鵜飼哲・酒井直樹・テッサ・モーリス=スズキ・李孝徳『レイシズム・スタディーズ序説』(以文社、2012年)
今日のBGMは、Hadiqa Kianiのアルバム“rung”。パキスタンの歌姫だ。といっても、私が勝手に命名しただけ。オープニングのYaad Sajanに始まる軽快なサウンドは、おそらくパキスタンの伝統と欧米ポップスのミックス。意味も分からずに書くのもなんだが、Aao Phir Aik Baarは名曲だ。作詞作曲はAmir Zaki。
さて、今回は、酒井直樹「近代化とレイシズム――イギリス、合州国を中心に」(聞き手:李孝徳)だ。冒頭から酒井の個人史が語られる。イギリスでの経験と知識をもとにレイシズムと階級の問題、差別の不可視化、マルクス主義と人種問題など、論点が次々と登記される。
次に日米戦争が日米双方の帝国主義に与えた影響が論じられる。ここは重要。1910~20年代に激しいレイシズムが席巻し、ナチス・ドイツの範とさえなったアメリカが、いちおうは多文化主義に転じたのは、日本との戦争のためだとされる。帝国主義間において正当性を主張するには「反人種主義」を政策とする必要がある。「欧米の人種主義からアジアを解放する」という日本の主張はいかに欺瞞であれ、いちおうの正当性を獲得しえた。ところが、日本はナチス・ドイツと組むことによって反人種主義の化けの皮がはがれてしまう。大西洋憲章以後のアメリカは表面的には反人種主義の優等生としてふるまう。実際には国内外で人種差別政策を推進したにもかかわらず、表面的には、そして公式的にも、いちおうは反人種主義を先導する位置に立った。この転換と揺れ動きの中に日米双方の問題がごった煮のように詰まっている。ここを解きほぐして、次の議論につなげることが重要だ。
次に勉強になったのは、サイードの『オリエンタリズム』のインパクトと、アメリカにおけるすさまじい批判。そして、9.11の衝撃と左翼知識人の沈黙。この二つの出来事に見られるアメリカ知識人のレイシズムの根深さと、にもかかわらず、それを乗り越えようとする論脈の存在。そうした話題を通じて、レイシズムを分析する方法論が語られる。
もう一つ、加害者と被害者の逆転も指摘される。
「人種主義の暴力は人種主義の被害者に対してだけ発現するのではなく、被害者を加害者の立場に追いやるわけですよね。被害者になりたくなかったら加害者になれという論理が、社会的に弱い立場におかれた者たちの行動指針になってしまう。ですから、被害者と加害者を本質論的に分けるのではなく、被害者がいつでも加害者になりうることの力学を解析することが必要なわけです。」
この指摘は、多くの場面で語られてきたことだが、本当に重要だ。いつも繰り返し立ち返るべき論点だろう。被害者が加害者になってしまう現象は、ヘイト・クライム研究ではよく指摘される。
加害者が被害者を装うのも、同型の論理だ。犯罪学者バイアー、ヒッグズ、ビッガースモ、アーミッシュに対するヘイト・クライムについて「非難者に対する非難」を指摘しているという。「被害者と称する者こそ犯罪者だ」という倒錯だ。ここで加害者は被害者になりすますことができる。ブライアン・レヴィン編著のヘイト・クライム研究の中では、「防衛的ヘイト・クライム」が説かれている。たとえば、白人集住地区に黒人が転居し、流入してくると、「奴らが我々の町を侵略してくる。我々の町を守れ」という「防衛意識」が強調され、そこから差別と排外主義が始まる。よそ者を追い出すレイシズムだ。
被害者になれば、心置きなく差別できる。被害者になったほうが勝ち、なのだ。異常な差別集団の「在特会」も「在日特権を許さない」という屁理屈を掲げている。どこにも存在しない特権を批判し、在日特権のために日本人が被害を受けているという途方もない物語がつくられる。被害者を装いながら、圧倒的な弱者・少数者に対して激しい憎悪をぶつけ、排除しようとする。この心理と論理を解明することも大切だ。