Sunday, March 13, 2016

愛国的無関心が生む差別と暴力

内藤千珠子『愛国的無関心――「見えない他者」と物語の暴力』(新曜社)
http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/978-4-7885-1453-9.htm
<「韓国」「北朝鮮」「在日」などの記号に罵声を浴びせるヘイトスピーチ、ネット上での匿名による中傷など、最近の愛国的空気のなかには、明らかに相手は誰でもいいという「他者への無関心」があります。本書は、このような風潮を近代日本の帝国主義に基づく無関心に起因しているとして「愛国的無関心」と名づけ、その構造を近現代のメディア言説、小説、映画などを題材に明らかにしていこうとします。そのさい、かつてファシズム期に行なわれた「伏字」(危ない文章を○や×で置き換えたもの)という日本独特の検閲制度が重要な役割を果たし、我々の他者への不感性を作り上げてきたと言います。瀬戸内寂聴、徳田秋声から現代の「在日」小説までをとりあげて、斬新な視点から思想史に新風を吹き込みます。デビュー作『帝国と暗殺』の続編でもあります。>
生きにくさと暴力、愛国の物語とジェンダー、無関心の論理、仮想現実を語る「私」――著者はこうした現在的状況の下で起きている、排外主義やヘイト・スピーチに着目し、なぜ、あのような形で排外主義とヘイト・スピーチが生み出されてくるのかを、文学の中で探求する。最近の文学作品と、この100年の文学作品とを、それぞれ取り上げながら、文学の言葉が他者をいかにとらえ、自己をいかに表現してきたか、その際に「見えない他者」をつくり出すメカニズムは何か。そこで駆使される検閲制度と、そのもとで生まれた「伏字的死角」はどのような意味を持つか。
吉村萬壱『ボラード病』、村田沙耶香『殺人出産』、佐藤俊子(田村俊子)『カリホルニア物語』、林芙美子『市立女学校』、中森明夫『アナーキー・イン・ザ・JP』、瀬戸内寂聴『風景――面会』、夏目漱石『明暗』、谷崎潤一郎『神と人との間』、吉田喜重監督映画『エロス+虐殺』、瀬戸内晴美『美は乱調にあり』、谷崎潤一郎『痴人の愛』、村田沙耶香『タダイマトビラ』、木村友祐『おかもんめら』、藤野可織『爪と目』・・・こうした作品における細部の言葉の響きに、筆者は帝国の論理や他者の不可視化の機制を確認していく。そうして最終章「朝鮮と在日」で在日文学に言及し、李龍徳『死にたくなったら電話して』を取り上げる。
無関心の論理が帝国日本の文学を貫いてきた。それゆえ、現在の新しい問題ではない。もちろん、現在的な表現形態はあるものの、本質的には日本の文学が制度として持ち得てきた、他者の排除のメカニズムにその秘密がある。すなわち、女性差別、女性排除である。
「帝国主義的な視角にひそむ死角、見えない場所が意味するのは、帝国がつねに植民地の現実を見ないで済ませてきたように、何かを見ないで済ませることができる回路そのものにほかならない。/流れた胎児を一目も見なかったお島は、母性の物語を異化し、帝国の幼女になるのを拒む。その一方で、彼女の死角が、植民地を欲望する物語を生かしているのも明らかだ。お島の目が表象する、植民地の現実を見ない、すなわち他者の現実を見ないで済ませる伏字的死角は、いまもなお、日本語の基層を支配している。」
とても説得的だが、やや違和感が残る。いい本だと思うが、何か気になる。勉強になる、教えられることの多い研究だが、ざわざわと、なんだか。
著者は、「近代の排除の構造のなかで、マイノリティは徴のつけられた、標準ではない存在として複合的に差別され、マイノリティ同士はイメージの領域で類縁化され、構造上同じ位置を与えられてきた」たと言う立場から、「女性、非異性愛のセクシュアル・アイノリテチィ、被差別部落、外国人、路上生活者、貧困者、被災者、病や障害とともに生きる人々、親をなくした遺児、犯罪被害者やその家族、加害者の家族等々も同じように、見えない場所で生きさせられる伏字的な力の構造から自由ではいられない」という。「朝鮮」「在日」も「存在を不可視にする伏字的死角の力学にさらされている」という。いずれも同じ構造なのだから、女性差別の言説のメカニズムを分析し、抽出すれば、それで足りることになる。だから、本書で取り上げられた小説作品のほとんどが、日本男性と日本女性の間の差別構造のモデルなのだ。
著者は在日文学についてもそれなりの見識を持っているのだが、それを敢えて書くまでもなく、女性排除の構造を抽出すれば、在日朝鮮人差別と排除の構造は十分に明らかになった、のである。

なぜ、このようになるのか、違和感が膨らまざるを得ない。著者は崔真碩の『朝鮮人はあなたに呼びかけている』から10行ほど引用して、崔真碩が「複数の『あなた』に向かって」問いかけていると考える。それでは、「複数の『あなた』」とは誰だろうか。この呼びかけを受け止めている著者は、どこに立っているのだろうか。帝国主義の論理を批判的に読み解き、植民地暴力の痕跡を十分認識し、「植民地の現実を見ない」日本を対象化する著者であるが、著者が見ている「植民地の現実」とはいかなる現実なのだろうか。そこがいま一つわからないのだ。みんなマイノリティ、だから同じ構造というのは、抽象的にはそう言えるかもしれないが、その枠組みで考えて解ける問題は限られているのではないだろうか。