辺見庸・高橋哲哉『流砂のなかで』(河出書房新社)
『私たちはどのような時代に生きているのか』(2000年)、『新 私たちはどのような時代に生きているのか』(2002年)に続く、といってもかなり間があいたが、13年ぶり、3度目の対談である。
1999年の周辺事態法、盗聴法、国旗国歌法など、「戦後民主主義の危機」の時期に始まった対談は、9.11同時多発テロ、アフガニスタン戦争、テロ対策特措法の時期に続いた対談だが、今回は、3.11の後に、かつ第二次安倍政権の憲法無視のファシズム路線がこの国と社会に見事に内装された時期の対談である。
2人は「なぜこの国は責任を問わないのか」と問う。責任を問わないのは近代国家において必ずしも異例のことではないが、国家間紛争で失敗した国家と指導者の責任が問われることは国際社会の常識になってきた。企業経営者の経営責任もかろうじて問われるようになってきたはずだ。
ところが、安倍政権は戦争責任を否定し、フクシマの責任も、オキナワの責任も取らない。勝手気ままに憲法破壊政策を進め、民意を無視する異常な政権である。にもかかわらず、メディアがこれに翼賛する。国民のかなりの部分も戦争と差別を願うかのように、安倍政権に縋り付く。政権にすり寄って利益を得られるのならまだしも、政権から邪険にされ放り出されている国民さえもが、沈黙し、無関心をつらぬき、政権にフリーハンドを与えている。「骨の髄まで腐った民主主義国家」を2人は繰り返し批判する。
ウェーバーによるまでもなく民主主義とは支配・統治の一形態であるから、権力支配が腐敗するのはある意味で当たり前ではあるが、それにしても、ここまでとは、というのが2人の実感なのだろう。最後に2人は「人が自らに責任を問うとき」について語る。だが、予感は暗く、出口は見えない。
戦後補償、戦争責任、戦後責任、靖国、死刑、福島原発、沖縄米軍基地・・・勇気ある市民や言論人が問い続け、この国の闇に光をさし込もうとしてきた諸領域でも激しい逆流がさかまき、押し寄せ、不条理が支配している現在、責任を問い続ける2人の闘いが続く。