Wednesday, August 21, 2019

ヘイト・クライム禁止法(163)ラトヴィア


ラトヴィア政府がCERDに提出した報告書(CERD/C/LVA/6-12. 10 November 2017

刑法第891条は、特に重大な人道に対する罪、平和に対する罪、戦争犯罪、ジェノサイド、固化に対する重大犯罪を行うことを目的とする犯罪組織の設立、及び当該組織への関与に制裁を科している。

集会・行進・ピケット法第10条2項は、ラトヴィアの独立に反する行為、政治体制の暴力的転覆の煽動、法への不服従の呼び掛け、暴力、国民的憎悪及び人種的憎悪の宣伝、ナチス、ファシズム、コミュニズムのイデオロギーの表明、戦争宣伝、犯罪を称賛し煽動することを禁止している。二○一三年一一月、同法改正により、地方政府は、他人の権利、民主的国家システム、公共の安全、道徳等を危険にさらすイベントを禁止する決定をすることができる。

国内法はヘイト・スピーチ、すなわち社会の集団に対する、公然たる、口頭又は文書による、人種、国民、民族的憎悪の煽動を禁止している。

刑法第78条によると、人種、国民、民族的憎悪を惹起するために特定の意味を有するシンボルや儀式を用いることを犯罪としている。刑法第78条及び第150条(社会的憎悪の煽動)は、暴力や脅迫を刑罰加重事由としている。

刑法第78条は裁判でウエブサイト、ニュース・ポータル、ソーシャル・ネットワークにも適用される。ラトヴィア人、ユダヤ人、ロシア人、ロマに対する事案が裁判例にある。

2006年3月31日、リガ地方裁判所は、3人の被告人を刑法第78条2項で有罪とした。被告人らはスキンヘッド集団のメンバーで、アメリカ大使館勤務の皮膚の色の黒い職員に対して人種主義スローガンを叫び、身体に傷害を加えた。2人の成人に1年の自由剥奪及び3年のプロベーションを言い渡し、1人の未成年に6月の自由剥奪と2年のプロベーションを言い渡した。

2014年1月22日、クルツェメ地方裁判所は1人の被告人に刑法第78条2項の犯罪で判決を言い渡した。被告人はニュース・ポータルで国民、民族、人種的憎悪を煽動し、それは特定の民族に属する人々を標的とする内容であった。

2014年6月6日、ラトガレ地方裁判所は1人の被告人に刑法第78条2項の4月の自由剥奪の有罪判決を言い渡した。被告人はウエブサイトに、特定の民族に向けた消極的攻撃的姿勢をコメントし、公然と消極的憎悪アル意見を助長委、紛争を煽動し、国民憎悪を助長した。

2014年9月18日、ゼメガレ地方裁判所は、憎悪あるコメントの著者が他人の書いた文章を再出版した場合にも、著者には憎悪情報の出版に責任があるとした。

刑事訴訟法第350条は、犯罪を惹起した者によって支払われた賠償が惹起された害悪を補償すると言えないと考えた被害者は、民事訴訟で補償を求める権利を有するとする。

CERDはラトヴィア政府に次のように勧告した(CERD/C/LVA/CO/6-12. 25 September 2018

現行法がヘイト・スピーチに対処し制裁を科すのに適しているかを再検討し、法規制を条約第四条に合致させること。ヘイト・スピーチ事件について、報告、捜査、訴追、判決、制裁に関する信頼できる統計を次回報告すること。ヘイト・クライム/スピーチ事件を確認、登録、捜査、訴追するために研修プログラムを開発すること。政治活動において政治家が行ったものを含むヘイト・スピーチを捜査、訴追、処罰すること。インターネット上のヘイト・スピーチを予防する措置を講じること。

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Paradis, Noir Divine, Roger Burgdorfer, GE, 2017.
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Tuesday, August 20, 2019

ヘイト・クライム禁止法(162)スウェーデン


スウェーデン政府がCERDに提出した報告書(CERD/C/SWE/22-23. 1 February 2017

前回CERDが裁判官等の研修について勧告を出したので、それへの回答。司法研修アカデミーが裁判官その他の司法職員の研修の責任を有する。アカデミーは裁判官補及び裁判官に人種主義動機によるヘイト・クライムに関する研修を行う。裁判官補の研修は義務的で蟻あり、主に量刑に際して人種主義その他のヘイト動機を考慮に入れることに関係する。裁判官への義務的研修はないが、裁判官自身の判断でアカデミーの研修に参加することを積極的に選択する。研修科目の一つは異なる経験を有する複数の裁判官が適切に職務に当たることが出来るようにするものである。

前回、人種主義組織や過激組織についてのCERD勧告が出た。人種主義表現の実効的な禁止についてはこれまで何度も報告した通りである。

国民又は民族集団に対する煽動に関する規定は、人種主義言説の流布、一般公衆や集団の間における脅迫を犯罪化しており、特に重要である。1989年以前は、当該メッセージが一般公衆の間に流布されなければならなかった。1989年改正はこの要件を取り除き、組織内の言説も刑事責任を問われることがある。

人種主義集団の活動と闘う刑法規定がある。違法な軍事活動の禁止、叛乱の煽動の禁止である。スウェーデン刑法の共犯規定は射程が広く、犯罪実行の教唆、幇助、未遂、予備、共謀が規定されている。犯罪の予備段階での規制により、組織された集団内での計画や実行が犯罪となる。


Monday, August 19, 2019

多面的かつ深みのある「護憲派列伝」


佐高信『反-憲法改正論』(角川新書)

2013年に光文社から出た『この人たちの日本国憲法』を大幅に加筆したもので、そちらも読んだはずだが、アベ改憲の危機に直面している状況に変わりがないので、本書も大いに読まれるべきだ。

「いわゆる革新派だけが護憲を叫んできたのではない」という著者は、元首相の宮澤喜一、元法相の後藤田正晴、元官房長官の野中広務を取り上げる。いずれも自民党の政治家だが、アベ流の改憲にはもちろん反対である。戦争体験や、政治家としての経験を踏んで、彼らは護憲を唱えてきた。こうした骨のある政治家がいなくなった自民党こそ問題である。

澤地久枝、井上ひさし、城山三郎、吉永小百合は、誰もが直ちに、そうだね、護憲派だね、と理解するだろうが、佐橋滋、三國連太郎、美輪明宏、宮崎駿、中村哲と並べられると、ああ、この人達も護憲派なんだと、ほっとするのではないだろうか。

著者の巧みなところは、憲法論を展開するのではなく、それぞれの人物のエピソードを紹介しながら話を進めるところだ。そのエピソードが実にはまっている。はまっていないように見える話もあるが、実はよく読むと、なるほどと納得させられる。単にこんなエピソードがありますよと言うのではない。いまこの時に、護憲派のために、このエピソードを知って、読者はさらに深めよ、と言っている。著者らしい力のこもった新書だ。

Apologia Sion 2018.

ヘイト・クライム禁止法(161)モンゴル


モンゴル政府がCERDに提出した報告書(CERD/C/MNG/23-24. 12 November 2018

前回審査の結果、CERDはモンゴル政府に、条約4条に従って人種主義ヘイト・スピーチを禁止するよう勧告した。2015年制定、2017年施行の刑法改正は、第14章「人格的政治的権利と自由に対する犯罪」、14章1条「差別」、14章2条「情報を求める権利の妨害」、14章3条「表現及びプレスの自由権の侵害」、14章4条「良心と宗教の自由権の侵害」を定める。刑法14章1条は、国籍、民族、言語、人種、年齢、ジェンダー、社会的背景・地位、財産、職業、職務の地位、宗教、意見、教育、性的志向、健康状態に基づいて人々の権利と自由に対する差別や制限、は、450~5400ユニットの罰金、又は240~720時間の社会奉仕命令、又は1月以上1年以下の旅行禁止に処する。

刑法19章9条は、「国民統合の妨げ」であり、国民、民族、言語、人種又は宗教的敵意及び憎悪を人々の間にかき立てるプロパガンダ、及び分離主義、差別、虐待、制約の助長、唱道する活動の組織化は、5年以上12年以下の刑事施設収容とする。

2017年9月の司法大臣命令によって、刑法、刑事訴訟法、犯罪法、犯罪手続き法、執行法等の効果的履行のための作業部会が設置された。

上記犯罪に関連して、モンゴルには登録上違法な犯罪組織は存在しない。ナショナリズムを唱道する集団や運動は18団体の登録がなされている。そのうち8団体は、ダヤール・モンゴル、ツアガーン・カース、タリン・ツーヴー・チョノ、カース・モンゴルなどである(*これらの発音も意味内容もわからないが)。NGO法第6条に基づいて登録したNGOについては、一定の場合に裁判所が解散を命じることができる。刑法第9条2項は、法人の刑事責任を定める。

ダヤール・モンゴルについて、(前回報告書において解散するか否かの手続きが始まったと報告したが)解散させていない。

Sunday, August 18, 2019

パウル・クレー・センター散歩


パウル・クレー・センターは他の美術館よりも入場料が高いが、今回はなぜか入場無料だった。2つある展示ホールのうち1つは閉館となっていて、次の展示の準備中だったためだろうか。開館となっているほうは「カンディンスキー、アープ、ピカソなど、クレーと友人たち」という展示だった。

ホールはいくつものブロックに区分けされている。その一つひとつで、友人の画家とクレーの両者の作品が並べて展示されている。

最初のブロックは、画家修業中からの友人のフランツ・マルク。1912年に青騎士第2回展覧会の時にマルクとクレーが会っている。マルクは1916年になくなったので、4年ほどのつきあいだ。後にクレーは「M」という作品を描いたが、マルクのことだ。また、マルクの「動物」が火災で損傷したときに、マルク夫人の依頼を受けてこれを修復したのはクレーだ。バーゼル美術館にある。他方、クレーがヴォルテールの「キャンディード」のために描いた挿絵の出版は、マルクが出版社を紹介したという。

ミュンヘンでの青年時代の友人はアレクセイエフ・ジョレンスキーだ。そのパートナーのマリアンヌ・ヴェレフキンも画家なので、2人の作品が展示されていた。20年ほどの間に、クレーとジョレンスキーは33の作品を贈り合ったという。

といった具合に、いろんな時期の友人達が次々と登場する。チュニジア旅行を共にしたマッケとモワイエ、バウハウスで一緒だったカンディンスキー、チューリヒ・ダダのハンス・アープとそのパートナーのゾフィー・トイバー・アープ、キュビズムとの出会いはピカソ。入口にはクレーを中心に友人達の名前を配置した一覧の大きな図がおいてあった。バウハウス仲間としてはカンディンスキーや、ヨハネス・イッテンらの名前と共に、アンニ・アルバースの名前もあった。アルバースについては、元同僚だった中野恵美子が翻訳を出したので、知っていた。


クレーの絵画作品とスケッチがたくさん展示されていたが、天使シリーズが1つもなかった。指人形もなかった。どちらも世界のどこかに貸出し中なのだろう。

Les Faunec Syrah Geneve 2016.

「差別の向こう側に、戦争と殺戮が見える」


安田浩一『愛国という名の亡国』(河出新書)



ヘイト・スピーチを追いかけてきたジャーナリストの安田だ。外国人労働者の人権問題を永年追跡してきたのも安田だ。沖縄の2紙に対するバッシングに対抗して沖縄の状況を取材したのも安田だ。他方で、日本の右翼の歴史も探求してきた。

その安田が各紙に掲載してきた文章をまとめて編集すると、こうなる。「愛国のラッパが鳴り響く」日本の病理を徹底解剖し、これ以上、この社会を壊さないために論陣を張る。

「ヘイト・スピーチは社会を壊す」というのは、私が2010年に出した『ヘイト・クライム』以来ずっと主張していることだが、ジャーナリストで同じことを敏感に受け止め、永年現場で取材し、警鐘を鳴らしてきたのが安田だ。

本書も2009年の蕨市事件、在特会らのデモを振り返ることから始まる。「あのデモがエポックだった」というのは、ヘイト団体にとっても、反ヘイトの市民にとっても、共通の認識ではある。ヘイト・スピーチ事件はそれ以前からずっと続いていたが、路上で公然と組織的にヘイトデモを行い、盛り上がりを見せるようになったのは蕨市事件からだろう。現場で情勢の変化と気持ちの悪さをつぶさに体感した安田のその後の反ヘイトジャーナリズムの原点だ。見せかけの中立公正ではなく、反差別のジャーナリズムを現場で紡いでいく。

在日朝鮮人、移住者、沖縄住民、生活保護受給者をターゲットとした差別とヘイト。

ヘイトを煽る政治家、文化人、メディア。ネトウヨと結びつく右翼。

分かりやすい構図が先にあるわけではない。一つ一つの現場で取材した結果が、やはりこの分かりやすい構図を裏書きする。だからといって、構図を提示しておしまいというわけではない。安田は日本政治と社会の「現在地」を追いかける。彼らの中にあり、私たちの中にある「現在地」。

「差別の向こう側に、戦争と殺戮が見える」という安田は、その視線を過去、現在、未来に配しながら、「『愛国』の合唱に飲まれることなく、勇ましい言葉に引き寄せられることなく、「排除の論理に絡めとられることなく」、書き続けるという。

週刊誌記者時代以来、「面倒なやつだと思われることはあっても、『できる記者』だったと評価されたことは、たぶん、ない」という安田だが、「できる記者」になんてならなくていい。バランス良く中立のふりをして最後は権力に奉仕する「できる記者」は掃いて捨てるほどいるのだから。



Domaine des Charmes, Geneve 2017

Thursday, August 15, 2019

ネット時代の暗黒の思想を学ぶ


木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』(星海社新書)

サブタイトルは「現代世界を覆う<ダーク>な思想」。著者はブロガー、文筆家で、思想、インターネット文化、ポップカルチャー、アングラカルチャーが縄張り。著書に『ダークウイェブ・アンダーグラウンド――社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』(イースト・プレス)があるという。

知らない出版社、知らない著者だが、書店に山積みになっていた。

「ニック・ランドを知らずして現在と未来は語れない」とある。ニック・ランド、知らない。

「あのピーター・ティールから遡るその新反動主義・加速主義」とある。ピーター・ティール、知らない。新反動主義も加速主義も知らない。

かなり遅れてる。勉強しなくては、というわけで読んでみた。

まず何よりも読みにくい本だ。文章が、ではない。装幀というか、表紙だけでなく、本文頁も真っ黒だ。真っ黒の中に白い部分があり、そこに活字が並ぶ。ページをめくってもめくっても、黒、黒、黒。なにそろ<ダーク>な思想だ。暗黒啓蒙だ。ひたすら「黒く塗れ」という本だ。思想の黒さが伝わらないと不安になって、物理的に黒くしたのだろう。読むのに忍耐がいる。名は体を現わすのか、体は名を現わすのか。
リベラルな価値観に否を突きつける新反動主義、暗黒啓蒙の旗手は、ピーター・ティール、カーティス・ヤービン、ニック・ランドだという。ネットでDark Enlightenmentで検索すると確かに出てくる。反民主主義で、反啓蒙主義で、近代にノーを突きつける。

そうした雰囲気が、哲学、思想、SF小説、音楽、映像等多様なジャンルに影響を与えているようだ。他方で、カント批判や、マルクスからの引用や、ドルーズ&ガタリ、リオタールまで登場する。日本ではこれまでまとまった紹介がなされてこなかったが、仲山ひふみ、桜井夕也などが詳しいようだ。

近代にノーというのは、歴史的にいくらでもあったと思うが、本書では、それらとの関係は解説されていない。

Wednesday, August 14, 2019

ヘイト・クライム禁止法(160)パレスチナ


8月13日、CERDはパレスチナ報告書の審査を始めた。2014年にICERDを批准して、初めての報告書である。議長も委員達も口々に「歴史的瞬間」と繰り返し、パレスチナ政府を歓迎。

報告書は62頁あり、かなり充実している。日本政府の初めての報告書は80頁もあったが、条文の引用ばかりで中身がスカスカで、実に評判が悪かった。パレスチナ報告書は、スタンダードな記述方法で、水準に達している。

鄭鎮星委員がパレスチナ担当で、かなり包括的にレヴューしていた。「イスラエル/パレスチナ問題」ではなく、「パレスチナ内部の人種差別問題」だ。知らないことばかり書かれているので、担当者は大変だろう。鄭委員だって、「パレスチナ内部の人種差別問題」を以前から知っていたとは思えない。私たちの念頭にあるのは、イスラエルに抑圧され空爆され、被害を受けてきたパレスチナだ。

マイノリティとして、370人のサマリタンがいるが、3646年前からナブルスに住んでいた、12氏族の末裔だという。4世紀から住んでいたアルメニア人、及び第一次大戦後に逃げてきたアルメニア人が、最大時5000人いたが、今は500人。アフリカ系住民もイェルサレム旧市街にいる。イェルサレムとベツレヘムにシリア人が4000人。キリスト教のコプト人は1000人いて、エジプト系コプト語を話すが、文字はギリシア語らしい。各地にマグレビスも20000人、さらにロマもイェルサレムに1200、ガザに5000。以上とは別に、ベドウィン、国内避難民、難民、移住労働者がいる。こうした人々の状況が中心テーマだ。

パレスチナ政府がCERDに提出した報告書(CERD/C/SLV/18-19. 14 September 2018

パレスチナはCERD一般的勧告第35号に従っている。独立宣言で世界人権宣言を受け容れ、国際自由権規約を留保なしに批准し、基本法は表現の自由を掲げ、1995年の印刷出版法第2条が意見表現の自由を保障している。

刑法はヘイト・スピーチへの対処を行っている。西岸に適用される1960年のヨルダン刑法第130条は、国民感情を傷つける目的のプロパガンダを流布し、人種的又は信仰上の緊張を扇動した者は3年以上15年以下の刑事施設収容とする。刑法第150条は、信仰又は人種的緊張を高める目的で文書又は言説を公表し、国民の共同体や構成員の間に紛争を扇動した者は6月以上3年以下の刑事施設収容とする。

ガザ地区に適用される1936年の刑法第59条及び第60条は、パレスチナ住民の間に不和や離反を惹起し、住民の異なる諸階層に悪意や敵意の感情を助長した者は3年の刑事施設収容とする。

1995年の印刷出版法第47条は、国民統合を傷つけ、犯罪実行を扇動し、敵意を拡散し、憎悪、不和、意見の衝突の原因を作り、共同体構成員の間に信仰の政治主義化を扇動する新聞やメディアの記事を流布した者は3月以上の停職及び当該記事の没収とする。

2007年の選挙法第108条は、選挙宣伝、演説、広告、図像を用いて、性別、宗教、信仰、職業又は障害に基づいて他の候補者を扇動又は攻撃した者、又はパレスチナ人民の統合を傷つける緊張を扇動した者は6月以上の刑事施設収容及び500ドル以上の罰金とする。

2005年の地方委員会選挙法第25条は、選挙演説等において性別、宗教、信仰、職業又は障害に基づいて他の候補者を扇動又は攻撃した者、又はパレスチナ人民の統合を傷つける緊張を扇動をしないように定める。

2017年のサイバー犯罪法第24条は、人種紛争を惹起する情報を流布、回覧するためにウエブサイト、アプリケーション、電磁的アカウント、ITメディアを利用した者は、特定集団に対する人種差別目的、又は人種や信仰の理由、皮膚の色、外見、障害に基づいて、人を脅迫、中傷、攻撃した者は、一定期間の強制労働及び5000以上10000以下のヨルダン・ディナールの罰金とする。

サイバー犯罪法第25条は、ウエブサイト、アプリケーション、電磁的アカウントを制作し、インターネット又はITを手段として、国際文書に規定されたジェノサイドや人道に対する罪の行為を誤解させ又は正当化する見解を流布した者は、終身強制労働、又は10年以上の強制労働とする。

2015年のパレスチナ憲法草案第14条は、出身、人種、性別、宗教、社会的地位、意見又は障害を理由にした差別を元に扇動及び宣伝を行うことを処罰するとしている。

宗教に関しても、特にアルメニア人やシリア人住民との関係で、ヘイト・スピーチを禁止している。西岸に適用される刑法第278条、ガザ地区に適用される刑法第149条、1995年の印刷出版法第447条、2017年のサイバー犯罪法第21条などが宗教的ヘイト・スピーチを処罰する規定である。

人種差別を助長又は扇動する人種主義団体は違法であり、禁止される。西岸に適用される刑法第144条は、内戦や信仰上の紛争を刺激する意図を持った武装集団への参加を終身刑としている。西岸に適用される刑法第151条は、信仰又は人種的緊張を扇動し、又は国民の共同体や構成員の間の紛争を扇動するために設立された結社に参加した者を6月以上3年以下の刑事施設収容及び50ディナール以下の罰金とする。

ガザ地区に適用される刑法第69条は、違法な結社を定義し、第70条は16歳以上の者が違法な結社の構成員となった場合、違法な結社の内部で職責又は行為を行った場合、違法な結社の代表となった場合、違法な結社の指導下の組織や学校の教師となった場合、1年の刑事施設収容とする。

パレスチナ報告書は、以上の他、占領下パレスチナにおけるイスラエルによるヘイト・クライム/スピーチについても報告している。

Tuesday, August 13, 2019

ヘイト・クライム禁止法(159)中国


中国政府がCERDに提出した報告書(CERD/C/CHN/14-19. 18 April 2017

刑法第249条、第250条、第251条は民族憎悪と民族差別の扇動という犯罪行為の定義及び量刑基準を定めている。

2015年、広告法改正が行われ、第57条は「いかなる民族、人種、宗教又は性的差別内容」をも禁止するとされた。違反行為への刑罰には業務停止や罰金があり、重大事案では営業許可取り消しがなされる。2014年3月、上海地区の企業がインスタント麺をイスラム教に従ったハラルとして販売したが、豚肉表示を記載しなかったため改善命令を受けた。

前回報告に際して、委員会から指摘のあった事例について。2008年3月にラサ(チベット)及び2009年7月にウルムチ(シンジャン)で発生した騒乱・放火事件について刑事裁判が行われた。公判はすべて公開審理であった。被告人には刑事手続き上の権利が保障された。被告人に民族的マイノリティがいたので、裁判は民族的マイノリティ判事によって行われた。民族的マイノリティの慣習と尊厳を尊重した。被告人の家族やコミュニティの構成員も傍聴した非公開法廷だった事案でも判決言い渡しは公開でなされた。

CERDが中国政府に出した勧告(CERD/C/CHN/CO/14-17. 19 September 2018

CERDの一般的勧告第7号及び第35号を想起し、次のように勧告する。警察官、検察官、司法官、その他の法執行官に人種主義ヘイト・クライムに関する教育訓練を行うこと。人種主義ヘイト・クライムの監視、記録、捜査、訴追、制裁を恒常的に行うこと。ヘイト・クライム担当検察官を置くこと。人種主義ヘイト・クライム/スピーチ事件を訴追できるようにすること。被害者に適切な補償を提供すること。政治家がヘイト・クライム/スピーチを公的に非難するように確保すること。次回報告書において、中国、香港、マカオにおける人種主義へエイト・クライムに関する司法及び行政の統計情報を報告すること。

Monday, August 12, 2019

生涯かけての懺悔とラブレターと


彦坂諦『亜人間を生きる 白井愛たたかいの軌跡』(「戦争と性」編集室)


8月12日はスイスの休日のため人種差別撤廃委員会の審議はなく、国連欧州本部にも入れない。レマン湖畔のモンレポ公園のベンチで、400頁の大著を通読した。


著者の彦坂は『ある無能兵士の軌跡』全9巻、『男性神話』、『餓死の研究』等の著者だ。1933年の生まれだ。

白井愛(浦野衣子)は、かつてフランツ・ファノン『地に呪われたる者』やポール・ニザン『トロイの木馬』の翻訳者にして、1979年以後、『あらゆる愚者は亜人間である』『新すばらしい新世界スピークス』にはじまる一連の著作で、「根源的な差別の本質」をえぐりだし、「世間」とたたかい続け、2005年に癌で他界した。1934年の生まれだ。

生涯の研究者仲間であり、友人であり、恋人であり、師匠であり、事実上の「共著者」であった白井愛への、痛切な愛と、痛恨の反省をこめて、彦坂は、白井の人生を辿り直し、白井の作品を「弟子」として「解説」し、「使徒」として伝導する。「そして、使徒っていうのはかならず裏切るものときまってるんですよ」と論難されたとおりに裏切りの使徒として。だが彦坂は、白井の思い出を限りなく果てしなくどこまでも愛おしく抱きしめながら、「解説」し伝導せざるを得ない。自分で選択したと断言はできないにしても、「この道しかなかったんや」。


1930年代生まれの人間は第二次大戦を少年少女として体験し、戦後の新しい社会を生きてきた年代だ。大江健三郎、小田実、井上ひさしをはじめ、多くの作家がこの年代にいる。一方に石原慎太郎、江藤淳もいれば、他方に李恢成、梁石日らもいる。私自身がもっともよく読んできた文学者の世代である。1955年生まれの私の青春時代に彼らは作家デビューしていたからだ。彦坂も白井も同じ世代である。


いかなる論評もなしえないような本について語ることは止めて、読者は沈黙するべきだろう。

彦坂の著書はいくつか読んだことがあるものの、(何冊かは所持していたはずだが)白井の著書を読んでいない私には、感想めいたことを書くこともためらわれる。何を書いても、彦坂から、「それは違う」と指摘されるだろう。何を書いても、彦坂を呆れさせ、落胆させるにちがいない。


とはいえ、若干の読書感想文だけはメモしておきたい。


白井の著書を手にした記憶はある。たぶん、何かの講演会や市民集会の折に、受付脇の販売コーナーなどで購入したのだろう。だが、読んだ記憶はない。自宅か研究室のどこかに眠っているはずだ。「亜人間」が、「人間」より一段階低い存在とされ、差別される存在であることは予測できるが、彦坂が解説するような意味であったことは知らなかった。『あらゆる愚者は亜人間である』を読んでいれば、少なくとも、白井が何をどのように批判し続けたのかを理解できていたはずだ。また、彦坂のいくつかの著書を読んだ中に、白井への言及があったはずだ。そこを読み飛ばしていたのだろうか。


フランス文学研究の世界から「追放」されて「亜人間」となった白井と、ロシア研究の世界から「脱落」して「亜人間」となった彦坂の、二人の人生は、二人を排除した世界への異議申し立ての人生となった。「この社会における異分子として生きることを自分自身の宿命として選びとった」白井は、「宿命とは、自己のもっとも深いところでの選択、生涯を賭けた選択のことであろう」という。白井と彦坂の人生の選択、決断、たたかいが、私によく理解できないのは、その出発点としての選択にある。


長沼訴訟における日本で唯一の自衛隊違憲・札幌地裁判決に出会って人生のコースを変えた私は、法学部卒業後、大学院に進んで、学者、大学教授を目指した。理由は簡単だ。平和運動、人権運動、反差別運動をたたかうことである。この目的が、それ以来40年間、終始変わらぬ私の研究・教育・運動・趣味のすべてである。だから、大学院の研究会における私の反差別の報告は、ある先輩から「君、妬みでモノを言ってはいけない。そんなものは学問ではない」とばっさり切られた。しかし、反差別を止めるわけにはいかない。反差別と人権をあからさまに徹底することにし、研究テーマは「権力犯罪と人権」である。おのずと博士後期課程を終了しても職はなく、それどころか母校から追放の憂き目に遭った。おまけに一番大切な人を癌で失って酒浸りとなり、転落する一方であった。3年間、呑みつぶれていた。

法学研究の世界のどこにも行き場がなくなった私に非常勤講師の口をきいてくれたのは、別の大学、別の専攻分野の教員だった。先輩でも、研究会仲間でもなかったのに、たまたま私の研究を知っての好意だった。おかげでこの世界の片隅に引っかかって生きのびた私は4年後に、東京都の一番西の外れにある小さな美大に職を得た。法学部ではなく、美術とデザインの学生に教養科目を教えることになった。就職が決まって喜んでいる私に、ある先輩は「君、そんなところに行くのか」と冷笑した。

ところが、「そんなところ」は自由で伸びやかで、ワクワクする空間であった。研究環境は最悪だが、学者と裁判官と検察官と弁護士しか知り合いのなかった私にとって新たな世界であり、ここで私なりの生き方、研究スタイルを作ることになった。他大学に移るチャンスは何度かあったが、本当は飛びつきたいようなありがたいお誘いを返上するだけの理由が、ここにはあった。おかげで30年この場で人生を満喫してきた。そして何より、目的に打ち込むことができた。平和運動、人権運動、反差別運動である。このために研究者になったのだ。これができないなら、辞めるだけだ。

この間、縁あって、日本社会でマイノリティとして、在留資格で差別され、国民年金で差別され、出入国管理で差別され、高校無償化除外で差別され、ヘイト・スピーチの標的とされてきた人々が必死の思いでつくってきた大学校法律学科の非常勤教員もやらせてもらっている。今年で20年になる。これは私の誇りである。法律学科卒業生のうち21人が弁護士になった。私の教え子に日本人弁護士はいない。すべてマイノリティの弁護士だ。これは私の名誉である。こうした機会を与えてくれた大学校関係者と学生達に感謝、感謝である。


このように私の個人史を書いたのは、なぜか。浦野衣子が大学院修了後に専任教員になれず、非常勤講師にとどまったことを主たる契機として、欺瞞的な研究者の世界を批判し、世間を批判し、「亜人間」という言葉を編み出して、白井愛に変貌し、批判の刃を研ぎ続けたことに、半ば共感しつつも、半ば理解しかねるためだ。というのも、浦野衣子は何をしたかったのか、これがまったくわからないのだ。学者になりたかった、教授になりたかった、それはわかる。で、それで何をしたかったのか。それがまったくわからない。400頁に及ぶ彦坂の著書を読んでもわからないのだ。彦坂自身についてもそうだ。ロシア文学者になりたかった、学者になりたかった、教授になりたかった。で、それで何をしたかったのか。

学者になりたい、教授になりたいという大学院生、若手研究者をたくさん見てきた。その通り、教授になった者をたくさん見てきた。その半ばは教授になることが目的で、それゆえ教授になって以後、ろくに研究をしていない。若手の時代に書いた論文をまとめて著書を1冊出して、それ以後は入門書や解説書を書くか、御用学者になるか。セクハラ教授になって消えていった者もいる。

(もちろん、誠実に研究し続けている者も多数知っている。尊敬すべき先輩研究者、後輩研究者も多数いる。)


『亜人間を生きる 白井愛たたかいの軌跡』は、「亜人間」とそれを生み出す社会システムの徹底批判に飽くなき人生を捧げた白井愛の弟子にして同伴者でありながら、裏切りの使徒となったとされる彦坂の「たたかいの軌跡」である。

自己を切り裂くように審問し、哀れみや嘲笑の対象とされることも厭わず、白井に向き合い、自分に向き合うことで、「自分をおしつぶそうとするもの」に対して抗い続けるたたかいの宣言である。

1933年生まれの彦坂が、まだ、かくも精力的に、かくも誠実にたたかい続けていることには、頭が下がる。だが、白井から彦坂へ、あるいは本書発行者の谷口和憲へと手渡されたバトンに、果たして受け手はいるだろうか。

Sunday, August 11, 2019

スポーツの祭典/スポーツの廃墟


天野恵一・鵜飼哲編『で、オリンピックやめませんか?』(亜紀書房)


「オリンピックおことわリンク」の活動(連続講座)をもとにした1冊である。

せっかくの本だから、どこで読もうかと考えたが、ここしかない。ローザンヌのIOC本部だ。

ジュネーヴから電車で40分ほど、ローザンヌ駅で降りて地下鉄でウシー駅へ降りる。

ローザンヌの街はレマン湖に面している。大聖堂が一番高いところに建っていて、街全体を見下ろす。一番低いところがレマン湖畔のウシー駅で、港がある。遊覧船が出たり入ったりする。

その港から湖畔の遊歩道と公園が続く。すぐ隣にIOC本部とオリンピック博物館がある。IOC本部には入れてもらえないから、博物館へ続く庭のベンチで本書を読む。

昨夜はジュネーヴ花火大会を満喫したし、今日は爽やかな快晴で、光に満ちたウシーの空気を胸一杯吸い込みながら読み始めたが、残念ながら「爽やかな本」ではない。

なにしろ、【オリンピックに反対する理由の一例】は、こうだ。

・どんどん膨れ上がる開催費用

・利権の巣となる巨大イベント

・多額のワイロ

・ボランティア搾取

・野宿者・生活者の排除

・アジアの森林を破壊

・国民、子どもの動員

・パラリンピックと優生思想


「世界のオリンピック批判」「東京五輪と神宮『再開発』」「パラリンピックがもたらすもの」「オリンピックはスポーツをダメにする!?」「ナショナルイベントとしての東京五輪」「3・11と『復興五輪』」「オリンピック至上主義vs市民のためのスポーツ」「女性とオリンピック」。

どこを読んでも、なるほど、の連続。


アスリートたちの反差別パフォーマンスとして、1968年メキシコ・オリンピックの男子200メートルで金メダルと銅メダルのトミー・スミスとジョン・カーロスが黒人差別に抗議して「ブラック・パワー・サリュート」を行った話が出ている。あのときのテレビ・ニュースは見ていた。中学2年生だったので、黒人差別について初歩的知識しか持っていなかったが。

本書ではじめて知ったのは、銀メダルだったオーストラリアの白人ピーター・ノーマンも人種差別反対のパフォーマンスをしたこと、そしてオーストラリアに戻ると手痛いバッシングにあい、陸上界にはいられなくなったことだ(山本敦久「アスリートたちの反オリンピック」)。これは知らなかった。

もう一つ、当初、オリンピックから排除された女性たちが国際女子スポーツ連盟を設立し、国際女子競技会を開催したこと。クーベルタン以来、オリンピックには植民地主義がつきまとい、性差別が蔓延してきたことは知っていたが、その内実が具体的に描かれている。オリンピックへの女性の包摂が新たな排除と差別を繰り返していることもよくわかった(井谷聡子「スポーツとジェンダー・セクシュアリティ」)。


オリンピックが商業主義にどっぷり浸かり、IOCがオリンピック貴族を生みだし、資本による資本のためのオリンピックとなっている。利権、賄賂、搾取、再開発、差別、排除、優生思想、森林破壊、環境破壊。

メダルを獲得したアスリートにばかり光が当たるが、アスリートの美しい物語の背後には、壊れた精神と壊れた身体が山のように積み上げられている。オリンピックは人間を壊す。スポーツの祭典は同時にスポーツの廃墟だ。

Saturday, August 10, 2019

ヘイト・クライム禁止法(158)サウジアラビア


サウジアラビア政府がCERDに提出した報告書(CERD/C/SAU/4-9. 10 October 2016

人種的優越性、人種憎悪及びアパルトヘイトに基づく考えの流布、又は排外主義の扇動は刑事犯罪である。基本法第39条は、メディアや各種の表現に国民教育に資すること、国民統合を支持することを要請し、人間の尊厳や権利を侵害することを禁じている。放送基本法第8条は、市民の間に差別を作り出す放送をしないよう求めている。市民社会組織法第82項は、イスラム・シャリーア法に合致しない、公共の秩序を損なう、公共の品位を侵害するような結社の設立を禁じている。

イスラム問題省は宗教者がヘイト・スピーチや個人攻撃をしないようにガイドラインを発した。過激主義や熱狂主義と闘い、中庸を促進するよう計画を示している。

当局による人種差別の助長は法によって禁止されている。人権委員会は、批准した国際人権法を政府機関が適用するよう監視する。

基本法、印刷出版法、市民社会組織法に加えて、2007年の反サイバー犯罪法が制定されている。

CERDがサウジアラビア政府に出した勧告(CERD/C/SAU/CO/4-9. 8 June 2018

ヘイト・クライム/スピーチを禁止する法規定の履行と影響に関する包括的な情報がない。ヘイト・スピーチを禁止する法律を条約第四条に完全に合致させ、次回報告において、裁判所の判決、ヘイト・スピーチに関する国内法の影響について詳細な情報を報告するよう勧告する。

ヘイト・クライム禁止法(157)メキシコ


8月8日、CERDはメキシコ報告書の審査を始めた。

鄭鎮星委員が、メキシコにおけるコリアン・コミュニティについて質問していた。日本による植民地支配時代に朝鮮半島を離れたコリアンのコミュニティがメキシコにあるはずだが、どうなっているか。

中米に日本人移住者のコミュニティがあることは知っていたが、コリアン・コミュニティのことは知らなかった。メキシコ政府代表も知らないようだった。



メキシコ政府がCERDに提出した報告書(CERD/C/MEX/18-21. 25 August 2017

50以上の国際文書に明示された義務を果たすための差別予防・撤廃モデル法に基づいて、地方ごとに反差別法がある。政府差別予防委員会は文化的社会的発展、社会統合、平等の権利保障の政策と措置を行う責任を有する。委員会は私人や連邦当局による差別行為についての不服申し立てを受理し、解決する責任を有する。

2014年、ソーシャルネットワーク上の欧州評議会の「ノー・ヘイト・スピーチ運動」を導入する決定がなされ、「若者――レッテル張りしない」キャンペーンを採択し、ヘイト・スピーチと闘うインターネット行動を採用した。当初は13歳以上18歳以下を対象としたが、2015年に24歳に引き上げた。目的は、平等を求める闘いに参加しようとする人々に、ソーシャルメディアでヘイト・スピーチと闘うための情報、見解、写真、ヴィデオ映像等を提供することである。フェイスブック・キャンペーンでは22万3500人が参加し、「私の衣服は劣等性を意味しない――文化の豊かさを表現するものだ」を投稿した。ツイッターでは105万9631回アクセスがなされた。

司法領域では、被告人の人種・民族的出身が刑事手続きやその結果において刑罰加重事由とされてはならない。犯罪被害者が人種・民族の理由で被害を受けやすい集団に属する場合、判決は刑事訴訟法第410条に従い、犯罪が人種に動機を有する文脈や可能性を考慮し、有罪とされた実行犯の刑罰加重事由となりうる。

2012~16年、人種主義や人種差別に関する訴訟は8件あった。そのうち2件は判決に至った。残りは棄却されたか、又は訴追に至らなかった。

差別被害者が司法手続きの費用や複雑さ故に困難があるので法律扶助がある。

民事訴訟でも人種差別被害者は証明責任を十分果たせないことがあるので、裁判所決定によって援助がなされる。先住民族発展委員会を通じて、住居、健康、子どもの養育、エコツーリズム、食料、文化、放送等に支援をするのと同様である。先住民族の権利保護のための法律扶助は、25州で実施されている。

Friday, August 09, 2019

トランプ現象に見る民主主義の危機


ミチコ・カクタニ『真実の終わり』(集英社)

原題はThe Death of Truth. Notes on Falsehood in the Age of Trump. 

フェイク・ニュースやプロパガンダがはびこる現在、しかも意識的にフェイクを利用し、発覚しても開き直るのが当たり前になってしまった時代。書籍、TV、そしてインターネットと情報手段が豊かになればなるほど、人々が「情報難民」と化し、民主主義が揺らぎ、全体主義が顔をのぞかせる現代の謎に迫る。

著者はワシントン・ポストやニューヨークタイムズに勤務した書評担当、特に文芸担当の記者で、1998年にはピューリッツァー賞を受賞したという。

本書はトランプ現象を正面から取り上げ、ポスト・トルース、フェイクが論壇から政界までを食い物にしている現状を嘆く。そのため、単にトランプやその取り巻きの発言だけではなく、長期にわたる情報化社会の諸言説を取り上げて、分析する。アーレント、ハクスリー、オーウェル、ボルヘス、エーコ、フィリップ・ロス、ピンチョン等々の発言も縦横無尽に活用しながら、現代における民主主義の危機を読み解く。

おもしろいのは、ジャック・デリダをはじめとするフランス現代思想を、相対主義に道を開いたものと位置づけ、今日のフェイクの流れにあるかのように描いているところだ。アメリカ的発想からすると、デリダはトランプのお友だちと言うことになるようだ。


トランプ批判としてはよくできた、説得的な本だ。博引旁証であり、さすがピューリッツァー賞と思う。
だが、最初から最後まで違和感を禁じ得ない。デリダへの視線もその一つなのだが、これに限られない。本書の通奏低音となっているのは、実は「アメリカ・ファースト」である。トランプは「過激なアメリカ・ファースト」だとすれば、カクタニは「穏健なアメリカ・ファースト」だろう。

「はじめに」から、本文、そして「終わりに」に至るまで、随所で延々と繰り返し取り上げられるのが、ロシアの米選挙介入問題だ。その中身に立ち入った議論をしていないが、話題は常にこれだ。トランプのフェイクの最大の特徴がロシア問題となる。カクタニにとっては、ロシアの介入問題こそが現代民主主義の危機の中核である。

それはそれで結構だが、アメリカが過去数十年にわたって、世界各地の政治・経済・社会に介入し、軍事行動に出てきたことには、カクタニは絶対に触れようとしない。カクタニにとって、アメリカに対する介入は犯罪的であり、許せないのだが、アメリカからの介入には何も問題がないのだ。

政治介入、軍事介入、政権転覆、ありとあらゆる介入の総本山がアメリカだが、「アメリカ・ファースト」のカクタニにとって、それはあたり前のことなのだろう。
視野が狭いというか、ご都合主義というか、知識が多くても良識は育たない典型例というか。




Thursday, August 08, 2019

ヘイト・クライム禁止法(156)エルサルバドル


8月7日、CERDはエルサルバドル報告書の審査を始めた。冒頭にエルサルバドル政府からのプレゼンテーションだったが、政府代表団の一員が先住民で、先住民族の言語で挨拶し、本文はスペイン語だったが、最後に再び先住民の言葉で締めくくった。

アイヌ民族が日本政府を代表して、アイヌ語でプレゼンテーションする日はやってくるだろうか。


エルサルバドル政府がCERDに提出した報告書(CERD/C/SLV/18-19. 14 September 2018

刑法第292条と第246条は人種又は出身に基づく差別事件の制裁を定めている。2015年、議会は刑法第129条と第155条を改正した。第129条は、人種、民族、宗教又は政治的憎悪に動機を持つ殺人、ジェンダー、ジェンダー・アイデンティティ、ジェンダー表明、又は性的志向を根拠として行われた殺人を加重殺人罪とし、30年以上60年以下の刑事施設収容に刑を加重する。刑法第155条は、人種、民族、宗教又は政治的憎悪に動機を持つ加重脅迫罪を、ジェンダー・アイデンティティ、ジェンダー表明、又は性的志向も含むようにした。

憲法第3条は平等を被差別の規定であり、人種等に基づく差別を禁止する。差別的又は人種主義的プラットフォームに反対する措置については、人種差別を助長・扇動する組織活動や宣伝活動は存在しない。そうした活動には刑法第292条が適用される。

CERDの一般的勧告15号及び35号に関して、CERDはエルサルバドルに条約第4条と国内法の調和を勧告した。平等権と被差別権について、憲法第63条を改正した。2016年8月、議会は被差別に関する文化法第30条を改正し、「国家は先住民族に、その自由、平等、尊厳、及び民族、性別、宗教、慣習、言語その他の地位に基づく差別から自由に生きる権利を保障する」とした。第11条は先住民族の権利の尊重、第12条は文化の平等の権利を定め、文化を理由とする差別も禁止している。

Rocalis、Saint-Saphorin, Bernard Bovy, 2017.

外の前に内を騙し、統制する技法


山崎雅弘『歴史戦と思想戦――歴史問題の読み解き方』(集英社新書)


産経新聞をはじめとするいわゆる「右派」が内外で仕掛けている「歴史戦」とは何か。

『日本会議』の著者・山崎は、産経新聞や右派の著作を渉猟し、「歴史戦」の由来、目的、方法論をつぶさに明らかにする。「歴史戦」は、歴史研究とは関係がない。事実を解明することには関心がない。歴史の教訓という発想もない。あるのは、日本は正しい、日本の戦争は悪いことはしていない、という結論を先取りして、それに都合の良い素材を並べ立て、日本を擁護し、自分を擁護し、同時に他者を貶める思想運動である。

それゆえ、「歴史戦」の方法は、かつての大日本帝国が行った「思想戦」と酷似する。実体はプロパガンダだからだ。一方的に宣伝すること、押しつけること(他者にも自分自身にも押しつけ続ける)、異論を排し、抑圧すること。ここでは、議論を通じて新たな知見を獲得することは否定される。予め定めた結論を押しつけることだけが目的となる。

それゆえ、「歴史戦」は、「歴史研究」の敵対物となる。まじめな歴史研究は障害となる。

「慰安婦」問題や南京事件に限らず、あの戦争で日本が犯した戦争犯罪や人道に対する罪はことごとく否定と矮小化の対象となる。それどころか近現代日本史全てが美しき物語りでなければならず、あらゆる欺瞞が積み重ねられる。山崎は、こうした「歴史戦」の特質を如実に浮き彫りにする。

「思想戦」のことは知っていたが、「歴史戦」と「思想戦」を類比して、丁寧に説明されると、なるほどそうだったのか、と納得。ドイツでも日本でも、総動員体制の戦争遂行には、「銃後」が重視される。対外的な自己正当化の前に、内部を固めなければ戦争遂行に妨げとなってしまう。外の前に内を騙し、統制する。そのためにはまず自分を偽る。欺瞞を信じる。確信する。一切疑念を持たない。これが出発点だ。

Wednesday, August 07, 2019

ヘイト・クライム禁止法(155)ポーランド


8月6日、国連欧州本部の会議室で人種差別撤廃委員会CERD99会期におけるポーランド報告書の審査が始まった。いつもは人権高等弁務官事務所ビルの会議室で開かれるが、今回は国連欧州本部・旧館の本会議場の上階にある会議室だ。

ポーランド政府がCERDに提出した報告書(CERD/C/POL/22-24. 22 August 2018

2012年10月29日、検事総長は、私人訴追による事件への検察官関与についてのガイドラインを発した。インターネットにおけるヘイト・スピーチ事件(差別等の理由による中傷・侮辱事件等)の訴追に関するガイドラインで、検察官訴追事案ではなく、私人訴追事案についてのものである。犯罪が電話やインターネットで行われた場合、被害者が実行者の個人情報を特定することが困難である。こうした事案では、私人訴追が成された際に実行者の個人情報を被害者に開示するか否か、検察官は公共の利害を判断するよう求められる。

2014年10月27日、検事総長はインターネットを通じてなされたヘイト・スピーチに関して検察官ガイドラインに署名した。これには証拠保全・記録、NGOを含む諸機関との協力、非刑罰的措置に関する事項が含まれる。

インターネットにおけるヘイト・クライムと闘う場合、手続きの効果的運用に制約がある。例えば、外国に登録した企業所有のウエブサイトを通じてなされた憎悪扇動犯罪の訴追には法的援助が求められる。当該ウエブサイトが閉鎖され、別のアドレスで再開している場合も困難がある。

2016年12月1日、警察庁サイバークライム対策部局が設置された。ソーシャルメディア、ウエブフォーラム、ウエブサービス等の監視を行う。刑法に定められたヘイト・スピーチ犯罪を発見した場合、責任者の個人応報を確認する予備捜査が行われる。続いて当該情報が管轄警察部局に送付される。認知部局の24時間サービス局を配置し、ユーザーがインターネットで不適切情報を通報できるようにした。

2014年10月1日、警察庁と警視庁はサイバークライム対策特別局を設置し、ヘイト・クライムを検知するためのインターネット監視を行っている。

2017年8月31日の決定により。サイバークライム対策部局に担当責任者が任命された。2017年9月28日以来、担当責任者が職務を遂行している。

刑法119条、190条、255条、256条i、257条に該当する犯罪の内容を持つウエブサイトを特定した場合、その所有者の特定がなされる。当該情報は検察官に送付され、更なる手続きを要するか否かの判断がなされる。ここでも困難の一つは、当該サーバーが外国領域にある場合である。人種憎悪を助長するウエブサイトの所有者に対する措置の効果は、外国当局による法的援助の要請を実現できるかどうかにかかっている。

ICERD4条(c)に関連して、1997年のポーランド憲法13条は、全体主義、ナチス、ファシズム、共産主義、人種的国民的憎悪目的の組織は禁止されるとしている。憲法188条は正当の目的や活動に関する審査を憲法裁判所の管轄と定めている。政党法14条は政党登録に関する事案をワルシャワ地裁の管轄としている。1989年の結社法29条は、結社が違法行為を行った場合の司法手続きを定めている。 

前回審査の結果としてCERDが裁判官や検察官などへの研修プログラムの重要性を指摘したため、報告書は、刑事訴訟法335条1項のもとでの、ヘイト・クライムの訴追率を報告している。2012~15年には15.4%~18.6%だったが、2016年には約20%になった。

2014~16年に収集されたヘイト・クライム情報によると、実行者を特定できない事案が減少し、新規件数よりも終結件数が増加した。

犯罪の訴追にかかわる職員への研修が実施され、2009年以来、司法・検察研修所によって裁判官及び検察官への人権教育を行っている。教育課程において人種差別撤廃条約が主題とされている。

検察庁はヘイト・クライム訴追に関する会議を開催しているが、2012年6月13日には「ヘイト・クライム被害者」という会議であった。2015年9月、司法・検察研修所は「検察官とヘイト・クライム研修」を共同実施するためOSCE民主制度・人権局と協定した。研修は2015年と16年に実施された。

警察庁は2012年と16年にヘイト・クライム研修プログラムを実施した。2016年4月29日、新しい研修プログラム「法執行官のための反ヘイト・クライム研修」を作成した。職務中にヘイト・クライムに直面する警察官がヘイト・クライムと闘うのに必要な知識を提供する。ヘイト・クライムに関連する捜査活動、適切な対応、予防、被害者の処遇を全国的に教示する。2017年6月までに10万人の警察官がこの研修を受けた。

警察庁犯罪局は、ヘイト・クライムと闘うために2015年に内務省と協力して「人種主義・排外主義犯罪と闘う」という研修を採用した。偏見に基づく犯罪やインターネット上の犯罪と闘うための法的側面に焦点を当て、ヘイト・スピーチと表現の自由に関する国際法を学ぶ。2015~17年には119人の警察官、刑事施設職員がワークショップに参加した。

<公開学習会> ヘイトクライムはなぜ起こるのか


第27回 歴史を語る・平和を語る<公開学習会>



ヘイトクライムはなぜ起こるのか

~~その背景と内実を考える



お話:前田 朗(東京造形大学教授)



日時:2019年8月24日(土)14:00~16:00

会場:ソレイユさがみ セミナールーム2

   JR横浜線・京王線 橋本駅北口 橋本イオン6階

資料代:500円(学生無料)



今、日本では人種差別撤廃条約が求める「人種差別禁止法」の制定が急務である。「ヘイトクライム法」はその中の人種主義や人種差別による刑事犯罪の規制を中核とするもの。

今起きている政治・ネット上・生活上などのさまざまな人権侵害・ヘイトスピーチ!

その背景・土壌・内実を学び一人ひとりの人間的尊厳が守られる社会をつくるためにともに考えてみませんか。



主催:学習グループコスモス

090(4378)9257

Tuesday, August 06, 2019

トランプ主義憲法学に学ぶ


篠田英朗『憲法学の病』(新潮新書)



日本国憲法9条の意味内容は単純明快で誤解の余地がないのに、憲法学はこれをねじ曲げ、ずたずたにしてきたという篠田は、「憲法学通説」は学問以前であり、ガラパゴスであると猛烈な批判を続ける。篠田は、以前からあちこちでこの批判を表明してきたが、1冊の新書でわかりやすく解説している。

明快な論説だ。篠田によると、憲法9条は、国際法に従って読むべきである。大西洋憲章を経て国連憲章に結実した国際法に基づいて憲法9条を読めば、その意味は直ちに明らかになる。憲法学通説は、国際法を無視して、憲法9条の条文の表面的な意味にとらわれたために、9条を平和憲法だなどとねじ曲げ、自衛隊違憲論を唱えたかと思うと、「個別的自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲」などという奇怪な結論を出してきた、という。憲法学が国際法を十分にふまえてこなかったという批判にはうなづけるものがある。

爽快な論説だ。「憲法学通説」――東大法学部の憲法学教授であって、憲法9条について平和主義を唱え、平和憲法を論じる憲法学者や、他大学にいても東大法学部出身で同様の主張をする憲法学者――具体的には、宮沢俊義、小林直樹、芦部信喜、樋口陽一、長谷部恭男、石川健治、木村草太など。篠田は、彼らの主張はおよそ学問ではない、ガラパゴス憲法学だ、という。東大法学部の権威をなで切りする爽快な論説である。

痛快な論説だ。自衛隊違憲論はもとより、「個別的自衛権合憲、集団的自衛権違憲」論は、9条論としても国際法論としても、なかなか厳しいところがあるのは否めない。日本の議論状況が捻れているからだ。わかっていて、誰も踏み込まなかった論点に篠田は単身、敢然と正面から斬り込み、右を切り捨て、左を切り伏せ、シャープに論陣を張る。篠田剣士の痛快天国だ。

宮沢俊義――大日本帝国を賛美していた男の「8月革命」と平和主義の欺瞞を徹底批判する。

芦部信喜――国際法と隔絶した「ガラパゴス憲法学」の家元として徹底批判する。

長谷部恭男――立憲主義などと言っているが実は権威主義に過ぎないと暴露。

石川健治――ニューアカ的な意味不明の論文で珍奇な「クーデタ」説と一蹴。

木村草太――「軍事権」などというが法的根拠不明で問題外と厳しく追及。

といった調子の、軽快な論説だ。すでに『集団的自衛権の思想史』という研究書を出し、『ほんとうの憲法』で提示した論点を、批判対象を憲法学通説に絞り込んで、わかりやすく書いているので、最後まで軽快なタッチで論述している。

というわけで、とても面白く読める新書だが、論理的説得力という点ではかなり難がある。少しだけ疑問を書いておこう。


国際法に照らして憲法を読むのはそれなりに正当である。私も、憲法12条や21条を国際法に照らして解釈するべきだと主張してきたので、篠田の主張内容もわかるし、いらだちも良く理解できる。しかし、不思議に思う箇所が少なくない。

第1に、憲法の条文をいきなり国連憲章の言葉に置き換えるのはやはり適切とは言えない。国連憲章の理念、目的、表現を参照して日本国憲法の位置づけを行うことは必要だが、条文解釈にいきなり持ち込むのはかなり乱暴だ。

第2に、篠田が言う国際法は、国連憲章以後の現代国際法だけであり、ウエストファリア条約以来数百年かけて積み上げられてきた国際法はほとんど無視する。全く別物であるかのように切り離して、前者だけを特別扱いする。不思議だ。

第3に、篠田が言う国際法は、アメリカが主導して作った国際法だけである。例えば国際人道法ではハーグ法やジュネーヴ法が語られるように、多様な主体が多様な協調形態の歴史を積み重ねて作ってきた国際法なのだが、篠田はそうした側面は一切捨象する。篠田にとって、アメリカがつくった国際法だけが国際法である。だから、国際法を尊重しない憲法学者を、篠田は「反米だ」と決めつけて非難する。憲法9条も「アメリカ―国連憲章―9条」の文脈だけが意味を持つという。それ以外の側面を考慮する憲法学は「反米」である、という。篠田にとって、アメリカを批判するのが「反米」ではない。アメリカの言いなりにならないのはすべて「反米」なのである。篠田は「反米」というカードが決定的で圧倒的な切り札だと確信している。仮に篠田に対して「従米」とか「属国」などという批判があっても、篠田は意に介さないだろう。100%アメリカ言いなりこそ人のあるべき道なのだから。汝、アメリカに疑念を抱くべからず。

第4に、具体的な9条解釈を見てみると、篠田は洗練かつ秀麗な方法で解釈する。



第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。



篠田の9条解釈は、国際法に則って、条文の順序を乱すことなく、整合的に解釈する方法によっている。端正かつ合理的である。その結果、おいしいところだけをつまみ食いする憲法学通説は批判される。9条2項の趣旨に従って9条1項を解釈し直す手法をとる憲法学通説は非難される。それでは篠田は9条をどう解釈するか。1点だけ紹介しておこう。篠田は次のように主張する。

9条2項は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とする。戦力とは戦争遂行能力のことであるから、陸海空軍は戦力の例示に過ぎない。だから「戦力としての陸海空軍」は保持できないが、「戦力ではない陸海空軍」は保持できる。つまり、9条は次のように書いてあると読むのが自然だ。



2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しないが、戦力でない陸海空軍は、これを保持する。国の交戦権は、これを認めない。



篠田によると、当然のことながら、国家には自衛権があり、国連憲章は個別的自衛権も集団的自衛権も認めている。軍隊のない国家などあり得ないし、自衛権のない国家もあり得ないし、集団的自衛権のない国家もありえない。だから、憲法9条は個別的自衛権も集団的自衛権も認めている。それゆえ、9条は次のように書いてあると読むべきことになる。



2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しないが、戦力でない陸海空軍は、これを保持するので、戦力でない陸海空軍はアメリカとの集団的自衛権を行使する。地球上どこへでも出かけ、宇宙空間にも出かける。国の交戦権は、これを認めない。



篠田によれば、国際法の知識と憲法条文に忠実な解釈をすれば、このような趣旨になるようだ。9条は特別な平和主義を意味する条文ではなく、現代国際法に従い、アメリカと軍事同盟を結ぶための条文である。日米安保条約は9条の正しい適用結果である。自衛隊は、戦争さえしなければ良いのであって、その都度、「戦争ではない」「戦力ではない」と言っておけば足りる。その上で米軍とともに世界中どこへでも出かけて、軍事行動をするのが適切である。国連憲章は核武装を禁止していないから、核武装も当然の権利である。これと異なる主張をする憲法学通説は「反米」であり、ガラパゴスである。本書の随所でガラパゴスという言葉が何度も何度も踊る。

篠田は憲法前文についても、国際法に従った読み方を提示し、特に国際協調主義を重視する。これは正当な指摘だ。ところが、篠田は、前文の解釈を詳しく展開しながら、平和的生存権の部分だけは無視する。言及さえしない。軍事力行使の妨げになる平和的生存権を認めると都合が悪いのだろう。2016年、国連は「平和への権利宣言」を採択したが、アメリカはこれに反対した。アメリカが反対する平和的生存権を主張するのは「反米」であるに違いない。国連は「反米」であることになるだろう。

篠田の徹底ぶりには感心するが、どこが憲法解釈と言えるのか、はたして常人に理解できるだろうか。トランプ主義憲法学についていけそうにない私も、ガラパゴスなのだろう。ガラパゴス諸島には行ったことがないが。






なお、2017年に水島朝穂(早稲田大学教授)が篠田説を徹底批判している。

憲法研究者に対する執拗な論難に答える(その1)~(その4)








「トランプ主義憲法学」という、聞き慣れない言葉を用いたので、どういう意味かと、友人から問い合わせがあった

明確な定義をしているわけではないが、2つの特徴で考えている。

第1に、アメリカ・ファーストである。これは説明を要しないだろう。対米従属以外は、すべて「反米」とされる。

第2に、議論の土俵を壊す。永年の議論の蓄積によって形成されてきた土俵そのものを認めない。ちゃぶ台返しである。そして、身勝手な言葉、気まぐれな定義を振り回す。自説と異なる見解をフェイクと罵倒する。

これが「トランプ主義憲法学」だ。「アベシンゾー憲法学」とも言えるかも。



Monday, August 05, 2019

レオポルド美術館散歩


ウィーンの王宮街の隣に、博物館街がある。10もの博物館が複合した博物館・美術館施設である。その一つのレオポルド美術館に行ってみた。

メインは「ウィーン――1900年」という企画展だった。文字通り「世紀末ウィーン」をテーマとしているが、それかではない。都市生活の近代化もかなりウエイトを占めている。

展示の中心は、絵画では、エゴン・シーレだ。クリムトからシーレへの流れで位置づけているのは当然。もちろん、クービン、クリムト、モーザー、ワグナー、ベッケル、ドブロフスキーなど多彩な画家の作品が多数あったが、中心はシーレ。シーレと言えばなんと言っても自画像だが、他にも、死んだ母親、死んだ都市、喪に服す女、日没、海沿いの家、横たわる女等、充実していた。クリムトが少ないのは、日本に貸出し中だからか。

もう一つは、世紀末のウィーンの街を展示していた。街の様子の写真にはじまり、建築、そして室内装飾も独自に扱っていた。椅子や机などの家具が近代化していく過程だ。バウハウス以前のデザインはこういうものだったと納得。

モーザーの作品は特に注目。絵画だけでなく、ポスターや家具のデザインもしていた。モーザーのインテリアを配置して、壁にはモーザーの絵画。若いカップルのための室内装飾の例。

作品は1850年代から1915年頃までのものがあり、世紀末に限定されていないが1900年頃のウィーンを、世紀末ウィーンという側面と、近代化した都市生活という側面の両者がわかるように展示していた。

レオポルド美術館の小さなカタログと、シーレの作品集を買ってきた。ウィーン美術史美術館とあわせて、授業で1回取り上げよう。ちょうど日本ではクリムト展だから学生の関心も高い。

「表現の不自由」展中止事件に寄せて(2)


MLDMでいくつか質問いただいた。論点は次の2つだ。



1に、これまでの美術館展示に対する抗議(例えば森美術館における合田誠展への抗議)と、今回の愛知トリエンナーレへの抗議に、違いはあるのか。

2に、展示するならきちんとした位置づけと工夫を、というが、具体的にどういう方法がありえたのか。



以下では、この2点を中心に書くが、私もまだまだ議論の整理ができていないところがある。具体的な状況を知らないし、日本の議論状況も知らないためである。






第1に、なんと言っても、今回の事件の本質を忘れるべきではない。



すでに多くの人が指摘しているように、河村発言、菅発言に始まる中止決定は、検閲であり、表現の弾圧である(大村知事がまともな発言をしたようで、少し安心)。河村・菅発言は、検閲であるだけでなく、テロを煽った。このことをもっと強く打ち出して批判するべきである。権力がテロを煽り、テロ予告脅迫が出たのを幸い、展示中止決定に持ち込むという卑劣なやり口を許してはならない。「現に脅迫予告がきたのだから、安全確保のために中止したのは当然で、テロに屈したわけではない」というのは、検閲を正当化するための欺瞞に過ぎない。



第2に、先に書いた主催者の安直さと無責任の件、直感的に思ったのは、カイロやメッカの美術館で「ムハンマド爆弾投下漫画」や「ムハンマドのポルノ漫画」展覧会を開催して、「作品の評価はしません。みなさん、とにかく自分で見て自分で判断してください」と嘯いた芸術監督が、暴動が起きた後に、「想定外でした」とコメントするシーンである。



ローマやパリの教会ホールで「イエスとマリアのポルノ漫画」展を開催して、「中止要請の脅迫電話はけしからん」と言いながら「安全のためやむを得ない」と中止するシーンである。



今回、津田大介監督がやったことは、同じではないが、同じレベルのことである。そのことを自覚していないのが、驚愕。



3に、表現の自由は、本来的には国家権力との関係での表現の自由である。個人の人格権の発露である表現の自由に対する権力による介入の問題である。私人が森美術館に要請行動するのと、名古屋市長や官房長官がメディアを通じて権力的に恫喝するのとは全く異なる。



ただし、表現の自由の根拠には、人格権だけでなく、民主主義がある。表現の自由を保障しなければ民主主義は実現できない。それゆえ、博物館・美術館における展示の憲法的意味を考えるときは、人格権と民主主義に照らして考える必要がある。



平和を希求する少女像の芸術的価値と平和のメッセージを最初から、正面から掲げて、女性に対する暴力や武力紛争のない社会を目指す展示であることを、きっちり打ち出すべきであった。論争はこのレベルで行われるべきだった。制作者や「表現の不自由・その後」実行委員会はもちろん十分自覚し、そのためにずっと努力してきたのだ。



愛知トリエンナーレ会場で実際にどのような説明と配置の元に、どのように展示が行われたのか、知らないので、この点を具体的に深めた議論をすることができない。



4に、先に「どのように準備・実施するべきだったのか」とし、「棲み分け」や「討論の場を設ける」と書いたことについて、より具体的にとの要望があった。これは簡単だ。



名古屋トリエンナーレは公的機関が主催する巨大イベントである。正確な金額は知らないが、予定されていた補助金だけでも数千万円だという。



私的団体が行う小規模展示とはレベルが違う。名分が立ち、権威があり、予算がある。ならば、話は簡単だ。女性に対する暴力や武力紛争のない社会を目指す展示であることを打ち出せば良いだけのことだからだ。そのために何が必要かを考えれば良い。



戦時性暴力を主題とするのだから、誰でもすぐに思いつくはずだ。例えば、2018年のノーベル平和賞のコンゴ民主共和国のデニ・ムクウェゲさんか、イラクの少数派ヤジディー教徒の権利擁護を訴えてきた活動家のナディア・ムラドさんを招請して、講演してもらうのが一番だ。戦時性暴力に取り組んできた世界のNGOから講師を呼んでも良い。開会日に設定できればベストだ。



それが無理なら、戦時にこだわらず、性暴力問題を主題として、例えば、アメリカから#MeToo運動の関係者をお招きして、トークセッションを行う。世界各国から来てもらえる。日本からは例えば詩織さんに語ってもらえると良い。ついでに麻生太郎を呼ぶといい(これは冗談)。



会期中には、「慰安婦」問題も含めて、さまざまな性暴力問題のトークセッションを設定する。例えば、実行委員会に永田浩三さんがいるのだから、西岡力さんを招いて対話すると良い。あるいは、植村隆さんと櫻井よしこさんに対話をお願いする。その場合は、椅子に限りがあるから一定の規制は必要だが、櫻井よしこさんのお友だちのための席を半分確保する工夫をする。



少女像とは何であり、何を目指すのか。このことを打ち出して、そのための討論の場を設定するとは、こういうことだ。私一人でも10や20のアイデアが出てくる。みんなで準備すれば100も200もアイデアが出るだろう。その中から具体化していけば良い。

誰も知らなかったフォッサマグナ


藤岡換太郎『フォッサマグナ』(ブルーバックス)

日本海側の新潟県糸魚川市から、太平洋側の静岡県清水市や神奈川県足柄平野に至る地域をフォッサマグナという。日本列島の真ん中を横切るフォッサマグナ。事実、日本列島は東西で地質的に全く異なっている。地層や岩石が違う。植生も違うという。

このことはたぶん中学生の頃に教わった、と記憶する。フォッサマグナという言葉はずっと知っていた。

しかし、中身は全く知らなかった。

1500万年前に生まれた深さ6000メートル以上の巨大な溝だという。

その上に数々の火山や堆積物が積み重なっている。世界で唯一の巨大構造。

東西を分断するだけでなく、南北も分断する。

西日本からの中央構造線をかき消してしまう。

フォッサマグナと名付けたのは、ナウマン象の由来となった学者ナウマンだそうだ。

フォッサマグナがわかれば、日本列島形成の謎がわかる。日本海形成の謎もわかる。

大筋はプレートテクトニクスだが、それだけで全て説明できるわけではない。

フォッサマグナの補助線を引くことで、東アジアの全体構造が見えてくるはずだ、という。

写真、地図もふんだんに使って、わかりやすい文章で、フォッサマグナの謎に迫る。まだまだわからないことが多く、謎の全てが解明されたわけではないが、面白く読める本だ。

Sunday, August 04, 2019

「表現の不自由」展中止事件に寄せて


愛知芸術祭(あいちトリエンナーレ2019)における「表現の不自由」展中止事件は、日本という国の「表現」をめぐる混迷と無責任ぶりを再確認させる事態であった。在外の私には、日本における議論状況が今ひとつよくわからないため、本件について正面から論じることは難しい。



事件の経過と本質的な問題点については、すでにいくつかの声明が出されている。署名運動も行われている。

「表現の不自由・その後」実行委員会


日本ペンクラブ


日本軍「慰安婦」問題解決全国行動


基本的にはこれらの声明に賛成である。基本的には、というのは、小さな点では認識が異なる部分もあるからだが、本筋はこれらの声明に尽きていると思う。



以下では、私なりに重要と思う点を、今後の議論につなげるために書き留めておきたい。



第1に、そもそも愛知芸術祭における「表現の不自由」展の位置づけがよくわからないというか、まともな位置づけがなされないまま事態が進行したことが残念である。

津田大介芸術祭監督は、開催以前にも、問題が浮上した後も、「実物見て、判断する場を」と述べつつも同時に「実行委員会はこの展示に賛否を表明しない」という趣旨のことを繰り返していた。これは「表現の不自由」展全体のことだが、実際には平和の像(少女像)のことだ。このことは、少女像が提示している問題(そこには日本軍性奴隷制をめぐる論争が含まれる)についての立場表明をしないという意味である。

換言すると、ある作品を芸術祭で展示するに際して最高責任者である芸術祭監督が作品評価を控え、いろいろ並べておきますから見る人たちが自由に判断して下さい、と述べている。だから、河村名古屋市長が「慰安婦は事実でない可能性がある」「日本国民の心を踏みにじるものだ」と騒ぎ立てたのに対して、津田芸術監督は、事実であるか否かについては何一つ言及せずに、「関係者にご迷惑をおかけしました」と応答した。このことがマスコミで報道されたため、「慰安婦はいなかった」論に勢いをつける結果となった。



第2に、主催者(監督、実行委員会、博物館であれば学芸員)による作品評価抜きに、「ともかく展示しますので、みなさんご覧になって判断して下さい」という展覧会はもちろんあり得る。初めて展示される作品で、その評価が難しい場合、評価が分かれることが強く予測される場合である。

しかし、少女像はこれとは違う。評価が大きく分かれたのは、以前からのことであって、しかもそれは芸術作品としての評価と言うよりも、政治的論争ゆえの評価の分岐・対立であり、日韓という国家間の政治対立である。これだけはっきりと評価が分かれ、政治問題となってきた作品を展示するに当たって、主催者の評価抜きに「みなさん、どうぞ」などということはあり得ない無責任である。

津田芸術監督の事前と事後の発言、及び関係者の声明を見ると、ひたすら「表現の自由」だけが語られている。そこには「表現の責任」という観念が欠落している。私は長年「表現の自由だけを議論すべきではない、表現の自由と責任を同時に議論するべきだ。憲法21条と12条を議論すべきだ」と主張してきた。

前田朗「表現の自由と責任 : 博物館法における社会的責任」ポルノ被害と性暴力を考える会編『森美術館問題と性暴力表現』(不磨書房、2013年)

前田朗『メディアと市民――責任なき表現の自由が社会を破壊する』(彩流社、2018年)


ところが「表現の自由」だけを語るジャーナリストや憲法学者からは、私の見解は無視されてきた。明確に拒否された場合もある。たまたまそうなったのではなく、意識的自覚的に「責任なき表現の自由」が語られてきた。残念ながら、その延長上に今回の事態がある。

「すべての表現を自由にして、観る者が判断するべきだから、少女像を撤去すべきでない」という主張は、「慰安婦の真実展も同じ会場に並べるべきだ」「南京大虐殺はなかった展に税金を支出するべきだ」「ヘイト・スピーチ・パフォーマンス展をやるべきだ」という話につながってしまう。

表現の自由についてまじめに考えたことのある者なら、表現の責任も考えるはずだ。そして、アーティストの表現の自由と、学芸員(監督、実行委員会)の表現の自由についても考えるはずだ。それが十分成されなかったのが今回の事態である。だから、津田芸術監督は「私の責任です」と軽々しく述べて、展示を中止させ、自分の地位だけは守った。今後は権力におもねり、忖度しながら遊泳していくのだろう。



第3に、中止の理由があいまいなままである。

最終的には安全性の確保が理由とされた形になっているが、そのための警備強化や犯罪捜査がきちんとなされていない。都合の良いときだけ「テロを許すな」と叫びながら、簡単に「テロ予告に屈して中止した」。

河村市長は「慰安婦は事実でない可能性がある」「日本国民の心を踏みにじるものだ」「日本政府の見解と違う」と主張し、菅官房長官も公金支出に言及した。この結果は明白だ。今後、「慰安婦」問題に関連して、公金支出は否定される。公共空間における展示も拒否される。公民館における「慰安婦」問題集会の施設利用も拒否されていくだろう。

こうした事態を放置しておくと、あらゆる公金支出に話が及ぶ。国立大学の授業では「慰安婦」問題を正面から取り上げることは難しいと聞く。今後は私立大学でも同じ事になるだろう。私学助成金を受給している大学では政府の見解と異なる授業をするな、という異様な主張が根拠を手にした。となると、学術研究費の問題にも波及する。

「政府の見解と異なる」という理屈がまかり通ること自体、あってはならないことだ。実際には、安倍首相の個人的信念を最優先している。ここでも「国家の私物化」が起きているのだ。



第4に、さかのぼって、どのように準備・実施するべきだったのかも書き留めておこう。学芸員ならば、すぐに思いつくレベルの話だ。

津田芸術監督は「想定を超えた」という表現をしたようだが、これも無責任な言い訳に過ぎない。いま、日本で少女像を公共空間で展示することがこうした反応を引き起こすことを予想できなかったなどというのは、あまりに幼稚で無責任である。まともな学芸員がついていれば、事前に対策を練っていたはずだ。

まずは「棲み分け」である。展示のブロック化、エリアの設定、入場者の限定などの方法がある。それから、窓口の一本化である。今回で言えば、異議や苦情の電話先をまずは津田芸術監督(及び/又は「表現の不自由」展実行委員会)にしておくことだ。対応能力のない現場職員に押しつけてはならない。さらに、現場での対話方式である。実行委員が会場に立ち会って、入場者に説明や応答をする。できれば、作者、実行委員会、入場者の討論の場を設ける。

方法はいろいろある。ただ、公的な場、自治体主催、公金支出のトリエンナーレで、こうした方法を採用するのは容易ではない。だから、さぼったのかもしれない。

前田朗「<博物館事件>小史」ポルノ被害と性暴力を考える会編『森美術館問題と性暴力表現』(不磨書房、2013年)

今回の事態は、これまでの議論の積み重ねを一気に無にしたと言って過言でない。残念だ。

ウィーン美術史美術館散歩


ステファン教会前通りでパスタ・ボロネーゼを食べてから地下鉄に乗り、地下鉄から地上にあがって、自然史博物館の脇を抜けると、中庭にマリア・テレージア像が鎮座している。その目線はハプスブルク王宮に向けられている。王宮、新王宮、そして通りを隔てて自然史博物館と美術史美術館が並列する。

美術史美術館の全体を見る時間の余裕がないので、絵画だけ見てきた。絵画だけでも、ゆっくり見る時間がないので、2時間ほど駆け足でざっと見たにとどまる。ここはハプスブルク家が500年支配した中西欧の美術品の宝庫で、1781年にコレクションとして開設されたという。ルネサンス・イタリアの美術作品は少ないが、それ以外、ヴェネチア絵画、イタリア・バロック、オランダ・フランドル、ドイツ、そしてイギリス、フランスの近世近代の絵画が収められている。

ハプスブルク家にとっては、戦争など軍事力による支配ではなく、王家の間の政略結婚や美術品贈答を通じての友誼関係と外交交渉による支配がめざされていた。このため、美術品収集も、王家の必要に発したためもあって、長期にわたる西欧美術の傑作を多数集めているにも拘わらず、当初はかならずしも系統的ではないという。

ヴェネチア、マニエリスム、バロックでは、マンテーニャ、ジョルジョーネ、ティチアーノ、ヴェロネーゼ、ラファエロ、コレッジオ、パルミジャーノ、カラヴァッジョ、ルカ・ジョルダーノ、カナレットといった調子で、どこまでも並んでいる。カニャッチのクレオパトラの自殺。コレッジオのガニメデの誘拐、ティントレットのスザンナを見ることが出来たのは良かった。

オランダ・フランドルでは、ルーベンス、ヴァン・エイク、ボッシュ、ブリューゲル、アルチンボルド、フェルメールの絵画芸術、ライスダール、ファン・レインだ。ブリューゲルのバベルの塔、冬、農民の踊り、農民の結婚式。ルーベンスのメデューサ。

ドイツでは、デューラー、クラナハ、ホルバイン、ハイムバッハ、メングスなど。デューラーの1万人のキリスト教徒の殉教、ハイムバッハの夜宴。

他にも、プッサン、ゲインズボロ、ベラスケスのマルガリータもあった。

カフェで一息ついてから市立公園まで歩き、シューベルト、ブルックナー、ヨハン・シュトラウス像を見て、ベンチで読書。


日本の空は誰のものか


吉田敏浩『横田空域』(角川新書)


「首都圏を広く高く覆う空の壁、急上昇や迂回を強いられる民間機」

「羽田や成田を使用する民間機は、常に急上昇や迂回を強いられている。米軍のための巨大な空域を避けるためだ。主権国家の空を外国に制限されるのはなぜなのか。密室で決められる知られざる法体系を明らかにする。」

戦争協力拒否のルポや日米合同委員会の研究で知られるジャーナリストが、横田空域の歴史と現在を追う。横田基地を中心とする膨大な広域をアメリカ軍が航空管制している。日本の空で蟻、しかも首都東京のすぐ近くであるのに、日本側には権限がない。そればかりか、自衛隊用の訓練空域も米軍がほぼ自由に使用している。

このため現実に被害が起きている。民間機は不自由な空域を飛ぶために常に事故の危険性に晒されている。人口密集地の上空を米軍機が低空飛行で攻撃訓練をしているため、爆音の被害も大きい。アメリカでは人口密集地の上空を飛ばないオスプレイが日本ではどこでも構わず飛んでいる。そこに「人間」が住んでいないからだろう。危険物の落下もある。

横田空域や岩国空域は、しかし日米安保条約にも地位協定にも書かれていない。密室で取り決められた「他の取極」に書いてるらしい。秘密にされているため確認できない。つまり、日本の空は米軍制服組と日本側の官僚が密室で決めているのだ。

ドイツやイタリアの駐留米軍については、このような情況にはなっていない。担当者から「ここはドイツなので、ドイツの法律に管轄権がある」という当たり前の答えが返ってくるという。外国軍が勝手気ままに空を使っているのは、日本だけのようだ(韓国の状況は本書には出てこない)。

著者は横田空域がどのように使われているか、その実態を明らかにした上で、歴史をさかのぼり、いつ、どのようにして現状が形成されたかを調べ、各地の被害実態を紹介する。横田空域の現状を示す図版や、事故記録の一覧表も重要である。

著者は住民の生命と人権を守るために「米軍に対していかに規制をかけるか」として、航空法特例法の改定・廃止、国内法の米軍への適用、国際法原則の遵守、機密文書の公開、地位協定の改定、日米合同委員会という秘密システムの廃止などを提案する。

日本はアメリカの「属国」だということはよく指摘されてきたが、本書を読めば、「日本は果たして人間が住んでいる属国なのか。人間が住んでいない属領として扱われているのではないか」という疑問が生じてくるだろう。

Friday, August 02, 2019

アルベルティーナ美術館散歩


20年ぶりのウィーンだ。欧州は7月中旬まで猛烈な暑さだったようで、パリで40度などというニュースも流れていたが、7月下旬で猛暑は収まったようで、過ごしやすい。

20年前はハプスブルク時代の王宮などの一日見学だったが、あまりよく覚えていない。

アルベルティーナ宮殿の美術館は、膨大な近代のデッサンや版画を所蔵している。企画展「モネからピカソまで」展をやっていたので、「いまさらモネからピカソでもないよな」と思いつつ、入ってみた。実際には4種類の展示を見ることができた。

1に、モネからピカソ。印象派、表現主義、青騎士、シュルレアリズムなど19~20世紀西洋美術史をざっと見せてくれる。印象派はモネとシスレー。「青騎士」でくくった中にパウル・クレーも数点あったが、青騎士時代ではなく、ずっと後の作品だ。ちょっと話が違う。こういうところが目立ったが、やむを得ないか。よかったのはジョレンスキー、ココシュカ、ノルデなどが結構まとめてみられたところか。

2にシーン・スカリー展。アイルランド出身のアメリカの画家だが、近年はずっとカリブの島に通って、砂浜で遊ぶ自分の子どもを素材として描き続けている。最初の子どもは交通事故で死んだようで、次の子どもを大切に育て、描いている。赤、青、緑、橙などの原色を大胆に使った単純な構図の作品で、同じテーマばかりなので、違いもわからなくなってしまう。子どもを囲むラインを必ず描いているのは、外に飛び出して交通事故に遭わないようにという親の思いだろうか。

3にヘルマン・ニッチュ展。アクション・ペインティングやパフォーマンス・アートの先達だが、作品を実際に見たのは初めてだ。横浜トリエンナーレにも出たようだ。ミステルバッハにヘルマン・ニッチュ美術館もできたそうだ。もっとも、作品はつまらなかった。100点くらいはあったが、同じ事の繰り返し。キャンバスにバケツで絵の具をまき散らし、手で絵の具を塗りたくる。歩き回って足跡をつける。あるいは、キャンパスの上を絵の具を流して、雨だれ状態の筋をたくさん作る。こうした作品ばかり。たいていは、青一色、赤一色、黒一色だが、一時期、多彩にした次期がある。作品制作状況ビデオも流していたが、なるほど、あの調子なら200x200や、200x300の作品を一日に何枚も制作できる。多作なわけだ。1960年代には目新しく、チャレンジングな作風だったのだろう。音楽、ダンスを組み合わせ、参加者を募ってキャンバスの上を転げ回り、歩きまわる。今でも、子ども野遊びとアートを兼ねて継承されている。でも、100枚見るのはただの苦痛でしかない。10枚で十分だ。

第4に常設の書籍・印刷展だ。印刷の発展過程を示す、古書が多数展示されていた。デューラー、ルーベンス、ブリューゲル、そして新しくはエゴン・シーレのデッサンも。これが一番の見所だった。