Tuesday, August 06, 2019

トランプ主義憲法学に学ぶ


篠田英朗『憲法学の病』(新潮新書)



日本国憲法9条の意味内容は単純明快で誤解の余地がないのに、憲法学はこれをねじ曲げ、ずたずたにしてきたという篠田は、「憲法学通説」は学問以前であり、ガラパゴスであると猛烈な批判を続ける。篠田は、以前からあちこちでこの批判を表明してきたが、1冊の新書でわかりやすく解説している。

明快な論説だ。篠田によると、憲法9条は、国際法に従って読むべきである。大西洋憲章を経て国連憲章に結実した国際法に基づいて憲法9条を読めば、その意味は直ちに明らかになる。憲法学通説は、国際法を無視して、憲法9条の条文の表面的な意味にとらわれたために、9条を平和憲法だなどとねじ曲げ、自衛隊違憲論を唱えたかと思うと、「個別的自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲」などという奇怪な結論を出してきた、という。憲法学が国際法を十分にふまえてこなかったという批判にはうなづけるものがある。

爽快な論説だ。「憲法学通説」――東大法学部の憲法学教授であって、憲法9条について平和主義を唱え、平和憲法を論じる憲法学者や、他大学にいても東大法学部出身で同様の主張をする憲法学者――具体的には、宮沢俊義、小林直樹、芦部信喜、樋口陽一、長谷部恭男、石川健治、木村草太など。篠田は、彼らの主張はおよそ学問ではない、ガラパゴス憲法学だ、という。東大法学部の権威をなで切りする爽快な論説である。

痛快な論説だ。自衛隊違憲論はもとより、「個別的自衛権合憲、集団的自衛権違憲」論は、9条論としても国際法論としても、なかなか厳しいところがあるのは否めない。日本の議論状況が捻れているからだ。わかっていて、誰も踏み込まなかった論点に篠田は単身、敢然と正面から斬り込み、右を切り捨て、左を切り伏せ、シャープに論陣を張る。篠田剣士の痛快天国だ。

宮沢俊義――大日本帝国を賛美していた男の「8月革命」と平和主義の欺瞞を徹底批判する。

芦部信喜――国際法と隔絶した「ガラパゴス憲法学」の家元として徹底批判する。

長谷部恭男――立憲主義などと言っているが実は権威主義に過ぎないと暴露。

石川健治――ニューアカ的な意味不明の論文で珍奇な「クーデタ」説と一蹴。

木村草太――「軍事権」などというが法的根拠不明で問題外と厳しく追及。

といった調子の、軽快な論説だ。すでに『集団的自衛権の思想史』という研究書を出し、『ほんとうの憲法』で提示した論点を、批判対象を憲法学通説に絞り込んで、わかりやすく書いているので、最後まで軽快なタッチで論述している。

というわけで、とても面白く読める新書だが、論理的説得力という点ではかなり難がある。少しだけ疑問を書いておこう。


国際法に照らして憲法を読むのはそれなりに正当である。私も、憲法12条や21条を国際法に照らして解釈するべきだと主張してきたので、篠田の主張内容もわかるし、いらだちも良く理解できる。しかし、不思議に思う箇所が少なくない。

第1に、憲法の条文をいきなり国連憲章の言葉に置き換えるのはやはり適切とは言えない。国連憲章の理念、目的、表現を参照して日本国憲法の位置づけを行うことは必要だが、条文解釈にいきなり持ち込むのはかなり乱暴だ。

第2に、篠田が言う国際法は、国連憲章以後の現代国際法だけであり、ウエストファリア条約以来数百年かけて積み上げられてきた国際法はほとんど無視する。全く別物であるかのように切り離して、前者だけを特別扱いする。不思議だ。

第3に、篠田が言う国際法は、アメリカが主導して作った国際法だけである。例えば国際人道法ではハーグ法やジュネーヴ法が語られるように、多様な主体が多様な協調形態の歴史を積み重ねて作ってきた国際法なのだが、篠田はそうした側面は一切捨象する。篠田にとって、アメリカがつくった国際法だけが国際法である。だから、国際法を尊重しない憲法学者を、篠田は「反米だ」と決めつけて非難する。憲法9条も「アメリカ―国連憲章―9条」の文脈だけが意味を持つという。それ以外の側面を考慮する憲法学は「反米」である、という。篠田にとって、アメリカを批判するのが「反米」ではない。アメリカの言いなりにならないのはすべて「反米」なのである。篠田は「反米」というカードが決定的で圧倒的な切り札だと確信している。仮に篠田に対して「従米」とか「属国」などという批判があっても、篠田は意に介さないだろう。100%アメリカ言いなりこそ人のあるべき道なのだから。汝、アメリカに疑念を抱くべからず。

第4に、具体的な9条解釈を見てみると、篠田は洗練かつ秀麗な方法で解釈する。



第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。



篠田の9条解釈は、国際法に則って、条文の順序を乱すことなく、整合的に解釈する方法によっている。端正かつ合理的である。その結果、おいしいところだけをつまみ食いする憲法学通説は批判される。9条2項の趣旨に従って9条1項を解釈し直す手法をとる憲法学通説は非難される。それでは篠田は9条をどう解釈するか。1点だけ紹介しておこう。篠田は次のように主張する。

9条2項は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とする。戦力とは戦争遂行能力のことであるから、陸海空軍は戦力の例示に過ぎない。だから「戦力としての陸海空軍」は保持できないが、「戦力ではない陸海空軍」は保持できる。つまり、9条は次のように書いてあると読むのが自然だ。



2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しないが、戦力でない陸海空軍は、これを保持する。国の交戦権は、これを認めない。



篠田によると、当然のことながら、国家には自衛権があり、国連憲章は個別的自衛権も集団的自衛権も認めている。軍隊のない国家などあり得ないし、自衛権のない国家もあり得ないし、集団的自衛権のない国家もありえない。だから、憲法9条は個別的自衛権も集団的自衛権も認めている。それゆえ、9条は次のように書いてあると読むべきことになる。



2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しないが、戦力でない陸海空軍は、これを保持するので、戦力でない陸海空軍はアメリカとの集団的自衛権を行使する。地球上どこへでも出かけ、宇宙空間にも出かける。国の交戦権は、これを認めない。



篠田によれば、国際法の知識と憲法条文に忠実な解釈をすれば、このような趣旨になるようだ。9条は特別な平和主義を意味する条文ではなく、現代国際法に従い、アメリカと軍事同盟を結ぶための条文である。日米安保条約は9条の正しい適用結果である。自衛隊は、戦争さえしなければ良いのであって、その都度、「戦争ではない」「戦力ではない」と言っておけば足りる。その上で米軍とともに世界中どこへでも出かけて、軍事行動をするのが適切である。国連憲章は核武装を禁止していないから、核武装も当然の権利である。これと異なる主張をする憲法学通説は「反米」であり、ガラパゴスである。本書の随所でガラパゴスという言葉が何度も何度も踊る。

篠田は憲法前文についても、国際法に従った読み方を提示し、特に国際協調主義を重視する。これは正当な指摘だ。ところが、篠田は、前文の解釈を詳しく展開しながら、平和的生存権の部分だけは無視する。言及さえしない。軍事力行使の妨げになる平和的生存権を認めると都合が悪いのだろう。2016年、国連は「平和への権利宣言」を採択したが、アメリカはこれに反対した。アメリカが反対する平和的生存権を主張するのは「反米」であるに違いない。国連は「反米」であることになるだろう。

篠田の徹底ぶりには感心するが、どこが憲法解釈と言えるのか、はたして常人に理解できるだろうか。トランプ主義憲法学についていけそうにない私も、ガラパゴスなのだろう。ガラパゴス諸島には行ったことがないが。






なお、2017年に水島朝穂(早稲田大学教授)が篠田説を徹底批判している。

憲法研究者に対する執拗な論難に答える(その1)~(その4)








「トランプ主義憲法学」という、聞き慣れない言葉を用いたので、どういう意味かと、友人から問い合わせがあった

明確な定義をしているわけではないが、2つの特徴で考えている。

第1に、アメリカ・ファーストである。これは説明を要しないだろう。対米従属以外は、すべて「反米」とされる。

第2に、議論の土俵を壊す。永年の議論の蓄積によって形成されてきた土俵そのものを認めない。ちゃぶ台返しである。そして、身勝手な言葉、気まぐれな定義を振り回す。自説と異なる見解をフェイクと罵倒する。

これが「トランプ主義憲法学」だ。「アベシンゾー憲法学」とも言えるかも。