる理由でも許されず、断固として非難します。日本はフランスと共にあります」というメッセージを送った(外務省ウェブサイト参照)。
なるほどテロは許されない。それではオランドがイスラム教徒に加えている国家テロを安倍首相はなぜ非難しないのか。フランスは2003年のイラク攻撃に反対したが、アフガニスタンやシリアに対する空爆を支持し、2013年にはマリで軍事作戦を展開し、現在「イスラム国」を空爆している。今やラ・マルセイエーズは「イスラム虐殺行進曲」に他ならない。
安倍首相は、オランドと手をつないで「私はシャルリ」と叫ぶキャメロンやメルケルの国がイスラム教徒を虐殺し、厖大な難民を生みだしたことをなぜ非難しないのか。
フランスでは、スカーフ禁止問題に見られるようにイスラム文化に対する差別がはびこっている。イスラム教徒はフランス国籍であっても二級市民の扱いを受けているのに、安倍首相はなぜ「フランスと共にある」のか。
答えは明快である。オランドと安倍の共通点--それが現代帝国主義と新植民地主義であり、排外主義とレイシズムである。
パリ襲撃事件はフランスを「被害者」にした。これでかつてのフランスによる植民地支配や現在の人種差別から目をそらすことができる。フランスによる虐殺と迫害を「表現の自由」と「民主主義」の美名の下に隠すことができる。
安倍首相が「フランスと共にある」のは、日本帝国主義の侵略と植民地支配を隠蔽し、朝鮮半島や中国に対する差別を正当化し、集団的自衛権をごり押しし、軍拡路線を歩むためである。2015年度予算案において防衛費は4年連続の増額となり、オスプレイ購入までがもくろまれている。

宗教的ヘイト・スピーチを擁護してはならない

安倍首相だけではない。マスコミの多くが「表現の自由」を呼号している。一応は各社とも、風刺漫画が行き過ぎているのではないかとか、イスラム側が反感を抱いていることを指摘はする。だが、その指摘の仕方は、表現の自由を「普遍性」とみなし、イスラム側の反感を「特殊性」に押し込み、感情論で片付けるやり方である。
世界の多くの国々で「宗教的ヘイト・スピーチ」が犯罪とされていることを伝えたのは『東京新聞』(1月14日付「こちら特報部」)だけで、他のマスコミは事実を隠ぺいしながら「表現の自由」を語る。
イスラムだけではなく、キリスト教国家でも宗教的ヘイト・スピーチを処罰する例は多数ある。リヒテンシュタイン刑法第283条は次の行為を2年以下の刑事施設収容としている。①宗教を理由とする、人又は人の集団に対する憎悪又は差別の公然煽動。②宗教集団メンバーを組織的に軽蔑又は中傷するイデオロギーの公然流布。ポーランド刑法第256条及び第257条は国民、民族、人種及び宗教の差異、又はいかなる宗派にも属さないことのために、公然と憎悪を煽動することを犯罪としている。
ところが、パリ襲撃事件の興奮状態の中で、宗教的ヘイト・スピーチを表現の自由と強弁する感情論が支配している。
マスコミが唱える「表現の自由」は差別表現の自由であり、マイノリティに対する侮辱である。「ヘイト・スピーチは許されない。しかし、表現の自由が大切だ」と称して、ヘイト・スピーチ規制に反対し、実際にはヘイト・スピーチに加担してきたのがマスコミである。マイノリティの表現の自由を無視して、マジョリティの差別表現の自由を謳歌してきた。
 「私はシャルリだ」と叫ぶことは「マホメットを侮辱しよう。イスラムを貶めよう」と言っていることに他ならない。

東アジアに平和の海をつくるために

 2015年の日韓条約50周年に寄せて、私たちは「日韓つながり直しキャンペーン2015」という運動を発進させた。植民地犯罪の実相を解明し、植民地責任を問う視座を確立し、戦後補償の前進をはかりたい。
戦後70周年に向けて、安倍政権は「安倍談話」なるものを発表するとしている。日本の植民地責任に言及した村山談話や、日本軍「慰安婦」問題に関する河野談話を骨抜きに資、棚上げするための策動である。安倍談話に抗するため、機先を制した朴談話や習談話を求めることも必要である。それ以上に私たち市民レベルの宣言をまとめて行くことが重要である。
 ここ数年続いているヘイト・スピーチについて、国会では人種差別禁止法を制定しようという動きがあり、地方自治体からも法制定を求める決議が相次いでいる。人種差別撤廃委員会を初めとする国際人権機関からの勧告を受け止めて、日本社会自身が差別に向き合い、ヘイト・スピーチを克服していく努力が必要である。
 東アジアに平和の海をつくるために、関係各国の信頼醸成と相互交流の深化が必要である。市民レベルでは歴史認識や領土問題に閉ざすことなく、より開かれた議論を通じて相互批判と相互理解を積み重ねることが大切だ。

(参考)日韓つながり直しキャンペーン2015

http://nikkan2015.net/

国連人権理事会諮問委員会14会期(3)

小雨の27日午前、諮問委員会は本会期の決定を採択して、閉会した。

決定1は「スポーツとオリンピック精神」で、2013年以来の審議経過を確認の上、諮問委員会が提出したレベデフ委員の進展報告書を留意し、報告書起草委員会に次の報告書を人権理事会30会期に提出するように要請した。

決定2は「地方政府と人権」で、やはり2013年からの審議経過を確認の上、エルサダ委員の最終報告書を留意し、報告書起草委員会に最終報告書を人権理事会30会期に提出するように要請した。

決定3は「禿鷹ファンドと人権」で、今回新たに審議を始めたことを受けて、起草委員会(委員長スーフィ、報告者ジーグラー等)を選出し、起草委員会に報告書を諮問委員会15会期及び人権理事会31会期に提出するよう要請した。


その後、新しい議題の候補についての審議経過を確認して、諮問委員会は閉会した。次の15会期は2015年8月10~14日の予定である。

大阪市ヘイト・スピーチ審議会答申を読む(2)

 大阪市ヘイト・スピーチ審議会答申を読む(2)

1 「基本的な考え方」について

1-1 「基本的な考え方」の構成

答申の「Ⅰ 基本的な考え方」は次のような構成である。

基本的な考え方
(1) 対象者
属性
範囲
(2) 目的
(3) 表現の内容及び場所・方法
1-2 基本認識と姿勢

まず気が付くのは、「1 目的」の前に、検討部会報告にはなかった次の8行ほどの文章が置かれていることである。
「特定の民族や国籍の人々を排斥する差別的な言動がいわゆるヘイト・スピーチであるとして社会的関心を集めているが、こうした言動は、人々に不安感や嫌悪感を与えるだけでなく、人としての尊厳を傷つけ、差別意識を生じさせることにつながりかねないものである。/大阪市では、在日韓国・朝鮮人をはじめ多くの外国人が居住している中、市内において現実にヘイト・スピーチが行われているといった状況にあり、大阪市は、市民の人権を擁護すべき基礎自治体として、ヘイト・スピーチに対して独自で可能な方策をとることで、ヘイト・スピーチは許さないという姿勢を明確に示していくことが必要である。」
重要なのは、ヘイト・スピーチが「人としての尊厳を傷つけ、差別意識を生じさせることにつながりかねないものである」という認識、②「市内において現実にヘイト・スピーチが行われているといった状況」認識、③「ヘイト・スピーチは許さないという姿勢を明確に示していくことが必要である」という認識である。
検討部会報告にはこうした基本姿勢の表明がなかったので疑問を指摘しようと考えていたところ、答申は基本姿勢を明示した。検討部会報告に対する市民やメディアからの反応を踏まえたものであろうか。とりわけ、1月29日には市民から「ヘイト・スピーチの規制に関する条例(案)」が提出されるなど、「ヘイト・スピーチを許さないという姿勢」を示す必要性をいっそう強く感じさせることになったものかもしれない。答申がこのような基本姿勢を表明したことは高く評価できる。こうした姿勢の表明が答申の内容にどのように活かされているのかが注目される。

1-3 目的

 答申はその目的を「市民等の人権擁護」とし、「基礎自治体である大阪市がヘイト・スピーチに関して方策をとる目的については、ヘイト・スピーチにより被害を受けた市民又は市民の属する集団(以下「市民等」という。)の擁護とするのが適当である」とする。
 その説明として、「基礎自治体である大阪市がヘイト・スピーチに関して方策をとる目的については、『大阪市人権尊重の社会づくり条例』に基づき人権尊重の社会づくりを推進している現状を踏まえ、ヘイト・スピーチを行っている者(以下「表現発信者」という。)に対する義務付けその他の規制をするという観点よりも、市民等の人権を擁護するという観点からの仕組みづくりを基本とするのが適当である。」とする。
 疑問点を2つ指摘しておこう。

 第1に、2000年4月1日施行の大阪市人権尊重の社会づくり条例には、その前文に「社会的身分、門地、人種、民族、信条、性別、障害があること等に起因する人権に関する様々な課題が存在して」いるとの認識を示しつつも、第2条では「市の責務」として「本市は、すべての人の人権が尊重される社会を実現するため、国及び大阪府との連携を図りながら、市政のあらゆる分野において必要な施策を積極的に推進するものとする」と記述するにとどまる。つまり、同条例は人種差別・民族差別を予防・抑止するとか、差別が行われた際の責任を明らかにすることまでを含んでいない。同条例が人種差別・民族差別を撤廃するための政治意思や措置を含んでいないとすれば、同条例を前提にして、人種差別・民族差別の中の悪質な現象であるヘイト・スピーチに果たして的確に対処できるであろうか。

 第2に、「ヘイト・スピーチを行っている者(以下「表現発信者」という。)に対する義務付けその他の規制をするという観点よりも、市民等の人権を擁護するという観点からの仕組みづくりを基本とするのが適当である」と言うが、答申は人種差別撤廃条約第2条をどのように理解しているのであろうか。
日本政府が批准している人種差別撤廃条約第2条第1項は「締約国は、人種差別を非難し、また、あらゆる形態の人種差別を撤廃する政策及びあらゆる人種間の理解を促進する政策をすべての適当な方法により遅滞なくとることを約束する」としたうえで、(a)(d)で次のように述べている。
「(a)各締約国は、個人、集団又は団体に対する人種差別の行為又は慣行に従事しないこと並びに国及び地方のすべての公の当局及び機関がこの義務に従って行動するよう確保することを約束する」。
「(d)各締約国は、すべての適当な方法(状況により必要とされるときは、立法を含む。)により、いかなる個人、集団又は団体による人種差別も禁止し、終了させる」。
「地方のすべての公の当局」、それゆえ大阪市には「すべての適当な方法により、いかなる個人、集団又は団体による人種差別も禁止し、終了させる」義務に従って行動することが求められるのではないだろうか。ヘイト・スピーチは人種差別撤廃条約第1条が定義する「人種差別」の一つではないのだろうか。このように考えれば、「ヘイト・スピーチを行っている者に対する義務付けその他の規制をするという観点」を軽視する答申には疑問が残る。
 このことは検討部会報告の「はじめに」において、人種差別撤廃条約第4条(a)(b)の適用を日本政府が留保している事だけに注目し、日本政府が人種差別撤廃条約を批准したこと、条約第1条が人種差別の定義を行っていること、条約第2条が政府(地方政府も含む)の責務を定めていることに無関心であったことと関連する。
 条約第2条が地方政府の責務を定めているとしても、条約の履行を約束したのは中央政府であり、地方政府にはその限りでの条約尊重が求められるに過ぎない。すなわち、日本政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書の審査に際して、人種差別撤廃委員会から質問を受けるとか、勧告を受ける時に、地方政府に関する事項も取り上げられるという意味である。地方政府の行政すべてに直ちに条約が適用されるという趣旨ではない。
 とはいえ、大阪市は、大阪市人権尊重の社会づくり条例を制定しているのであるから、その解釈・適用にあたって人種差別撤廃条約の条項を参照することは可能である。まして、大阪市人権尊重の社会づくり条例前文は国際社会における人権尊重の潮流を積極的に受け止めることを表明していたのである。
 検討部会報告が明記していた「人種差別撤廃条約第4条(a)項・(b)項を政府が留保している状況」という文言を答申は削除した。それと同時に、答申は人種差別撤廃条約への言及そのものを消してしまった。国際自由権規約第20条2項への言及もない。地方自治体の答申において条約に言及することで、余計な理論的問題を検討しなければならなくなる煩雑さを避ける趣旨であろうか。それとも、人種差別にしっかりと向き合って、これに対処する姿勢を持っていないことの現れであろうか。
 
1-4 定義

 答申は「定義」として次のように述べている。
 「ヘイト・スピーチの定義
ヘイト・スピーチの定義については、次の(1)から(3)までの要件の全てに該当する表現行為とすることが適当である
(1) 対象者
 人種又は民族に係る特定の属性を有する個人又は集団
(2) 目的
 目的が次のいずれかであること
社会からの排除を目的とするものであること
権利・自由の制限を目的とするものであること
明らかに憎悪若しくは差別の意識又は暴力を扇動することを目的とするものであること
(3) 表現の内容及び場所・方法
表現内容が対象者を相当程度侮蔑し若しくは誹謗中傷するもの又は対象者に脅威を感じさせるものであり、かつ、一般聴衆が受動的に内容を知りうるような場所や方法によって表現されるものであること」
 いくつか順不同でコメントしておこう。

 第1に、ヘイト・スピーチの定義を正面から掲げる努力を行ったことは高く評価できる。答申を行うのであるからヘイト・スピーチを定義しなければならないことは当たり前のことであるが、これまでヘイト・スピーチには明確で共有された法的定義がないことが知られている。
ヘイト・スピーチという用語を使うかどうか注目された京都朝鮮学校襲撃事件民事訴訟一審の京都地裁判決及び二審の大阪高裁判決がヘイト・スピーチという言葉を用いなかったのは、私の考えでは、判決においてこの言葉を使うためにはそれなりの定義を示す必要があり、確定的な法的定義がない現状であえてこの言葉を示して、定義論争に入り込むことは事案の解決にとってメリットがないと判断されたためであろうと思う。
 また、私が調べた限りでは、国際社会における100か国以上の刑事立法において人種的優越性の主張の処罰や、差別の煽動の処罰規定があり、いずれもヘイト・スピーチ規定と理解されているが、実は法文上はヘイト・スピーチという文言は使われていない。英米にはヘイト・クライム法はあるが、ヘイト・スピーチ法と称する法律はない。
 人種差別撤廃委員会が2013年9月に採択した一般的勧告第35号は「人種主義的ヘイト・スピーチと闘う」というタイトルを掲げているが、それ以外の多くの国際文書においても、(この言葉は随所で使われているとはいえ)キーワードとして、あるいは法律用語として定着しているとは言えない。
 こうした現状を前に、答申はあえてヘイト・スピーチを定義する。地方自治体における初めての答申が、定義困難を理由に定義を回避するのではなく、一定の定義を提示して見せたことは評価できる。

 第2に、定義の内容である。答申は、(1) 対象者、(2) 目的、(3) 表現の内容及び場所・方法の3つを示し、「(1)から(3)までの要件の全てに該当する表現行為」としている。ただちに、いくつかの疑問が浮かぶ。まず重要なのは「表現行為」という規定である。ヘイト・スピーチをどのように訳すかも確定的ではないが、憎悪表現とするにせよ差別煽動表現とするにせよ、スピーチであるから言論なり表現なりの文言を使うことになるのは当然と言えば当然である。しかし、この間、ヘイト・スピーチについて議論する際に必ず引き合いに出されている京都朝鮮学校襲撃事件は「表現」だろうか。確かに「表現」も含まれるが、実行行為者たちの一連の行動は「表現」ではなく、「表現をも含んだ差別、威嚇、暴力」であった。刑事事件では威力業務妨害罪と器物損壊罪の有罪が確定している。ヘイト・クライムトヘイト・スピーチの関係をどう理解するかについても必ずしも国際的な共通理解ができ上がっているわけではないが、私の考えでは、ヘイト・スピーチは「ヘイト」という重要な特質においてヘイト・クライムと共通の実行行為であって、ヘイト・クライムの一部を成す。「ヘイト・クライムとしてのヘイト・スピーチ」である。私見とは異なって、ヘイト・クライムトヘイト・スピーチを別物として切り離す見解もある。そこではヘイト・スピーチを純粋に表現行為とする理解にも根拠がありうるかもしれない。しかし、人種差別撤廃条約第4条(a)が掲げる行為類型から言って、ヘイト・スピーチを差別表現だけに収斂させることは説得力がないと言うべきであろう。
 答申は「ヘイト・スピーチの定義としては、演説などの発言行為に限定するのではなく、出版、寄投稿、インターネットの動画サイトへの掲載、示威行動、掲出、頒布その他一切の『表現行為』」として、示威行動を例に挙げているので全く無頓着と言うわけではないが、「その他一切の表現行為」が「表現を含みさえすればすべて該当するのか」について言及がない。
 以上のことは、答申の定義がヘイト・スピーチを「(1)から(3)までの要件の全てに該当する表現行為」としつつ、人種差別撤廃条約第4条(a)が提示する4つの行為類型に即した議論を経ていないことにも関連する。答申の定義はヘイト・スピーチを単一の表現行為として規定している(目的に応じた区分けについては後述)。しかし、人種差別撤廃条約や世界の立法例を見る限り、ヘイト・スピーチは単一の行為ではなく、実に多様な行為類型を含む。例えば、「ジェノサイドの煽動」や「人道に対する罪としての迫害」の一部の行為はヘイト・スピーチの極限形態と言える。ヘイト・スピーチは、単なる名誉毀損類型や差別表現にとどまらない。答申はこうした点の検討を怠ったのではないだろうか。「ヘイト・スピーチは表現である」という過度に単純化した思考ではヘイト・スピーチに対処することはできないのではないだろうか。 
 第3に、対象者について、答申は「人種又は民族に係る特定の属性を有する個人又は集団」としている。検討部会報告では「『人権侵害を受けた市民等の擁護』という目的からすると、その対象は人種、民族による差別に限定されるものではないが、大阪市内でヘイト・スピーチが行われている現実を踏まえ早急に具体的な方策を講じていくことが求められて」いるので、まずは人種と民族から始めると述べられていた。答申は同じことを述べつつ、ヘイト・スピーチの対象者について「属性」と「範囲」に分けて概説している。
(1)「属性」としているのは、国際的な立法例では一般に犯行の動機、差別の原因として示されていることと同じである。「人種、民族、国民的出身、宗教などを動機として」といった立法例が知られる。動機としては言語、宗教、政治的意見、性別、ジェンダー・アイデンティティ等々があるが、答申が、当面は人種と民族から始めると言うのは理解できないことではない。
(2)次に「範囲」であるが、答申は「特定の個人に向けられたものだけではなく、一定の集団に属する者全体に向けられたものについても、名誉毀損などの特定人の具体的な損害が認められるか否かを問わず対象とすることが適当である」とする。個人のみならず集団をも対象に含んでいるのは高く評価できる。ヘイト・スピーチに対処するには必須の事項だからである。日本刑法では名誉毀損罪にしても侮辱罪にしても個人だけが被害者になりうると解釈されているため、個人を直接標的としていない場合に立件することができないとされてきた。この点、答申は、刑事事件としてではなく、行政措置を講じるための前提として、「範囲」を個人だけでなく集団に広げている。

第4に、目的である。検討部会報告は、「意図・目的」として「社会からの排除や権利・自由の制限、又は明らかに憎悪若しくは差別を煽動することを目的とする表現行為」としていた。答申はこれを再整理して、アイウの3つの目的を列挙した。これは限定的列挙であろう。答申は「目的については、憲法上保障されている表現の自由との関係を考慮して単なる批判や非難は対象外と」すると述べ、アイウの場合は憲法上細法されている表現の自由を考慮しても、一定の措置の対象とすることが許されるとしている。この点も高く評価すべきである。「表現の自由」と言って思考停止してきたこれまでの議論と異なり、答申は、何が表現の自由として保障されるべきであるのかを的確に判断しようとした。なお、ここでも検討すべき課題がいくつも浮かび上がる。
(1)まず、検討部会報告は「意図・目的』としていたのを、答申は「目的」に絞った。その理由は示されていないが、「意図」については、2001年の人種差別撤廃委員会における日本政府報告書審査に際して注目が集まった。その前年に石原慎太郎・東京都知事(当時)が行った「三国人」発言が人種差別撤廃委員会の関心を引いた。その際、日本政府は「石原都知事には差別を煽動する意図がなかった」という弁明・用語をして、人種差別撤廃委員会を驚かせた。委員会は「意図の有無と差別の煽動の成否は関係ない」という立場を明示した。「意図がなければ差別発言をしてもよい」などという解釈は到底受け入れられない。答申がこのことを踏まえて「意図」を削除したのであれば、評価に値する。
(2)次に「目的」である。答申の立場はヘイト・スピーチを「目的犯」類型と構成するものである。検討部会報告がすでにこの立場を採用していたので、答申は意図を削除しつつ目的に絞ったようである。しかし、疑問である。国際自由権規約第20条2項も人種差別撤廃条約第4条も、ヘイト・スピーチを目的犯とはしていない。差別の唱道や差別の煽動が行われればヘイト・スピーチが成立する。差別の唱道の目的や差別の煽動の目的があって初めて成立するのではない。目的犯とすると、実行行為者が当該目的を有していたことを刑事裁判において検察側が立証する必要が出てくる。実際には状況証拠や実行行為の内容から言って、実行行為者に当該目的があったことが明白な場合が多いだろうが、そうではない事案では目的犯とすることによって実行行為者(被告人)の弁明に過度に広い余地を与えることになる。それゆえ、世界の大半の刑事立法はヘイト・スピーチを端的に行為犯(ただし結果なり具体的危険の発生を要することが多い)としている。答申はヘイト・スピーチを刑事犯罪としないのであるから、わざわざ目的による縛りをかける必要はないのではないか。実行行為者の主観面である目的による分類は多様な解釈の余地を残すので、むしろ実行行為の客観的分類を行うべきであったのではないだろうか。

 第5に、答申は「表現の内容及び場所・方法」として、「表現内容が対象者を相当程度侮蔑し若しくは誹謗中傷するもの又は対象者に脅威を感じさせるものであり、かつ、一般聴衆が受動的に内容を知りうるような場所や方法によって表現されるものであること」を掲げる。
(1)前段の「表現内容が対象者を相当程度侮蔑し若しくは誹謗中傷するもの又は対象者に脅威を感じさせるものであり」を掲げている点は理解できるが、次のような疑問も浮かばないわけではない。「表現内容が対象者を相当程度侮蔑し若しくは誹謗中傷するもの」であるならば、侮蔑罪や名誉棄損罪が成立するのではないか。少なくともこれらが成立する場合が含まれるのではないか。そうであれば、その場合に大阪市としてとるべき措置は何なのかを明示するべきであったのに、それが示されていない。「『相当程度』の判断基準を明確に規定することは困難であり抽象的な表現とならざるを得ず、個別の事案ごとに判断することになる」としているので、個別判断を待つしかないのだろうか。
(2)後段の「一般聴衆が受動的に内容を知りうるような場所や方法によって表現されるものであること」に言う「受動的」とは何を意味するのであろうか。従来の法的思考では、名誉毀損罪や公然わいせつ物陳列罪などにおける「公然性」の要件の下で考えられてきたものを、「受動的に内容を知りうる」に変更する実質的理由が示されていない。答申は「表現の場所や方法については、公共の場所での表現行為と不特定多数の者の閲覧に供する行為等が考えられる」として、「公共の場所(道路、公園、施設等)での表現行為」(集団示威運動、街宣、ビラの配布、ポスター、幕等の掲出)、「不特定多数の者の閲覧に供する行為等」(新聞、雑誌への掲載、インターネット動画サイトなどへの掲載、DVD等記録媒体の配布)を例示しているが、これらは従来からの公然性の要件(不特定多数)と変わらないのではないだろうか。ここで論じるべきは、インターネットへのアクセス行為である。「受動的」という文言は削除してもよいのではないだろうか。
 なお、国連人権高等弁務官事務所主導で作成された「ラバト行動計画」の準備過程におけるウィーン・セミナーで調査報告によると、欧州のヘイト・スピーチ規定のほとんどすべてが公然性を要件としている。ただし、フランス、ノルウェーなど一部であるが公然性を要件としない刑罰規定も登場している。

(3)答申は「なお、会員のみ参加できる集会など、限定した参加者に向けた表現行為は対象外であり、一般聴衆が受動的に発信内容を知りうる状態にあるかが判断の基本となるが、具体的には個別の事案ごとに判断する必要がある」としている。一見するともっともな判断であるが、これで近時のヘイト・スピーチの現実に対処できるかは疑問が残る(この点は公共施設利用問題の箇所で再論する)。

Thursday, February 26, 2015

大阪市ヘイト・スピーチ審議会答申を読む(1)

1 答申に至る経緯

2015年2月25日、大阪市のヘイト・スピーチ審議会答申が公表された。

その経緯は、2014年9月3日、橋下徹大阪市長が大阪市人権尊重の社会づくり条例第5条第1項に基づいて、「『憎悪表現(ヘイト・スピーチ)』に対する大阪市としてとるべき方策」について、大阪市人権施策推進審議会(会長・坂元茂樹)に諮問したことに始まる。

同年10月3日、同審議室の下に置かれた「『憎悪表現(ヘイト・スピーチ)』に対する大阪市としてとるべき方策検討部会(部会長・川崎裕子)」(以下「検討部会」)が第1回の審議を行い、その過程で、2014年12月19日に、同審議室の審議もなされ、全体方針が了解のうえで、2015年1月16日、第6回検討部会において報告(案)として、「『ヘイト・スピーチに対する大阪市としてとるべき方策について』の大阪市としてつるべき方策検討部会報告(案)」がまとめられた。

続いて、2月10日、大阪市人権施策推進審議会で答申がまとめられ、2月25日、「ヘイト・スピーチに対する大阪市としてとるべき方策について(答申)」(大阪市人権施策推進審議会(平成27(2015)年2月)、会長・川崎裕子)が大阪市長に提出された。

*答申は「ヘイトスピーチ」としているが、以下「ヘイト・スピーチ」という表記に統一する。


2 答申の構成

答申は次のような3部構成である。
Ⅰ 基本的な考え方
Ⅱ ヘイト・スピーチに対してとるべき措置の内容
Ⅲ 措置をとるにあたっての手続き

「検討部会報告」を受けてまとめられた答申であるが、記載内容を見ると、検討部会報告を基本的に引き継いでいるものの、一部において異なる点、一歩踏み込んだと読める点がある。
例えば、アジア・太平洋人権情報センターのウェブサイトに掲載されたコメントでは、「審議会の検討部会が116日にまとめた答申(案)では『ヘイトスピーチを理由として公の施設の利用を制限することは困難』であると市の施設の利用制限を見送っていたが、答申では『現行条例(各施設の管理条例)の利用制限事由に該当することが明らかに予見される場合は利用を制限することもあり得る』と追記」という指摘がなされている。

 以下では、こうした指摘をも踏まえながら、答申について、日本国憲法や国際人権法の観点で評価を加えることにするが、検討部会報告と答申の異同もこの観点と関連すると思われる。


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*検討部会報告の特徴

1 検討部会報告「はじめに」

2015年1月の検討部会報告では、冒頭に「はじめに」が置かれていたが、答申では削除されている。「はじめに」の内容が否定された趣旨ではなく、本文に盛り込まれたと理解することも可能であるが、検討部会報告と答申の「温度差」を反映しているとも読める。そこで、検討部会報告「はじめに」の内容を確認しておこう。答申の内容の検討は次回から始める。

検討部会報告「はじめに」は3つの段落から成る。
(1)第1段落は、ヘイト・スピーチについて「政府や国家においても法律の制定尾含めた様々な観点から検討が進められている」が、「基礎的自治体である大阪市としてとるべき具体的な方策について、憲法で保障されている『表現の自由』との整合性や行政が行い得る措置等に関わる憲法、行政法等の観点も含め」、「専門的な検討を進めた」という。
(2)第2段落では、検討に際して、大阪市人権尊重の社会づくり条例を踏まえ、「人種差別撤廃条約第4条(a)項・(b)項を政府が留保している状況」、「最高裁判所などヘイト・スピーチをめぐる諸般の状況」も踏まえたことが記されている。
(3)第3段落では、諮問事項に記載された「憎悪表現」という表現は「ヘイト・スピーチの正式な日本語訳ではなく、ヘイト・スピーチと言う表記がすでに一般化している」として、「ヘイト・スピーチ」という表記を採用すると断っている。

2 若干の感想

(1)検討部会報告「はじめに」はA4判の3分の2ほど、500字程度の文章であり、特段の記述がなされているわけではない。第1段落は、諮問を受けて、どのような姿勢で審議したかの経過説明である。第2段落は、審議の前提となる法令を確認している。第3段落は、用語の確認である。しかし、ここにも検討部会報告の特徴はすでに表れている。
(2)第1段落に「表現の自由」が登場しているのは、その最大の特徴と言えよう。日本の議論では「ヘイト・スピーチと言えば表現の自由」であり、「ヘイト・スピーチの規制か、表現の自由の保障か」という奇怪な二者択一が提示されてきた。まともな議論にならない理由の一つである。国際人権の舞台では「ヘイト・スピーチの規制と表現の自由は矛盾しない」ことが常に指摘されているが、日本では根拠を示すことなく「矛盾する」と決めつけてきた。検討部会報告も同じ姿勢を冒頭に表明しているといえよう。そして、「表現の自由」以外の憲法上の自由と権利には具体的に言及しない。このことの持つ意味は、本論を見ることで明らかになるだろう。この点は答申にどのように引き継がれているであろうか。

(3)もう一つの大きな特徴は、第2段落において「人種差別撤廃条約第4条(a)項・(b)項を政府が留保している状況」と指摘している点である。これは事実を述べたものであって、特に異とするに足りないように思われるかもしれないが、そうではない。第1に、政府が人種差別撤廃条約を批准したこと。第2に、人種差別撤廃条約第1条、第2条、第7条など、関連する重要な条項があり、それらを留保していないこと。第3に、日本政府は「人種差別撤廃条約第4条(a)項・(b)項」を留保しているが、第4条柱書(本文)及び第4条(c)項を留保していないこと。これらのことが持つ意味を十分検討する必要があるが、検討部会報告はその必要性を感じていないようである。この点も、本論を見ていくことで明らかになるだろう。この点は答申にどのように引き継がれているであろうか。

平和への権利作業部会・非公式ミーティング

26日は曇り空だったが、南の空だけ青空で、国連欧州本部中庭からモンブランが良く見えた。この時期には珍しい、くっきりしたモンブランだ。
26日午後、国連欧州本部で、国連人権理事会の平和への権利作業部会のNGOとの非公式ミーティングが開催された。10日ほど前に急に案内があったもので、23日にジュネーヴに来たから参加できた。
冒頭に作業部会長のクリスチャン(コスタリカ大使)から経過説明があった。諮問委員会案を受けて作業部会を立ち上げて以後の、各国政府との交渉の経過、反対する諸国(アメリカ、日本、EUのこと)との協議の結果、そして諮問委員会草案から大幅に後退した宣言案になっていること、市民社会からの応援が必要であることなど。
カルロス(スペイン国際人権法協会)は、軍縮、平和教育、抵抗権、民間軍事会社、発展の権利などサンティアゴ宣言から削除された条項を列挙して、これでは平和への権利の本来的意義を損なうことを改めて強く訴えた。
国連女性大学連盟のメンバーは、作業部会の手続きは透明性が一応確保されているものの、政府間交渉の経過が見えないため、NGOとしての関与が難しくなっていることを指摘した。
ダヴィド(コスタリカ政府)が補足説明で、原状の案は短縮されているが、包括的な条項を入れることによって、反対国の批判をかわしていることを説明した。ダヴィドはもともとカルロスの弟子でNGO宣言の推進役だったが、現在はコスタリカ政府の一員として公式発言。
ある男性(NGO名はわからない)が、平和構築や平和教育など国連が力を入れてきたテーマを中心に提示すれば、反対が減るのではないかと述べた。
初めて参加したという女性が、環境問題、気候変動問題と絡めて各国を巻き込んではどうかと述べた。これまでの経過を知らないというので、クリスチャンが改めて少し説明していた。
私は、1973年9月7日の長沼訴訟の札幌地裁判決を紹介し、当時、札幌の高校生だったので初めて平和的生存権という言葉を知ったことから始め、その後、2008年の名古屋高裁判決、2009年の岡山地裁判決により、裁判所が法規範として平和的生存権を適用していることを紹介し、国際人権法の発展にとっても重要であると述べ、国連宣言にはright to live in peaceright to life in peaceを入れるように要請した。クリスチャンは、コスタリカの憲法裁判所判決に触れて、各国の実例は非常に重要だとしつつも、日本とコスタリカだけで世界は動かないという姿勢だった。
その後、2~3人の発言があり、最後にカルロスが今後に向けての手続き上の要望を述べていた。

デ・ザヤス、ミコル、ミシェル・モノーは不参加、クリストフ・バーベイは参加したが発言せず。常時参加者は17名。数名が出入りしていた。アジアからは私のみ。ラテンアメリカからはクリスチャンのみ。他はみな欧州の白人だった。急に決まったジュネーヴでの会合なので、在ジュネーヴのNGOメンバーに限られるのはいたしかたないが、西欧中心になるのは困りものだ。次の公式会議が4月20日からジュネーヴ。私は参加できないが、平和への権利国際キャンペーン日本実行委員会から数名参加見込。

Wednesday, February 25, 2015

検察・裁判所の闇を暴く

郷原信郎・森炎『虚構の法治国家』(講談社、2015年)
「有罪を作り上げる権力の犯罪」「初めて暴かれた法権力中枢の不正義!」との宣伝文句で送り出された対談である。郷原は東京地検特捜部、長野地検次席検事を歴任した。森は東京地裁、大阪地裁などの裁判官を務めた。元検事の弁護士と元裁判官の弁護士の対談である。郷原は組織のコンプライアンスの専門家で、著書に『検察の正義』『検察が危ない』『組織の思考が止まるとき』があり、検察を批判しつつ応援してきた。森は著書に『司法殺人』『死刑と正義』『司法権力の内幕』『教養としての冤罪論』があり、これまで裁判所を直接批判はしてこなかったが、日本の司法が重大な問題を抱えていることを示してきた。この二人の対談である。
対談は数々の冤罪・誤判を取り上げる。そして、検察と裁判所が誤る原因を追究する。帝銀事件、財田川事件、足利事件、東電OL殺害事件、西松建設事件、陸山会事件、厚労省郵便不正事件、そして現在進行中の美濃加茂市長事件。これらにおける見込み捜査、人質司法、自白強要、証拠隠蔽、証拠改ざんをはじめとする「捜査の名による犯罪」が冤罪を量産していることを明らかにする。こうした事実はこれまでも多くの弁護士、ジャーナリスト、研究者によって指摘され、日本の刑事司法は中世並みであることは世界に知れ渡っている。

本書の醍醐味は、元検事と元裁判官の対談だけあって、刑事司法の歪みを作り出してきた検察と裁判所の双方の問題点が見事に対応し、補完し合い、信じがたい世界を作り出していることを具体的に明らかにしていることである。元裁判官の瀬木比呂志の分析とは異なり、郷原と森は検事や裁判官の内心に立ち入って論じている。瀬木は客観面での分析を通じて司法の危機を徹底追及しているが、郷原と森は主観面も俎上に載せている。冒頭で、「巨人」=検察と「寄生虫」=裁判所の異様な関係を論じているが、「裁判官は検察官の言いなりになっている」といった議論に対して、森は「言いなりになるというより、むしろ、積極的に検察にもたれかかりたいという精神性なのです」と言う。「もたれかかる」ではなく「もたれこみ」だと言う。消極的に言いなりになるのではなく、積極的に寄りかかっている。また、「見事な有罪判決」について、有罪認定できる証拠が十分になくても、「推認に推認を重ねて」、「検察官より上手なやり方で有罪に持って行った」ことを「裁判官冥利に尽きる」と感じると言う。有罪推定の裁判が当然なのである。こうした意識が生み出される歴史的背景や司法の構造や社会的構造にも視線を送りながら、対談は、日本刑事司法の底知れぬ不正義、果てしない無責任、信じがたい破廉恥を次々と暴露していく。裁判官が無能だからこうなるのではなく、過失でもなく、わかっていてやっていることだともいう。無能かつ無責任だからこそ平気で破廉恥ぶりを自慢するのであろうが。

国連人権理事会諮問委員会14会期(2)

2月25日午前は「人権促進保護における地方政府の役割」に関する議論だった。ホダ・エルサダ委員が準備した報告書A/HRC/AC/14/CRP.1に基づく議論である。報告書では、地方政府が人権促進の義務を国家と共有し、補完し合っているとしつつ、実際には政治的意思が欠如し、人的資源がなく、中央政府との適切な調整もできていないため、不十分であることが確認されている。地方レベルでの人権メカニズムを以下に実現するか。2000年の「都市における人権保護に関する欧州憲章」や、スイス、韓国、デンマークなどいくつかの国の実例が紹介される。また、「人権都市」の実例が紹介される。例えば、1997年に第1号となったロサリオ(アルゼンチン)、続いて、バルセロナ(スペイン)、ビハク(ボスニアヘルツェゴヴィナ)、ボゴタ(コロンビア)、ゴンゴ(ガーナ)、コペンハーゲン(デンマーク)、グラーツ(オーストリア)、カチ(マリ)、メキシコシティ(メキシコ)、モントリオール(カナダ)、ポルトアレグレ(ブラジル)、サンデニ(フランス)、堺(日本)、ユトレヒト(オランダ)など実例がたくさんあると言う。
堺が人権都市というのは驚いた。ザイトク系の差別集団に公共施設を貸してヘイト集会をやらせた堺市だ。「人種差別表現の自由という人権」を擁護しているのだろうか。

25日午後は新しい議題である「禿鷹ファンドと人権への影響」の議論だった。前回の議論で、今後取り上げるべき新しい議題の候補として、他にも「植民地主義移住者の人権」「世界人権裁判所」「国際水源と人権」などの候補が挙げられていたが、人権理事会が承認したのが「禿鷹ファンド」だ。すでに人権理事会では「外国債務の人権への影響」が議論されていて、これとつながっている。議論の後押しをしている政府はアルゼンチン、ロシア、ヴェネズエラ、ブラジル、ボリビア。ジーグラー委員、スーフィ委員、アルファニ委員、ベナニ委員などがヘッジ・ファンドによる金融混乱と経済秩序の破壊、小国からの金融略奪について発言していた。

元裁判官による司法批判再び

瀬木比呂志『ニッポンの裁判』(講談社現代新書、2015年)
前著『絶望の裁判所』の続編。前著は裁判制度や裁判官の地位・処遇・職務を中心に、日本の裁判所と裁判官の特異性を描き出した。
http://maeda-akira.blogspot.ch/2014/04/blog-post_7.html
今回は、判決や手続きを中心に日本の裁判の異常性を明らかにしている。著者は33年間の裁判官(主に民事裁判)を経て、2012年から明治大学教授。
著者は「裁判官が『法』をつくる」という。裁判所は判決を出すのだから、裁判所が実質的意義における「法」を作るのは当たり前で、「裁判所の法形成機能」と言う言葉もある。ところが、著者によると、そうしたまともな法形成ではなく、裁判「官」がそれぞれの価値観に基づいて、恣意的に「法」を作ってしまう弊害があると言う。
刑事裁判については冤罪と国策捜査の恐怖が語られる。袴田事件、足利事件、東電OL殺人事件を素材に、「人質司法」による「自白偏重傾向」が指摘される。そして、刑事裁判制度を歪める国策捜査。2013年の国連拷問禁止委員会において、「日本の刑事司法は中世並み」と指摘された日本の人権人道大使が「笑うな。シャラップ」と叫んだ事件にも触れて、「かなり恥ずかしい事態」という。「司法制度が整っていない、あるいは民主的でない国家が他国から高い評価を受けることは、大変難しい。日本の場合には、刑事司法の場合に典型的であるが、和洋折衷で形成された古い制度の維持にこだわるために制度の『ガラパゴス化』が生じつつあることに注意すべきなのである」という。著者は民事裁判官だったので、刑事裁判についての記述は比較的一般的である。また、判決批判をする際にも、著者は、裁判官の主観面ではなく、判決文や手続きの判断に示された公的な部分を批判対象としているので、内容に新味はない。
名誉毀損裁判や原発裁判といった、政治化することのある「価値関係訴訟」については最高裁事務総局による司法統制が行き届き、大半の判決が最高裁方針に沿って下されていることを著者は丁寧に示す。行政訴訟は露骨に権力寄りである。著者が専門の民事裁判や和解についても、当事者の目線に立たない、立てない裁判官の現状を分析している。
最後に著者は、「裁判官の孤独と憂鬱」と題して、司法健全化のためになにをなすべきかを論じる。権力の監視は司法権力についても重要であること、市民による裁判傍聴や裁判員制度発足、マスメディアの在り方の改善、法曹一元制度の採用などが提示されている。つまり、数十年前から言われてきたことと同じである。
前著も本書も、内容にさして新味はない。司法批判の領域でずっと語られてきたことが繰り返されている。ところが、ともに大きな話題となった。それはやはり、著者が33年間の裁判官人生を踏まえて具体的に考察していることによるだろう。元裁判官による司法批判にも数々の前例がある。古くは再任拒否された宮本康昭弁護士や、青年法律家協会、日本民主法律家協会、そして裁判官懇話会による情報の整理と分析は膨大な研究業績となっていた。しかし、裁判官懇話会メンバーが全員、裁判所から離れて長い年月がすぎた。1990年代の裁判官ネットワークを最後に、裁判官や元裁判官による司法批判が激減した。このため弁護士や研究者による外からの批判は多数ある者の、インサイダーによる批判はごくごくわずかなものになった。そこに著者が登場したと言えよう。長い裁判官経験をもとに知り得た知識を駆使し、読者に読ませるエピソードも適宜紹介しつつ、研究者として背景や原因を分析している。近年、類書がなく、貴重な著作である。