Thursday, June 06, 2013

侵略の定義について(13)

アメリカは国際連盟に入らなかったが、この間にアメリカで<戦争の違法化>運動が盛り上がった。運動を始めたのはシカゴの弁護士サルモン・レヴィンソンであった。レヴィンソンは1918年、「戦争の法的地位」という論文を書いて戦争の違法化を唱えた。1921年、レヴィンソンを主導者として「戦争違法化アメリカ委員会」が設立され、レヴィンソンは『戦争違法化計画』というパンフレットを出版して各方面に送付した。<戦争の違法化>運動は1920年代アメリカで急速に広がった。第一次大戦の悲劇を前にした運動であり、スローガンは単純明快であった。国際連盟加入と異なって、<戦争の違法化>自体はアメリカ政府の責任や義務を追加しない。                                                        現実の外交においても新たな進展が見られた。1927年、ブリアン・フランス首相がアメリカに対して二国間条約の締結を提案した。ケロッグ・アメリカ国務長官はこれを受けて、多国間条約の提案を返した。そこでアメリカ、フランス、イギリス、イタリア、日本などと協議を重ねた末に、1928年、ついに「不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)」が締結された。不戦条約第1条は「締約国は、国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし、かつその相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言する」とした。第二条は「締約国は、相互間に起こることあるべき一切の紛争または紛議は、その性質または起因の如何を問わず、平和的手段によるの外これが処理または解決を求めざることを約す」とした。当事国は60ヶ国におよんだ。不戦条約は戦争の放棄と平和的解決を規定するのみで、ジュネーヴ議定書のように制裁措置を予定していない。締約国が、国際紛争解決の手段としては戦争に訴えないことを約束し、紛争を平和的に解決することを明言するというものであり、制度的な担保は規定されてはいなかった。 しかし、不戦条約にアメリカが入ったことによって、国際連盟とアメリカとの連結が実現し、当事国が当時の主権国家のほとんどである六〇ヶ国になったことで、不戦条約体制が国際的に形成された。                                                              その体制に対して暴力的に挑戦したのが、1930年代のナチス・ドイツや日本軍国主義であった。不戦条約に対するアメリカ、フランス、イギリス等と日本との対応の違いは、篠原初枝『戦争の法から平和の法へ』と、伊香俊哉『近代日本と戦争違法化体制』の2冊を読むことでよく理解できる。アメリカ国際法学会でもさまざまな議論がなされたが、不戦条約の意義と本質を踏まえて、アメリカがこのような条約を締結したことの意義が理解されていた。しかし、中国での権益を重視した日本は、満州における軍事行動という形で、不戦条約の歴史的意義を逆照することになった。