Thursday, June 13, 2013
侵略の定義について(17)
シカゴの弁護士レヴィンソンが始めた戦争違法化運動は、第1次大戦後のアメリカ世論に大きな支持を得ることに成功し、やがて大西洋を横断して、西欧に波及していった。
1920年代、国際連盟では、戦争を規制し、国際社会の平和と安定を実現するために様々な試みが続けられていた。1923年の相互援助条約案、1924年のジュネーヴ議定書などである。相互援助条約案もジュネーヴ議定書も条約として成立しなかったが、1925年、英・独・仏・伊・ベルギー5カ国が締結したロカルノ条約は、ドイツとベルギー間の戦争、およびドイツとフランスの間の戦争を防止するために、3カ国と、保証国としてイギリスおよびイタリアが加わっている。ロカルノ条約は、3カ国がいかなる場合においても、相手国へ攻撃または侵入し、あるいは戦争に訴えないことを相互に約束した。実定法上はじめて、国際紛争解決のために戦争に訴えることを禁止した。また、戦争手段の規制も、1907年のハーグ諸条約に加えて、1922年の毒ガス制限ワシントン条約案、1923年の空戦規則案、1925年の毒ガス議定書、1929年の捕虜ジュネーヴ条約を経て、1930年のロンドン海軍軍縮条約へと進展していった。
この時期の戦争規制と安全保障に対する難点は、国際連盟が主要大国を網羅していないことであった。国際連盟の設立を提案したのはウィルソン米大統領であったが、アメリカは国内の反対が強かったために、国際連盟に加盟していない。こうした流れの中で、戦争違法化運動が国際連盟とアメリカを結びつける役割を果たすことになった。1927年、ブリアン仏首相は、アメリカに対して相互不可侵条約の締結を提案した。ロカルノ条約が西欧だけの戦争禁止条約であったのに対して、大西洋をまたいだ条約の提案である。この提案を受けたケロッグ米国務長官は、仏米間だけでなく、多国間条約とすることを提案した。仏米に加えて、英伊日などの協議の結果、1928年、パリで不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)が取り結ばれた。
不戦条約は、不戦条約第1条は、「締約国は、国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし、かつその相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言する」とし、第2条は、「締約国は、相互間に起こることあるべき一切の紛争または紛議は、その性質または起因の如何を問わず、平和的手段によるの外これが処理または解決を求めざることを約す」とした。不戦条約は、戦争放棄と紛争の平和的解決を謳った僅か2カ条の宣言的条約であり、戦争や紛争の定義も行わず、条約遵守の監視メカニズムも予定されていなかった。このため締結当時から様々の批判を受けていた。紛争の平和的解決といいながら解決のための国際手続きを用意していない。条約違反に対する制裁もない。63カ国が加入したが、多くは「自衛戦争の留保」を行ったために、自衛を口実とした戦争を許す結果になってしまった。
国際連盟が準備したジュネーヴ議定書では、少なくとも集団安全保障としての制裁措置と、戦争に代替する平和的解決措置を規定していた。(1)平和的解決への義務、(2)軍縮の達成、(3)制裁の実行という3つの具体的方策が示された。この意味では不戦条約は不備な条約であった。しかし、それだからこそ普遍的な宣言として成立しえたのである。そして、不戦条約が到達した戦争違法化は、まさにレヴィンソンの思想に通じるものであった。戦争違法化を宣言し、その思想を普遍的に通有させ、法規範の意義を浮き彫りにさせるというレヴィンソンの発想と同じなのである。リップマンやライトがまさに同じ理由で非難していたことを想起すれば、普遍を現実化しようというレヴィンソンの夢に凱歌があがったといえよう。