Monday, June 03, 2013

侵略の定義について(11)

ニュルンベルク・東京裁判における平和に対する罪が、1929年の不戦条約に結実した<戦争の違法化>に由来することはよく知られる。その出発点は、言うまでもなく第一次大戦における悲惨な歴史的経験であった。それゆえ、国際連盟の創設から不戦条約への流れを見ておくことが必要となる。もっとも、本来ならばウェストファリア体制そのものに遡り、正戦論や無差別戦争観の意味を確認しておく必要があるが、ここでは省略する。                                                                                   第一次大戦勃発によって国際法の無力さが痛感された。正戦論の破綻から無差別戦争観の道が開かれ、第一次大戦という悲惨な戦争をもたらした。そこで戦争の規制という課題が意識され、そのための法的枠組みづくりが始まった。1919年のパリ講和会議では「戦争を開始した者の責任及び処罰の執行に関する委員会」が設立された。委員会報告書は、第一次大戦中に行われた戦争犯罪を追及することを明示し、その犯罪として、第1に戦争を開始した行為、第2に戦争法規慣例違反を検討した。報告書は、戦争を開始した行為については、語義の正確な意味での戦争犯罪ではなく、刑事裁判で取り扱うことはできないとした。侵略戦争を犯罪とする実体法の伝統が存在しなかったうえ、極めて政治的な問題であって犯罪の実行行為性も明確とは言えなかったためである。                                                                    しかし、1919年6月28日のヴェルサイユ条約第227条は、前ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世を「国際道義及び条約の神聖に対する重大な犯罪」を理由に訴追することとし、特別法廷を設置することにした。ウィルソン・アメリカ大統領がヴィルヘルム二世の政治的犯罪を独立に裁くことを主張したためである。実際にはヴィルヘルム二世はオランダに亡命し、オランダはヴィルヘルム二世の引渡しを拒んだので、裁判は実現しなかった。ヴェルサイユ条約第227条は戦争違法観に立って、しかも個人処罰を明示した点で、国際法の革新と評価されている。その内容が抽象的で、制度的にも確立していないという限界が指摘されるが、最初の国際戦犯法廷の企図として重要である。