Thursday, January 28, 2016

大江健三郎を読み直す(54)断乎として進むペシミスト

大江健三郎『生き方の定義――再び状況へ』(岩波書店、1985年)
10年前の『状況へ』の続編として雑誌『世界』に12回連載され、連載終了後直ちに単行本になった。「生き方の定義」という独特の考え方は、その後の大江のエッセイに一貫して継承され、『定義集』(朝日新聞出版、2012年)に至っている。この時期の大江は短篇小説の連作をいくつか仕上げているが、短編小説とエッセイとが、同時並行的に、内容もかなり重なりあいつつ、書かれていた。大江としては、小説とエッセイ・評論とを明確に区別していたようだが、読者としては、重なり合いがどんどん多くなっていたようにも感じていた。私小説からもっとも遠くから出立したはずの大江が、時に「私小説に屈した」と揶揄され、揶揄されていることを承知の上で、「私小説を超える私小説」を組み立てていた時期ともいえる。障害を持った息子と「共生」する決意をして以来、個としての状況への向き合い方と、核時代の状況への政治的発言とが重なり合い、故郷四国の森を暗喩に再生のイメージを探り続けた大江の「生き方の定義」――「優しさ」の定義。「考えられないこと」とは。「資産としての悲しみ」。「破壊していい最後のもの」。「ある楽しさ」。
「新しい若い作家たちの新鮮な感受性と言語感覚とは、昨今きわだって秀れたレヴェルを示しています。かれらが同時代をよくとらえて、独自の文学をつくり出すならば、それはわれわれ旧世代の文学を明瞭に超えるでしょう。現にある恐怖と対抗していかに生き延びるか、その恐怖と見合う大きさ・確実さの希望の根拠をどうつくり出すか、それを考える過程で、若い作家は、今日のもっとも敏感な時代の精神をみずから担うものです。かれらがそのようにしてつくりだす文学を、すなわち今日の核状況のなかでの時代の精神、恐怖と希望を何らかの形で反映している文学を、同時代の若い日本人は、読み手として期待しているはずだと僕は信じます。」
大江は、渡辺一夫や中野重治らの精神を繰り返し引証して「戦闘的ユマニスム」という一見すると矛盾した言葉に辿りつく。
「われわれがよく身の周りを見る・また広くは海外まで見る眼力を持つならば、様ざまな場所に、様ざまなありようで、戦闘的なユマニスム、己が雄々しさを確証するようなユマニスム、自由と寛裕と自由検討の原則が見す見すその仇敵どもの恥知らずな狂信主義の餌食にされてしまふ法はないといふことを確信してるユマニスム」――その定義は中野重治の「断乎として進むペシミスト」と表裏一体であるという。大江は「戦闘的なユマニスム」「断乎として進むペシミスト」として魯迅を挙げる。

「絶望之為虚妄、正与希望相同。」