Wednesday, February 25, 2015

検察・裁判所の闇を暴く

郷原信郎・森炎『虚構の法治国家』(講談社、2015年)
「有罪を作り上げる権力の犯罪」「初めて暴かれた法権力中枢の不正義!」との宣伝文句で送り出された対談である。郷原は東京地検特捜部、長野地検次席検事を歴任した。森は東京地裁、大阪地裁などの裁判官を務めた。元検事の弁護士と元裁判官の弁護士の対談である。郷原は組織のコンプライアンスの専門家で、著書に『検察の正義』『検察が危ない』『組織の思考が止まるとき』があり、検察を批判しつつ応援してきた。森は著書に『司法殺人』『死刑と正義』『司法権力の内幕』『教養としての冤罪論』があり、これまで裁判所を直接批判はしてこなかったが、日本の司法が重大な問題を抱えていることを示してきた。この二人の対談である。
対談は数々の冤罪・誤判を取り上げる。そして、検察と裁判所が誤る原因を追究する。帝銀事件、財田川事件、足利事件、東電OL殺害事件、西松建設事件、陸山会事件、厚労省郵便不正事件、そして現在進行中の美濃加茂市長事件。これらにおける見込み捜査、人質司法、自白強要、証拠隠蔽、証拠改ざんをはじめとする「捜査の名による犯罪」が冤罪を量産していることを明らかにする。こうした事実はこれまでも多くの弁護士、ジャーナリスト、研究者によって指摘され、日本の刑事司法は中世並みであることは世界に知れ渡っている。

本書の醍醐味は、元検事と元裁判官の対談だけあって、刑事司法の歪みを作り出してきた検察と裁判所の双方の問題点が見事に対応し、補完し合い、信じがたい世界を作り出していることを具体的に明らかにしていることである。元裁判官の瀬木比呂志の分析とは異なり、郷原と森は検事や裁判官の内心に立ち入って論じている。瀬木は客観面での分析を通じて司法の危機を徹底追及しているが、郷原と森は主観面も俎上に載せている。冒頭で、「巨人」=検察と「寄生虫」=裁判所の異様な関係を論じているが、「裁判官は検察官の言いなりになっている」といった議論に対して、森は「言いなりになるというより、むしろ、積極的に検察にもたれかかりたいという精神性なのです」と言う。「もたれかかる」ではなく「もたれこみ」だと言う。消極的に言いなりになるのではなく、積極的に寄りかかっている。また、「見事な有罪判決」について、有罪認定できる証拠が十分になくても、「推認に推認を重ねて」、「検察官より上手なやり方で有罪に持って行った」ことを「裁判官冥利に尽きる」と感じると言う。有罪推定の裁判が当然なのである。こうした意識が生み出される歴史的背景や司法の構造や社会的構造にも視線を送りながら、対談は、日本刑事司法の底知れぬ不正義、果てしない無責任、信じがたい破廉恥を次々と暴露していく。裁判官が無能だからこうなるのではなく、過失でもなく、わかっていてやっていることだともいう。無能かつ無責任だからこそ平気で破廉恥ぶりを自慢するのであろうが。