Wednesday, February 25, 2015

元裁判官による司法批判再び

瀬木比呂志『ニッポンの裁判』(講談社現代新書、2015年)
前著『絶望の裁判所』の続編。前著は裁判制度や裁判官の地位・処遇・職務を中心に、日本の裁判所と裁判官の特異性を描き出した。
http://maeda-akira.blogspot.ch/2014/04/blog-post_7.html
今回は、判決や手続きを中心に日本の裁判の異常性を明らかにしている。著者は33年間の裁判官(主に民事裁判)を経て、2012年から明治大学教授。
著者は「裁判官が『法』をつくる」という。裁判所は判決を出すのだから、裁判所が実質的意義における「法」を作るのは当たり前で、「裁判所の法形成機能」と言う言葉もある。ところが、著者によると、そうしたまともな法形成ではなく、裁判「官」がそれぞれの価値観に基づいて、恣意的に「法」を作ってしまう弊害があると言う。
刑事裁判については冤罪と国策捜査の恐怖が語られる。袴田事件、足利事件、東電OL殺人事件を素材に、「人質司法」による「自白偏重傾向」が指摘される。そして、刑事裁判制度を歪める国策捜査。2013年の国連拷問禁止委員会において、「日本の刑事司法は中世並み」と指摘された日本の人権人道大使が「笑うな。シャラップ」と叫んだ事件にも触れて、「かなり恥ずかしい事態」という。「司法制度が整っていない、あるいは民主的でない国家が他国から高い評価を受けることは、大変難しい。日本の場合には、刑事司法の場合に典型的であるが、和洋折衷で形成された古い制度の維持にこだわるために制度の『ガラパゴス化』が生じつつあることに注意すべきなのである」という。著者は民事裁判官だったので、刑事裁判についての記述は比較的一般的である。また、判決批判をする際にも、著者は、裁判官の主観面ではなく、判決文や手続きの判断に示された公的な部分を批判対象としているので、内容に新味はない。
名誉毀損裁判や原発裁判といった、政治化することのある「価値関係訴訟」については最高裁事務総局による司法統制が行き届き、大半の判決が最高裁方針に沿って下されていることを著者は丁寧に示す。行政訴訟は露骨に権力寄りである。著者が専門の民事裁判や和解についても、当事者の目線に立たない、立てない裁判官の現状を分析している。
最後に著者は、「裁判官の孤独と憂鬱」と題して、司法健全化のためになにをなすべきかを論じる。権力の監視は司法権力についても重要であること、市民による裁判傍聴や裁判員制度発足、マスメディアの在り方の改善、法曹一元制度の採用などが提示されている。つまり、数十年前から言われてきたことと同じである。
前著も本書も、内容にさして新味はない。司法批判の領域でずっと語られてきたことが繰り返されている。ところが、ともに大きな話題となった。それはやはり、著者が33年間の裁判官人生を踏まえて具体的に考察していることによるだろう。元裁判官による司法批判にも数々の前例がある。古くは再任拒否された宮本康昭弁護士や、青年法律家協会、日本民主法律家協会、そして裁判官懇話会による情報の整理と分析は膨大な研究業績となっていた。しかし、裁判官懇話会メンバーが全員、裁判所から離れて長い年月がすぎた。1990年代の裁判官ネットワークを最後に、裁判官や元裁判官による司法批判が激減した。このため弁護士や研究者による外からの批判は多数ある者の、インサイダーによる批判はごくごくわずかなものになった。そこに著者が登場したと言えよう。長い裁判官経験をもとに知り得た知識を駆使し、読者に読ませるエピソードも適宜紹介しつつ、研究者として背景や原因を分析している。近年、類書がなく、貴重な著作である。