Tuesday, January 19, 2016

アイヌ差別と学問の責任を問う

植木哲也『植民学の記憶――アイヌ差別と学問の責任』(緑風出版、2015年)
前著『学問の暴力――アイヌ墓地はなぜあばかれたか』(春風社)で、学問の名によるアイヌ墓地盗掘の歴史を詳細に解明し、学問と称する植民地主義とアイヌ差別の深刻な実態を解析した著者の第2弾である。
1977年の北大における北大差別講義事件での、アイヌ民族の結城庄司の命を懸けた闘いを手がかりとして、著者は、北海道大学とは何か、札幌農学校とは何かを追跡する。そして、札幌農学校と北大における植民学とは何であったのかを明らかにする。北海道への殖民、植民、開拓とはいったい何を意味したのか。北海道史はどのように描かれてきたのか。どのように描かれるべきなのか。「アイヌ民族の衰亡」「アイヌ民族の同化」とは、どのように遂行され、どのように学問化されたのか。植民学講座、内国植民論、辺境論がもった意味を問い返す。
結城庄司の問いは次の3つであった。
1.アイヌ民族はすでに和人に同化したとして、その存在を否定し歴史を「切り捨てた」。
2.アイヌ民族の身体的特徴などについて「軽蔑、侮蔑、差別的発言」を行なった。
3.アイヌ問題をタブー視し隠蔽してきた。
かつての植民学、これを継承した農業経済学、北大を中心とする「学問」は、ついにこの問いに答えなかった。それゆえ、植木は自らに突き付けられた問いとして受け止め、応答する。植木によると、アイヌ民族の否定は「学問による差別」である。「学問的発言だから差別にならない」という、よくある差別者の弁解が認められないことを端的に指摘する。学術研究は社会の中に一定の位置をもち、体制に組み込まれている。学問の自由を口実に他者の存在を否定し、正当化する言説がいかに権力を行使しているかと問う。
植木は1977年の北大差別講義事件を歴史的事件としているだけではない。
1985年のアイヌ肖像権裁判を引き合いに出し、国連先住民族の権利宣言をも射程に入れて、現在のアイヌ民族差別を問う。そして、2012年2月、2人のアイヌ民族が北大を訪問して、祖先の遺骨の返還を求めた出来事を紹介する。アイヌ墓地の「発掘」による1000以上の遺骨が北大に残されている。この老人たちの申し入れに北大は応じなかった。警備員を動員して、雪の降る玄関先で、老人たちを追い返したと言う。
1977年の差別事件に抗議した結城や学生たちに権力がいかに対応したか。2012年に同じことが繰り返された。
1869年の最初の屯田兵の一族の子孫である私は、アイヌ民族との関係では侵略者側に立っている。一族が保有した膨大な土地は、日本国家がアイヌ民族から勝手に取り上げて、民有地として払い下げたものだった。札幌生まれだが、1973年4月以後、東京在住の私は、北大差別講義事件を1977年当時は知らなかった。後に読書体験を通じて断片的に知っただけで、本書を通じて事件の歴史的本質を知ることになった。著者の誠実な学問に感謝したい。