鵜飼哲・酒井直樹・テッサ・モーリス=スズキ・李孝徳『レイシズム・スタディーズ序説』(以文社、2012年)
今日のBGMは、『平和のうた2』(音楽センター)
WE
ARE THE WORLD、オキナワ、BELIEVE、ケサラ、日本国憲法前文、ヒロシマなど。
さて、鵜飼哲「共和主義とレイシズム――フランスと中東問題を中心に」は、李孝徳によるインタヴューである。
テッサ・モーリス=スズキが、フランスをはじめとするヨーロッパの普遍主義と人種差別を登記したのに続いて、鵜飼哲は、フランスにおける人種差別を鮮やかに抉り出す。アフリカとイスラム、移民と郊外。現象をいかに記述するべきか、その前提に立ち返りながら、人種主義の台頭と、それに対するSOSラシスムに代表される反人種差別の対抗の中での揺れ動きが語られる。一方では、「ブールの行進」のように、「自由・平等・博愛の国だから、たてまえとしてであっても、反レイシズムで人を集めれば集まる」。だが、そのフランスに根強くはびこるレイシズム。
「ユダヤ系知識人の変貌」も深刻だ。「いまやある種のユダヤ系知識人がともするといちばん人種主義的だったりします」。アラブ対ユダヤという二項対立に問題を矮小化することのないよう、ジャック・デリダ、ヴィダル・ナケ、マクシム・ロダンソンなどが「接合」の役割を果たしていたが、その後のパリの言論状況は悪化しているという。
李孝徳が述べているが、名著『人種差別』のアルベール・メンミが『脱植民地国家の現在――ムスリム・アラブ圏を中心に』に変貌している。李は「無残というほかない壊れ方」という。なるほど、そうだったのか、おかしいと思ったんだ、と思う。
「フランスを中心にして考えると、逆説は、植民地主義的レイシズムの総本山である宗主国のほうが、『われわれは国民概念から種族の規定を外している。独立した第三世界の国は種族主義に囚われたままであり、ゆえにレイシスト的だ』というふうに手品みたいに議論をひっくりかえしてしまうことです。独立の前提になっている国民概念まで含めて、先進国=宗主国から植民地=第三世界へ輸出されたものであり、その枠のなかで植民地解放や民族独立をやるほかなかったという歴史的必然性を考慮して問題を立てないと、いつのまにか変な話になってしまいます。」
「フランスの共和政の根幹にある何かを破壊しなければその先は見えないと思います。フランス革命やフランス共和政は、否認されたかたちでキリスト教的な核を保持している。カトリシズムの問題であり、ユマニスム(人間主義)の問題でもあります。」
日本のレイシズムを考え直すために、鵜飼は、1903年に開催された大阪の博覧会における「学術人類館」事件を取り上げ、西洋中心主義の土俵に奇怪な形で乗ってしまった日本と、沖縄の関係を論じる。1975年の沖縄海洋博の際にも議論となった「人類館」事件は、現在の沖縄差別を問う際に、まさに参照枠の一つとなる。