Friday, August 31, 2012

慰安婦強制連行の犯罪(静岡事件・大審院判決)


静岡事件・大審判院判決

 

 

 「満州」の「カフェー」で働かせるために「女給」が必要と考えて、静岡県内で女性をだまして、「満州」へ連れて行った被告人らに未成年国外移送目的誘拐罪が成立すると認めた大審院判決が存在することが明らかになった。朝鮮人強制連行真相調査団の調査による。

 

 国外誘拐移送同未遂国外誘拐被告事件(昭和十年(れ)第四九二号 同年六月六日第二刑事部判決 棄却)『大審院蔵版 大審院刑事判例集 第十四巻』(法曹会発行)

 

*以下、引用に際して旧字を新字に改める。

 

1 大審院判決の概要

 

<判決要旨>

国外移送ノ目的ヲ以テ未成年者ヲ誘惑シ自己ノ支配内ニ移シタル以上ハ其ノ監督権者ヲ誘惑セサルモ未成年者ニ対スル国外誘拐罪成ス

 

<主文>

本件上告ハ孰レモ之ヲ棄却ス

 

<理由>[要旨]

国外移送ノ目的ヲ以テ未成年者ヲ誘拐スル罪ハ国外移送ノ目的ヲ以テ未成年者又ハ其ノ監督権者ヲ誘惑シ其ノ未成年者ヲ自己ノ支配内ニ移スニ因リテ成立スルモノトス故ニ原判示事実ノ如ク国外移送ノ目的ヲ以テ未成年者ヲ誘惑シテ之ヲ自己ノ支配内ニ移シ又其ノ被誘拐者ヲ国外ニ移送シ又ハ移送セントシタル以上刑法二百二十六条第一項第二項並ニ第二項ノ未遂罪トナルヘク所論ノ如ク更ニ進ンテ監督権者ニ対スル欺罔誘惑ノ行為アルコトヲ要スルモノニ非ス論旨ハ理由ナシ

 

それでは、事実はどのようなものか。第二審である東京控訴院が認定したのは3つの事実である。概要は次のようなものである(なお、第一審は静岡地裁沼津支部である。それゆえ、ここでは静岡事件と略称する)。

 

<第一の事実>

被告人Aの弟Bは、昭和8(1933)年2月、「満州」視察の際に、日本帝国軍駐在を知り、軍人を顧客とする「カフェー」を経営すれば巨額の利益を収得できると考えて、C及び被告人Dに告げて、「カフェー」を経営することとし、同年3月、被告人Dに「女給」数名を雇うよう依頼し、被告人Dは被告人Aと協力して「女給」の雇入れに奔走し、被告人Eや原審被告人Fにも「女給」の周旋を依頼したところ、

 

 同年3月、EはFと共謀の上、静岡県出方郡中郷村の飲食店G方に立ち至り、そこに酌婦奉公していたHの次女I(当時19歳)に対し、Iが未成年であることを知りながら、Aらが開業する「カフェー」に「女給」として赴くよう慫慂し、「満州に行けば借金はすぐ抜け、一年の働けば札束を背負って帰国できる。帰るときには飛行機で帰れる」等種々甘言をもって誘惑し、Iに渡満を承諾させたうえ、Iの姉Jに、EがIを身請けして夫婦となると欺いて、Iを身請けして、3月26日頃、Aに引き渡し、EはFと共同してIを帝国外である「満州」に移送する目的をもって誘拐した。

 

<第二の事実>

被告人Aは、沼津市内の自宅において、FからIを引き取り、F及びEから、同女を甘言を用いて誘惑して「満州」行きを承諾させて誘拐したこと、FらがJらに、EがIを身請けすると詐り、欺罔したこと、Iは未成年であり、渡満について親権者である実父の承諾のないことを知っていたにもかかわらず、3月28日、Iを被告人Dに引き渡し、Iほか数名の「女給」を「満州」に連行して、被誘拐者であるIを帝国外に移送した。

 

<第三の事実>

被告人Dは、Iほか数名の「女給」を伴って渡満したが、さらにBらが開業する料理店の「女給」を雇入れる必要を感じ、同年5月、帰国の上、原審相被告人K等に対し事情を告げて「女給」の周旋を依頼したところ、Kはこれを承諾し、原審相被告人Lと共謀の上、静岡県出方郡土肥村の料理店M方に至り、そこの酌婦であるN(当時16歳)に対し、同女が未成年であることを知りながら、「満州」移送の目的を秘し、Nの実父から料理店の住み替えを依頼されてきたと偽り、KとLがNを欺罔して住み替えを承諾させたうえ、同女を誘拐し、同女の無知に乗じて、神戸の少し先の大連に行くと詐り、Nを被告人Dに引き渡し、次いで、K単独で沼津市の料理店O方の酌婦であったP(当時27歳)が生来いささか「愚鈍」であるのに乗じて、「満州」移送の目的を秘し、料理店住み替えを慫慂して欺き、Pを欺罔して住み替えを承諾させて、誘拐し、同女が無知で大連がどこにあるか知らないのに乗じて、あまり遠くない大連に行くと詐り、Pを被告人Dに引き渡したが、Dは、NP両名がいずれも虚言を弄して連れ出されたもので、渡満について十分な承諾をしていないことを知りながら、またNは未成年であり、渡満について親権者の承諾のないことを知りながら、被誘拐者である両名を誘致し、帝国外である「満州」に移送しようと準備中に警察署の探知するところとなり、その目的を遂げなかった。

 

2 解説

 

1)   最初の判決

 

 本判決は、国外移送目的誘拐罪の成立を認めたもっとも初期の判決であり、大審院判決としては、これまで知られていた長崎事件判決よりも2年早く出されたものであり、最初の判決と思われる。

 

 長崎事件判決について


 

 

 なお、本判決には「慰安所」という言葉は使われていない。軍人を顧客とする「カフェー」のための「女給」という表現である。

 

2)   略取誘拐罪――「強制連行」とは何か

 

本判決は、甘言や虚言をもって女性を誘惑して連れ出した被告人らの行為が誘拐罪に当たると認定している。

 

該当条文は次のように規定する。

<二二六条 帝国外ニ移送スル目的ヲ以テ人ヲ略取又ハ誘拐シタル者ハ二年以上ノ有期懲役ニ処ス帝国外ニ移送スル目的ヲ以テ人ヲ売買シ又ハ被拐取者若クハ被売者ヲ帝国外ニ移送シタル者亦同シ>

 

「略取又ハ誘拐」とあるが、「略取」とは暴行・脅迫を手段とし、「誘拐」とは欺罔・誘惑等を手段として、本人の意思に反して連れ出すことである

 

「誘拐罪における『欺罔』とは、虚偽の事実をもって相手方を錯誤に陥れることをいい、『誘惑』とは、欺罔の程度に至らないが、甘言をもって相手方を動かし、その判断を誤らせることをいうとするのが多数説である」(『大刑法コンメンタール刑法八巻』六〇三頁)。

 

物理的身体的に実力を用いて連れ出すのは「略取」、言葉巧みにだまして連れ出すのは「誘拐」である。いずれかに当たれば「強制連行」と言える。

 

*なお、国際法の場合には、奴隷条約や、人道に対する罪としての強制移送に当たるか否かが問題となる。この点については、


Monday, August 27, 2012

金谷川のミンミンゼミ

福島駅から東北本線で南下する。福島と郡山を結ぶ路線だが、1時間に1~2本しか電車がないため、30分も待つ必要があった。2つ目の金谷川駅で降りて、ミンミンゼミの鳴き声が降り注ぐ坂を上るとキャンパスが広がっている。大学と、学生向け賃貸がなければ、ほとんど何もないのではないかと思うような駅周辺だ。駅名を福島大学前駅にしたほうがいいのではないだろうかと思うほどだ。

 

夏休みの集中講義で、今週と来週の2週間(合計10日)、刑法の授業を担当する。大学院時代の先輩がサバティカルでお休みのための代講だ。集中講義は、ずっと以前、静岡大学でも経験した。連日の授業はかなり大変だが、今は昔よりも厳しい。というのも、文部科学省の指導で、講義2単位の科目は15回の授業が必要だ。1日3コマを5日間続けなければならない。昔は15回という指導がさほど厳しくなかったので、月曜から土曜まで6日間2コマで12回の計算で通用していた。今は土曜が休みなので、月曜から金曜まで1日3コマだ。90分の授業を3コマ続けるのは、内容からいっても大変だが、体力的にもつらい。若いときはまったく苦にならないが、今は結構疲れるし、今日は猛暑だった。特に疲れるのが喉だ。他の教員の資料を見ると、中には4日で15回やっている人がいる。つまり、うち3日は朝から夕方まで4回授業だ。360分。いったいどんな授業なんだろうと心配になる。

 

もっとも、疲れるのは、学生のほうだろう。同じ教師の話を270分とか360分も聞き続けるなんて、ほとんど拷問ではないだろうか。行政学類の法学専攻の学生で、2年生が中心だ。聞いてみると、かなりの比率で公務員志望だ。初日だけの印象だが、まじめそうな学生が多い。憲法や刑法に関心の高い学生も多いが、中には仕方なく履修していると正直な学生もいる。

 

今日は刑事法の基礎知識のために、死刑冤罪事件として有名な免田事件、松山事件、死刑再審請求中の名張毒ぶどう酒事件を素材に、日本の刑事裁判の問題点を説明した。

 

明日は、代用監獄(留置場、代用刑事施設)、代用監獄を利用した長時間の密室取調べによる自白強要、そして拷問と、拷問等禁止条約の話を270分の予定だ。まさに拷問か。

 

明日も暑いようだ。沖縄のように猛烈な台風も困りものだが、この暑さも勘弁してほしい。先週まで快適なスイスで過ごしていただけに。

Monday, August 20, 2012

デザインは資本の論理を超えうるか


グランサコネ通信120820

Grand-Saconnex News. 120820



内田繁『戦後日本デザイン史』(みすず書房、2011年)





内田繁




勤務先の客員教授、桑沢デザイン研究所元所長の本を、ベルン観光の電車の中で読んだ。美術や映像を除いたデザイン分野の歴史であり、著者自身の体験史でもある。420頁。



<著者の内田繁は戦後のデザインの現場を生きてきた。

 本書は、戦災の焼け野原から始まり、

 東北大震災の以後の「いま」に立ち、

 「これからのデザイン」のあり方を呼びかける。

 「古きをいまに再生し、未知をかたちで示す」デザインという分野に

 かかわるすべての人に向けた渾身のエール。

 「こんな本、ちょっとない。」>



焼け跡における再生から、高度成長、バブル、そして失われた10年を経て、21世紀初頭の現在までの日本デザイン史を通覧することによって、これからのデザインの行方を模索している。果たしてデザインは単なる「資本の論理」を超えて人間生活の未来に貢献できるだろうか。エコデザイン、グローバルデザイン、ユニバーサルデザインとは何か。520人に及ぶ人名索引に10回以上登場するのは、内田自身のほかに、青葉益輝、浅葉克己、粟津潔、勝見勝、亀倉雄策、倉俣史朗、杉本貴志、田中一光、福田繁雄、三橋いく代、三宅一生、横尾忠則、吉岡徳仁、エットーレ・ソットサス、アンドレア・ブランジ。なぜか桑沢洋子と桑沢デザイン研究所の名前が出てこないと思ったら、終わりの方、359頁目に、2010年11月に開催されたSO+ZO展「未来をひらく造形の過去と現在 1960」の紹介の形でまとめて登場している。桑沢洋子生誕100年記念展で、SO(桑沢)とZO(東京造形大学)による展覧会。ここから次をいかに切り拓いていくのかという課題とともに。とても勉強になる1冊。ただ、「おわりに」で「無常観」から「無常美観」へ、として、日本回帰で終わっているのは、ややありきたりか。



追記:SO+ZO展について下記のブログ参照。


堀越事件東京高裁判決


法の廃墟

堀越事件東京高裁判決



『無罪!』2010年4月号



逆転無罪判決



三月二九日、東京高裁は、日本共産党機関紙を配ったとして国家公務員法違反の罪に問われた被告人(元社会保険庁職員堀越明男)を逆転無罪とする判決を言い渡した。判決要旨は次のように述べている(便宜上、段落ごとに番号を付して紹介する)。

①表現の自由は民主主義国家の政治的基盤を支えるものであり、公務員の政治的中立性を損なう恐れのある政治的行為の禁止は、範囲や方法が合理的で必要やむを得ない程度にとどまる限り、憲法が許容する。規制目的は国民の信頼確保にあり、判断するのに最重要なのは国民の法意識であり、時代や政治、社会の変動によって変容する。

②罰則規定を合憲とした猿払事件最高裁大法廷判決当時は国際的に冷戦下にあり、国民も戦前からの意識を引きずり、「官」を「民」より上にとらえていたが、その後大きく変化した。勤務時間外の政治的行為の禁止も、滅私奉公的な勤務が求められていた時代とは異なり、現代では職務とは無関係という評価につながる。ただし集団的、組織的な場合は別論である。

具体的に検討すると、本件は地方出先機関の社会保険事務所勤務の厚生労働事務官で、職務内容・権限は年金相談のデータに基づき回答するという裁量の余地のないもので、休日に職場を離れた自宅周辺で公務員であることを明らかにせず、無言で、郵便受けに政党の機関紙などを配布したにとどまる。

④被告人の行為を目撃した国民が、国家公務員による政治的行為だと認識する可能性はなかった。発行や編集などに比べ、政治的偏向が明らかに認められるものではなく、配布行為が集団的に行われた形跡もなく、被告人単独の判断による単発行為だった。

⑤このような行為を、罰則規定の合憲性を基礎付ける前提となる保護法益との関係でみると、国民は被告人の地位や職務権限、単発行為性を冷静に受け止めると考えられるから、行政の中立的運営、国民の信頼という保護法益が損なわれる抽象的危険性を肯定することは困難である。被告人が公務員だったと知っても、国民が行政全体の中立性に疑問を抱くとは考え難い。

 ⑥本件配布行為への罰則適用は、国家公務員の政治活動の自由に対する必要やむを得ない限度を超えた制約を加え、処罰の対象とするものであり、憲法違反との判断を免れず、被告人は無罪である。

判決には次のような付言がついている。

⑦国家公務員に対する政治的行為の禁止は一部とはいえ、過度に広範に過ぎる部分があり、憲法上問題がある。政治的行為の禁止は、法体系全体から見た場合、さまざまな矛盾がある。

⑧時代の進展、社会的状況の変革の中で、国民の法意識も変容し、表現の自由の重要性に対する認識は深まっており、公務員の政治的行為についても、組織的なものや、ほかの違反行為を伴うものを除けば、表現の自由の発現として、相当程度許容的になってきているように思われる。

⑨また、グローバル化が進む中で、世界標準という視点からもあらためてこの問題は考えられるべきだろう。公務員制度改革が論議され、他方、争議権付与も政治課題とされている中、公務員の政治的行為も、さまざまな視点から刑事罰の対象とすることの当否、範囲などを含め、再検討されるべき時代が到来している。



法解釈の歪み



国公法による「政治」的行為処罰には、憲法学、労働法学、刑事法学のいずれの分野からも厳しい批判があり、猿払事件最高裁判決は集中非難を浴び、判例としての価値にも疑問が付されてきた。本件以前、長期間にわたって検察も同種行為を立件することができなかった。判例としての意義はほとんど失われていた。流れが定着しようとしていたのを、本件訴追によって逆流を謀り、東京地裁が漫然と有罪判決を書いたことによって、時代錯誤の最高裁判決がよみがえることになった。

その意味では、東京高裁判決は画期的な無罪判決である。先例を前に思考停止することなく、果断に無罪判決を言い渡したことを高く評価したい。何よりも、裁判闘争を見事に闘い抜いた被告人と弁護団に敬意を表したい。その上で本判決の法解釈には、方法論的に看過できない問題点があることを指摘し、検討を加えておきたい。

第一に、付言⑦の認識が本当にあるのならば、適用違憲ではなく罰則自体の違憲を選択すべきであった(最高裁判決があるため難しかったのだろうが)。市民的権利と「政治」的権利の憲法論的考察が不十分である。

第二に、①以下で展開されている「国民の法意識」論では、憲法にも国公法にも書かれていない要件である「国民の法意識」を、保護法益論を媒介として法解釈に取り込んでいる。刑法解釈における国民の法意識論、国民性論、一般人標準説などは、いずれも立法者意思の確認もなく、法意識や国民性の科学的認識もなく、何らの論証抜きに、裁判所が恣意的に認定してきた。ごまかしのマジックワードにすぎない。

第三に、②の「法意識変容」論も恣意的認定でしかなく、その都度、裁判所が任意に判断してきた。憲法よりも「国民の法意識」を上に置き、「国民の法意識」を裁判所が恣意的に決める。

第四に、②で「集団的、組織的な場合は別論」としているが、これも憲法にも国公法にも書かれていない要件を、保護法益論を口実に盛り込んでいる。その判断が論理的に行われる可能性は皆無であろう。憲法によって保障された表現の自由を、単独なら違法性がないとしながら、集団なら違法とする恣意的解釈である。

第五に、逆に言えば、国民主権と議会制民主主義のもとでは、刑罰法規の合憲性が「国民の法意識」に裏打ちされるべきは当然のことである。国公法の場合にだけ「国民の法意識」を持ち出すのは欺瞞でしかない。「国民の法意識」を誰がどのように判断すべきなのか。

第六に、⑨では「国民の法意識」に依拠せずに裁判所の判断がストレートに述べられているが、矛盾である。

全体として言えば、もともと最高裁判決が捩れていたのを正すのではなく、「いっそのこともっと捻じ曲げれば正しい結論を導き出せる」という方法論に基づいている。この国の裁判の理論水準をよく体現していると言うべきだろうか。

Sunday, August 19, 2012

恣意的処刑特別報告書

法の廃墟



恣意的処刑特別報告書



『無罪!』2009年7月号





人権活動家への攻撃



 本年六月に国連欧州本部(ジュネーヴ)で開催された国連人権理事会第一一会期に提出されたフィリップ・アルストン「恣意的処刑特別報告者」の報告書(報告書番号A/HRC/11/2)は、人権活動家・協力者への報復問題や、現代の魔女狩りを取り上げている。恣意的処刑特別報告者は、正式には「法律外、即決または恣意的処刑に関する特別報告者」といい、国連人権委員会から人権理事会に継承された(二〇〇七年の同報告書について、前田朗「国連人権理事会の恣意的処刑報告書」『救援』四五七号、二〇〇七年五月)

 アルストン特別報告者は、二〇〇八年四月から二〇〇九年三月にかけて、世界各国の関連情報を収集して報告書を作成した。四二カ国から一三〇件の情報が寄せられた。そのうち五四件は死刑に関するもので、施設収容中の死亡が二一、少数者の死刑が二〇、過剰な実力行使による死亡が一八、不処罰が一一、襲撃・殺害が二三、武力紛争に関するものが三、殺害の脅迫が七であった。また、現地調査は、アフガニスタン、アメリカ、ケニアに続いて、ブラジル、中央アフリカ、グアテマラ、フィリピンを訪問している。さらに四七カ国に訪問希望を出しているが、予定されているのは、コロンビアだけである。コンゴ民主共和国、アルバニアとは協議中であり、パレスチナは受け入れを表明してきたがイスラエルが受け入れていない。三四カ国からは何ら回答がないという。

 今回のアルストン報告は、特に四つのテーマについて論じている。特別報告者に協力した個人への報復、少年犯罪者の処刑の禁止、魔女狩り、公開集会規制に際しての実力行使である。は従来から議論されてきたテーマだが、は新たに提起された問題といえよう。

 特別報告者に協力した個人への報復とは、次のような事態である。アルストン報告者は国連人権理事会の委嘱を受けて世界の人権状況を調査研究しているが、その際に、恣意的処刑に関する情報の提供を求めている。各国政府から自主的に提供される性質の情報ではなく、犠牲者とその遺族や、ジャーナリスト、人権NGOからの情報である。現地調査に赴いた先では、政府関係者からの情報提供も受けるが、政府以外のセクターからの情報が重要である。

 二〇〇九年三月、あるジャーナリストが国連事務総局に、情報提供者の安全を守る措置について質問した。ケニアで三〇人の人権活動家や弁護士が行方不明になった。彼らは国連に情報提供したために殺害されたといわれている。国連はそのことを知っているのか。彼らのために何をしてきたのか、と。国連事務総局は、アルストン報告書は人権理事会の委嘱で調査したものだから、この質問は人権理事会の問題だとしか回答できなかった。

 情報提供者が危険にさらされるようでは、その後、情報提供ができなくなる。危険に陥った情報提供者に対してはアルストン報告者も道義的責任を有することになる。情報提供者保護は、国連や人権機関の責任である。そこで、たとえば次の三つの問題について検討している。国際刑事裁判所が有している証人保護と同じように情報提供者を保護するための財政基盤がない。情報提供者は特別報告者が自分を保護してくれると期待しがちである。特別報告者は訪問国での調査日程を相手国と情報共有しなければならない。しかし、特別報告者がいったんその国家を離れてしまえば、緊急アピールを出すこと以外に、情報提供者を保護するすべがない。

 特別報告者は次のことを要請している。人権理事会が各国に対して情報提供者保護を促すこと。危険情報を得た場合には、人権理事会が即座に対応する体制をとること。NGOなどが情報提供者保護のための財政基盤を整えること。

 国内においても公権力や企業の腐敗に関する内部告発が弾圧の対象となるように、国際人権の現場でも厳しい状況が続いている。



魔女狩り



 アルストン特別報告者は、魔女狩りが世界各地で起きているという。マッカーシズムはレッド・パージのような比喩としての魔女狩り」ではなく、女性や子どもの殺害としての魔女狩りである。魔女狩りの定義は容易ではないし、問題は単純ではないので、具体的事実を確認することが出発点であるという。

 中央アフリカでは、魔女狩りは死刑か終身刑とされる。死刑判決が出なければ、民間人によって殺される。ガボンやブルキナファソでは「魔女の子」殺しが起きている。二〇〇七年の女性差別撤廃委員会のインド報告書審査に際して、女性に対する暴力の極端な事例として魔女狩りが記録されている。女性差別撤廃委員会のガーナ報告書審査において、二〇〇〇もの魔女がキャンプ収容されていると指摘されている。タンザニアでは一〇〇〇人の魔女殺しが報告されている。南アフリカやモザンビークでも魔女殺しが報告されている。南アフリカ真実和解委員会は魔女殺しをした三三人に恩赦を与えた。ゴラに関して二〇〇四年の子どもの権利委員会、二〇〇八年の社会権規約委員会が魔女狩りを指摘している。マリやタンザニアでは「魔女狩り医師」が報告されている。パプアニューギニアでは、二〇〇八年に五〇人以上が殺されたとジャーナリストの報告がある。コンゴ民主共和国のキンシャサの路上には、魔女とみなされて遺棄された子どもたちが二万五〇〇〇人から五万人いるという。ナイジェリアのNGOは魔女とされて捨てられた子どもの救援を行っている。ネパールでも魔女狩りやエクソシズムの儀式が行われている。メキシコでは二〇〇八年七月に三人の女性が殺された。サウジアラビアでは二〇〇六年に、証人の申立てだけに基づいて女性が魔女とされ死刑判決を言い渡された。

 魔女として殺された被害者が増加している。魔女狩りは、ジェンダー、年齢、障害などに基づく差別の組織的形態である。魔女の親族も重大な人権侵害を余儀なくされる。国際人権機関は、魔女狩りを散発的なものと見てきたため、対応も意識喚起や教育に焦点を当てるだけであった。国内レベルでは、魔女を処罰対象とする諸国もある。中央アフリカのように魔女をしけ意図する国もある。法が沈黙している場合も、伝統や慣行が用いられる。

 まず重要なのは、魔女狩りに関する正確な情報の入手・整理である。申し立てられている事例について、当該政府が把握していないことが多い。しかし、魔女狩りのような殺害を予防するのは政府の責任である。

 アルストン報告者は、人権理事会が、魔女狩りはまったく許されないと認定し、各国政府に魔女狩りを殺人事件として捜査・訴追・処罰するよう呼びかけるべきであると勧告している。

 二〇〇一年八月三一日から南アフリカのダーバンで開催された人種差別反対世界会議の際に、「魔女狩りに反対」というポスターが貼られているのを見た。アフリカ各地の魔女狩りを批判するものだった(前田朗「いまよみがえる魔女」『イオ』二〇〇九年三月号)。だから現代に魔女狩りがあることは知っていた。しかし、これほど広範に行われているとは驚きである。

「新しい左翼入門」が売れそうだ

グランサコネ通信120819

Grand-Saconnex News. 120819



17日からベルン観光だった。もう10数回目だが。スイスの首都ベルンはアーレ川に沿ってつくられた小さな町で、街並みそのものが世界遺産。大聖堂、監獄塔、時計塔、クマ公園、バラ公園、ベルン美術館、パウル・クレー・センターがある。



ベルン美術館では常設展(ドラクロワ、モネ、シスレー、シニャック、ゴーギャン、セザンヌ、マッケ、マルク、ホドラー、ジャコメッティなど)のほかに、ドイツのアーティストのアントニオ・ザウラの作品展、およびウガンダ出身のザリナ・ビンジの写真展をやっていた。



他方、パウル・クレー・センターは、一つは「ポルケとクレー」展(ドイツの画家ジグマル・ポルケとパウル・クレー)、もう一つは「マイスター、クレー」展をやっていた。ワイマールのデザイン学校バウハウスでは、教員をマイスター、学生を旅人と称していた。クレーは1921~31年、バウハウスの教授だった。展示は、クレーの講義ノート(形態論、色彩論)が中心。



❉松尾匡『新しい左翼入門――相克の運動史は超えられるか』(講談社現代新書)



明治期のキリスト教社会主義対アナルコ・サンジカリズム、大正期のアナ・ボル論争、続く日本共産党の福本・山川論争、日本資本主義論争、さらに戦後の共産党対社会党左派・総評、など、左翼の歴史を、理論派と実践派の2つの対抗する流れとして把握して、すべてをこの観点に集約して書いた1冊だ。よくこれだけ単純化したものだと感心する。しかも、著者は、これは左翼だけではなく、右翼にも、日本の近代全体にも当てはめることのできる図式だという。図式主義の権化。一昔前は、小阪とか、今村とか、現代思想をチャートで解説するのがお得意な便利屋さんたちがいたものだ。中身はさして重要ではない、といった調子で。それに比べれば、新書1冊で左翼の流れを説明している本書が採用したのは、よくできた方法であり、これでいいのだろう。不満があれば、別の観点での説明を試みればいいだけのこと。今どき「左翼入門」など売れないと思っていたが、タイトルに「左翼」が入ったら出版部数が増えることになった(!)という。これも著者の功績。著者は、立命館大学教授で、著書に『近代の復権』(晃洋書房)『はだかの王様の経済学』(東洋経済新報社)などがあるという。本書は800円と手軽なお値段なので、左翼とは何か知らない若者も、そんなつもりはないのに左翼と呼ばれてしまった運動家も、骨の髄まで本格左翼も、ぜひ一読を(笑)。

Thursday, August 16, 2012

植民地責任論の展開


法の廃墟(28)

植民地責任論の展開



『無罪!』2009年5月号





植民地責任へ



 植民地責任論が深化している。

 一九九〇年代の歴史教科書論争、「従軍慰安婦」論争以後、日本の戦争責任を隠蔽し、戦争を美化するウルトラ・ナショナリズムがメディアを席巻したが、学問分野では戦争責任論が持続的に追及されてきた。日本の戦争責任をめぐる議論が国際的視野のもと幅広い知見と問題関心によって検証され、歴史学のみならず、法学、政治学、哲学など多角的な研究が進められた。さらに議論の射程が「戦後」責任論にもおよび、現在的課題性が浮き彫りにされた。植民地(支配)責任は戦争責任と重なるが、論理的にも実際的にも区別されるべき性格の議論として意識的に展開され、岩崎稔ほか編『継続する植民地主義――ジェンダー/民族/人種/階級』(青弓社)、金富子・中野敏男編『歴史と責任――「慰安婦」問題と一九九〇年代』(青弓社)、早川紀代編『植民地と戦争責任』(吉川弘文館)などの研究が積み重ねられてきた(なお、前田朗『人道に対する罪』青木書店)。

 最新の成果が、永原陽子編『「植民地責任」論――脱植民地の比較史』(青木書店、二〇〇九年)である。

 永原陽子による「序『植民地責任』論とは何か」は本書を貫く問題意識を次のように整理している。二〇〇一年ダーバン人種差別反対世界会議に象徴されるように、一九九〇年代以降、奴隷制や植民地主義に関する責任が浮上し、謝罪や償いを求める動きが世界各地で起きた。先住民問題や人種主義についても同様である。底流となったのは、第一にナチス・ドイツの戦争犯罪の処罰と補償問題であり、第二にアメリカにおける黒人補償問題であった。論理が鍛えられ概念が構築され、世界的な研究や議論につながった。ジェノサイド研究の発展、アパルトヘイトをめぐる真実和解委員会の経験も踏まえて、植民地責任論が自覚的に展開された。これらの研究史を踏まえて、永原らは、次のような認識で「植民地責任論」の確立・深化をめざす。

 「現代世界の圧倒的に不均衡な力関係は、『植民地責任』を公然と問うことを困難にしてきたばかりでなく、当事者たちがそのような問いの成立可能性を知ることを拒んできた。『グローバル化』のなかで情報も世界に直結している状況のもとでは、各国での歴史教育等の努力にもかかわらず、奴隷貿易・奴隷制や植民地主義の歴史に関する語られ方はきわめて一面的である。また、旧宗主国側の人々も、かつて奴隷貿易や奴隷制、植民地主義にかかわって何があったのか、それについて現在のアフリカ人やアフリカ系人などがどう受け止めているのかについて、十分な知識を得ずにきた。そのようななかでは、『責任』を問い、『償い』を求める人々が現れることが、双方にとって新しい歴史認識を築くきっかけとなり、歴史認識自体の『脱植民地化』が始まることを意味する。『植民地責任』論は、政治的独立の後も長く脱植民地化過程をさまざまな主体の歴史認識の面から分析する、歴史学的な脱植民地化研究の新たな方法である。」



世界的動向



 三部一三章からなる本書全体をカバーすることはとうていできないが、テーマと分析視角の多様性を瞥見しておこう。第一部(戦争責任論から「植民地責任」論へ)冒頭の清水正義「戦争責任と植民地責任もしくは戦争犯罪と植民地犯罪」は、歴史的大規模暴力犯罪群と向き合うための方法としての人道に対する罪の登場を、戦争責任と戦争犯罪、植民地責任と植民地犯罪の対比の中で論じている。ヴェルサイユの「戦争責任」からニュルンベルク・東京の戦争犯罪への法的議論の変遷を位置づけ、「人道に対する罪を適用して植民地犯罪を処罰対象とすることは、刑事法的な責任追及にとどまらず、むしろそれを通じた植民民地責任全般の反省なり認識なりを深化させることのほうに、より本質的な意味があるともいえる」とする。平野千果子「『人道に対する罪』と『植民地責任』」は、ヴィシーからアルジェリア独立戦争に至る植民地主義の崩壊を追跡して、フランス対アルジェリアの対抗だけでなく、アルジェリア入植者や、フランス側についたアルジェリア人(ハルキ)の視点も含めて、複数の記憶の主体を視野に入れ、人道に対する罪の処罰の意義と限界を探る。飯島みどり「往還する記憶と責任――スペイン帝国の残照」は、二〇〇七年の「歴史的記憶の法」を手がかりとして、スペインが植民地責任をどのように引き受け、またなおざりにしているのかを検証する。吉澤文寿「日本の戦争責任論における植民地責任論――朝鮮を事例として」は、従前の戦争責任論をトレースして、植民地責任論は、不十分とはいえ、「欧米諸国のそれに比べれば幾分の進展を見せていると言えるかもしれない。それは日本が第二次世界大戦の敗戦国であることや、韓国をはじめとする旧植民地の国際的地位の上昇などの要因に加え、『大日本帝国の遺産』としての在日朝鮮人による日本の植民地責任追及の運動があったからである」とまとめるが、同時に植民地責任からの逃避、「歴史修正主義」、レイシズムへの流れを取り上げて、「植民地責任に向き合う方法」の重要性を指摘する。

 第二部(「植民地責任」をめぐる謝罪と補償)では、浜忠雄「ハイチによる『返還と補償』の要求」、津田みわ「復権と『補償金ビジネス』のはざまで――ケニアの元『マウマウ』闘士による対英補償請求訴訟」、永原陽子「ナミビアの植民地戦争と『植民地責任』――ヘレロによる補償要求をめぐって」、吉国恒雄「『ジンバブウェ問題』とは何か――土地闘争と民主化」が植民地責任の多様性を浮き彫りにする。支配被支配の関係、脱植民地化の経緯、旧宗主国の政治状況、旧植民地側の政治状況、補償要求主体のあり方、周辺諸国や国際環境の変容などに応じて、議論も大きく異なる。

 第三部(脱植民地化の諸相と「植民地責任」)は、同じ問題を脱植民地化のあり方を中心に論及した論考を収めている。前川一郎「イギリス植民地問題終焉論と脱植民地化」、渡辺司「アルジェリア戦争と脱植民地化――『エヴィアン交渉』を中心にして」、尾立要子「フランス海外領土と植民地責任――『トビラ法』の成立と実施をめぐって」、中野聡「『植民地責任』論と米国社会――抗議・承認・生存戦略」、川島真「戦後初期日本の制度的『脱帝国化』と歴史認識問題――台湾を中心に」は旧宗主国側における脱植民地化過程において植民地責任がいかに論じられ、いかに回避されてきたかを検証する。本書は数多くの問題提起を含むうえ、その射程の広がり、実証の積み重ね、分析の手堅さにも大いに学ぶべきところがある。本書の意義を真に理解し受け止めるためには一読ではとうていたりず、再読三読の必要がある。

『カムイ伝』再読


法の廃墟(27)

『カムイ伝』再読



『無罪!』2009年3月号





カムイのむこうの江戸



田中優子『カムイ伝講義』(小学館、二〇〇八年)は、遊女、被差別民をはじめとする民衆を取り上げ、庶民の暮らしや生産を基底に文化のありようを研究してきた「江戸学」の第一人者による『カムイ伝』の解読である。法政大学での講義がもとになっている。「カムイ伝のむこうに広がる江戸時代から『いま』を読む」というモチーフが明示されているように、江戸初期の農村の生産、流通、人々の暮らしや意識を、田中優子(一九五二年生れ)は『カムイ伝』をプリズムとしつつ、その先に鮮やかに描いてみせる。

 「人(生き物)が生まれ、生き、食べ、戦い、恋をする。自分がどんな社会に生きるか知らずに生まれてきて、投げ込まれたその中で、それでも生きてゆく。それが描かれているところが、まず何よりもすごいところで、だからこそ穢多を描いても特殊ではない。そこには農民と何も違わない人間(生き物)としての生き方が見える」(一五頁)。「想像力は百姓や猟師や穢多やマタギに対して働くだけではない。かなり重要な登場人物は武士である。『カムイ伝』を読んでいると、『いるのが当たり前』になってしまっていた武士が、なぜいたのか、わからなくなってくる。根底から問いたくなってくる。それは『武士はなぜ存在したのか』『人はなぜ人を支配するのか』という問いが、『カムイ伝』を、最初から最後まで貫いているからである。このように考えると、『カムイ伝』を読みながら浮かび上がってくる想像や問いは、白土三平によってあらかじめ織り込まれたものであることがわかる。そこにあるのは答えとしての思想ではなく、問いとしての思想なのである」。(一七~一八頁)。

 夙谷の住人としての穢多、非人を通じて格差の存在理由を探る。綿花を育て、肥料をつくり、流通させ、蚕から布までの生産システムをつくる百姓の仕事の多面性と豊饒性をたくみに描く。海に生きる猟師、山に生きるマタギやサンカの暮らしも詳しい。子どもたちや女たちの生きる闘いもていねいに明かされる。

 階級社会における百姓の営みの豊かさと、それにもかかわらずつきまとう厳しさ、辛さの接点となるのが一揆だ。田中優子は、一揆について次のように解釈する。

 「一揆とは、『揆を一つにする』という漢語である。寺院や村などの法と規約、またさまざまな団体の相互契約なども一揆という。『契約』とか『規約』と現代語訳してもいい場合があり、『訴訟』と訳してもいい場合もある。むろん一般的には、強者に対する弱者の抵抗方法を意味するが、その場合も単に数人で、あるいは単独で抵抗運動をしたり暴力を使ったり、という場合は一揆とは言わない。一揆は共同体を単位とし、一定のルールに従ってすすめる訴訟行為であり、何らかの破壊行為があるとしたら、それは訴訟行為の過程の中でおこなわれる『打ち壊し』という示威の様式である。これも気まぐれや偶然や感情の爆発でおこなうものではなく、効果を計算したうえで一揆集団の統制のもとにおこなわれるものである。一揆は暴力の意味ではなく、破壊行為や反対運動、という意味でもない。一揆は、必要に応じて必要なときに生起する団結、という意味なのである」(一四四~一四五頁)。



時代の中のカムイ



 劇画『カムイ伝』は、現在では『カムイ伝全集(全三九巻)』(小学館、二〇〇五年~)として刊行されているが、大きく分けて三つの作品群から成る。①第一部は、一九六四年から一九七一年まで雑誌『ガロ』に連載された。②『外伝』は、第一部と並行して雑誌『少年サンデー』に掲載された、忍者活劇である。デレビ・アニメにもなった。一般に知られるのは、実は外伝である。一九八二年から八七年まで外伝第二部が『ビッグコミック』に連載された。③第二部は、一九八八年から二〇〇〇年まで雑誌『ビッグコミック』に連載された。

 一九五五年生れのぼくが同時代の漫画として全部読んだのは外伝第一部だけである。『カムイ伝』第一部は単行本でかなり読んだが、当時『ガロ』を手にしたことはない。第二部も外伝第二部も、たまたま手にした回しか読んでいない。

 カムイとはアイヌ語だが、『カムイ伝』はアイヌの物語ではなく、江戸時代を活写している。当初の主人公だった非人(実際は穢多)のカムイはむしろ脇役に追いやられ、外伝で活躍する。第一部の主人公は、農村の下人の子の庄助と下級武士の子の草加竜之進である。冬は雪が降りクマが出る山村でありながら、京都所司代の管轄にあり、海では鯨もとれる日置藩という架空の藩(紀州説が有力)を舞台とする物語だ。準主役には苔丸、ゴン、ナナを配置し、日置藩の城代家老三角重太夫、目付橘軍太夫、橘一馬ら、脇役には、笹一角、ダンズリ、シブタレ、弥助、横目、アテナ、アケミたち。他方で、水無月右近や左ト伝らもいぶし銀の活躍をする。

 『カムイ伝』の基礎情報はいうまでもなく全集(全三九巻)であるが、もっとも優れた研究は、四方田犬彦『白土三平論』(作品社、二〇〇四年)であろう。『忍者武芸帳』や『カムイ伝』に青春を自己同一化させたという四方田犬彦(一九五三年生れ)は、『カムイ伝』を中心に、四〇年を超える白土三平の作品群を取り上げて、その全貌を描き出している。「階級意識と唯物史観を説く漫画として、新左翼系の学生や知識人に圧倒的な人気をもって迎えられ」、六〇年代後半に一大ブームとなった白土三平の漫画は、七〇年代以降、凋落の道を辿る。大衆消費社会、そして二〇世紀社会主義の挫折により、白土三平は忌避されていく。四方田犬彦によると、手塚治虫についての書物は百冊を超えているのに、白土三平についての研究書は、それまで一冊しかなかった。四方田『白土三平論』は初めての待望の評伝であり、白土漫画論であった。

 四方田が一冊だけ名指したのは、部落史研究者の中尾健次『「カムイ伝」のすゝめ』(解放出版社、一九九七年)である。「弾左衛門」研究第一人者でもある中尾健次(一九五〇年生れ)も『カムイ伝』を自分史と重ね合わせ、全共闘学生運動のただ中を駆け抜けながら、いつも『カムイ伝』がそばにあり、第一部の連載終了時期に「私の青春も終わった」と言う。中尾は「部落史の観点から」カムイの世界をシャープに読み解いている。当初はカムイが自由を求めて北海道に渡り、シャクシャインの叛乱に加わっていくはずだったのが、内部矛盾や資料不足からテーマが変更され、差別問題に比重が移り、さらに階級問題に展開していったことを明らかにしている。

 シャクシャインの叛乱を描くことを断念し、国内に視線を集中させたことが、『カムイ伝』の凋落を予兆していたと捉えるべきではないだろうか。

吉川経夫の刑法学

法の廃墟(24)~(26)



『無罪!』2008年8月号、10月号、12月号





吉川経夫の刑法学(一)



信念の法学徒



 「待ち合わせの場所に現れた先生は、見るからにいかめしい顔のその上に、体つきまでガチガチに四角張った方でした。まるで六法全書が服を着て出てきたように思われました。恐る恐る資料を差し出して説明すると、表情も変えずに黙りこくって聞いて、最後にボソリと『一週間後に返事する』とのなんともそっけないお言葉。今思うと申し訳ないのですが、これはダメだとあきらめたのです。/ところがところが! 一週間後、顔を合わせた瞬間に開口一番、『やりましょう』の短いけれど、断固とした言葉を先生は返されたのでした。これには驚きました。そして感動しました。なぜなら、私の前で能弁をふるった学者が結局は『証言台には立てない』と逃げる姿を何度も目にしていたからです。吉川先生は、そうした饒舌とはほど遠い、しかし法学徒としての信念を本当に貫く方なのだと強く思いました」(須賀陽子「信念の人――吉川経夫先生の思い出」本紙一八号、二〇〇六年)。

 須賀陽子が「まるで六法全書が服を着て」と古典的な比喩で形容した信念の法学徒・吉川経夫先生(きつかわ・つねお[以下敬称略])は、二〇〇六年八月三一日に永眠した。須賀の比喩は吉川の一面を実に見事に表現しているが、本稿が後に示すように、それはあくまでも一面である。吉川の人となりも、学問的業績の全貌も、いまだ誰一人明らかにしえていないのではないか。

 「端整」と評された客観主義刑法理論体系を樹立し、戦後の刑法改正作業のほとんどすべてに関与し、国家主義的刑法「改正」を一貫して批判し、理論と実践の総力を挙げて改悪を阻止し、次々と登場した悪法にも終始一貫して反対の先陣を切り、刑事立法論の「権威」的地位を長年にわたって維持し続けた吉川は、文字通り「刑法学の泰斗」であった。権威を嫌った吉川であるが、このように表現しても誤りではないだろう。

 吉川は、一九二四年、京都生まれ。一九三六年、府立一中(現日比谷高校)入学、四二年、京都一中(現洛北高校)卒業、三高を経て、四四年、東京帝国大学法学部入学、戦後四六年、京都帝国大学に編入学、四九年、卒業と同時に大学院特別研究生となり、助手を経て、五二年、法政大学法学部助教授となった。東京と京都を往復する青春であった。法政大学教授定年後は名誉教授を贈られた。五六年、刑法改正準備会委員に就任、六三年、法制審第一特別部会幹事、六八年、日本刑法学会理事、七六年、同常任理事(~八五年まで)を務めた。

 代表的な単著として、『刑法総論』(法文社、一九五四年)、『刑法総論』(法律文化社、六四年)、『刑事立法批判の論点』(法律文化社、六七年)、『刑法改正を考える』(実業之日本社、七四年)、『刑法改正と人権』(法律文化社、七六年)、『刑法改正二三講』(日本評論社、七九年)、『刑法各論』(法律文化社、八二年)、『三訂刑法総論』(法律文化社、八九年)などがある。定年後に、『吉川経夫著作選集・全五巻』(法律文化社、二〇〇〇年~〇一年)、同『補巻』(法律文化社、〇三年)を自ら編纂した。さらに『刑事法廷証言録』(法律文化社、〇五年)を出版している。翻訳には、『フランス刑事訴訟法典』(法務資料、五九年)、マルク・アンセル『新社会防衛論』(法務資料、六一年)、『ドイツ刑法改正資料』(法務資料、六八年)、『ボアソナード答問録』(法政大学出版局、七八年)、『フランス刑事訴訟法典』(法務資料、七八年)などがある。



東京刑事法研究会



 「先生は、刑法学界や社会の民主化のためにいち早く立ち上がり、『東京刑事法研究会』を創設された。その創設メンバーには、先生のほかに、風早八十二、熊倉武、中田直人、関力等の錚々たる諸先生が加わっていた。今では、当日本民主法律家協会の理事長である中田直人先生が最後のひとりとなってしまった。先生は、この刑事法研究会を中心とした活動において、新規刑事立法が民主的な人権を抑圧するものである場合には、強く異を唱え、理論と実践の結合を模索されていた」(足立昌勝「吉川経夫先生を偲んで」『法と民主主義』四一一号、二〇〇六年)。

 吉川は、小野清一郎(東京大学名誉教授、法務省顧問)の勧誘により刑法改正準備会や法制審刑事法特別部会に属したが、戦前の刑法改正仮案をもとに審議が進められようとしたのに驚き、これに反対するとともに、事実を刑事法学者に知らせ、研究会を立ち上げて理論的な闘いに備えたのであった。

 東京刑事法研究会初期のメンバーは、風早八十二(弁護士、ベッカリーア『犯罪と刑罰』翻訳者)、熊倉武(静岡大学教授)、木田純一(愛知大学教授)、中田直人(弁護士、後に茨城大学教授・関東学院大学教授)、関力(大東文化大学教授)、伊達秋雄(元裁判官、法政大学教授、米軍駐留違憲・伊達判決で知られる)、桜木澄和(中央大学教授)などであった(肩書は必ずしも当時のものではない)。

研究会は多くの刑事法学者を輩出したが、ぼくが参加した時期には、村井敏邦(現・龍谷大学教授)、足立昌勝(関東学院大学教授)、新倉修(青山学院大学教授)。ぼくと同年代では、大学院生の佐々木光明(現・神戸学院大学教授)、楠本孝(三重短期大学教授)、宮本弘典(関東学院大学教授)などが中心であった。吉川は晩年までほとんど毎回のように出席して、若手研究者の報告を聞き、さまざまなアドバイスを与えた。時には厳しい叱責もあったが、親子ほども年齢の違うぼくらに対しては、かなり無理して甘い言葉を使うようにしていたようだ。

 「先生は、若くして、刑法改正準備草案を作成する準備委員となり、若い感覚で刑法改正の実務に当たり、その仕事は、法制審議会刑事法特別部会の幹事として引き継がれている。/又、理論的側面の実務的反映にも意を注がれていた。東京大学で開催されていた『刑事判例研究会』において、会員の誰もが敬遠した違憲立法判断に関わる憲法事案についての評論をいち早く行った。それは、その後、憲法訴訟、労働訴訟あるいは弾圧訴訟における証人として実践化されることになった。/さらに、すでに経験されていた刑法改正についても、日弁連や東京弁護士会でさまざまな形で意見を述べ、刑法改正のあり方を弁護士諸氏とともに深く追求されていた。特に、改正刑法草案が法務大臣に答申された一九七四年には、日弁連に刑法『改正』阻止実行委員会が結成され、吉川先生は、当初からその理論的指導者として活躍されていた」(足立昌勝)。





吉川経夫の刑法学(二)





罪刑法定主義



 吉川経夫著作選集第2巻は「罪刑法定主義と刑法理論」という表題の下に、第一部「論説」として一一本の論考を収めるとともに、第二部「座談会」に吉川が参加した四つの座談会記録、第三部「翻訳」に三本の翻訳を収録している。刑法学者としての生涯を刑法改正はじめ刑事立法問題に注ぎ込み、数々の悪法を阻止し、成立した悪法の解釈を限定させ運用を監視し続けた吉川の刑法理論の特質は、第一に壮麗な客観主義刑法理論体系であり、第二にその骨幹としての罪刑法定主義であった。(なお、ぼくは「罪刑法定原則」という語を用い、自分の言葉として罪刑法定主義を用いないが、一般に通有しているうえ、吉川もこの語を用いているので、以下では罪刑法定主義を用いる。)

 吉川の罪刑法定主議論の集大成となった論文が「日本における罪刑法定主義の沿革」(東京大学社会科学研究所編『基本的人権4』一九六八年)であり、その後の罪刑法定主義論において圧倒的な影響力を誇った。

 だが、吉川は、それ以前にも重要論文を公表している。「刑法解釈の要点」(『国民の法の解釈』一九五四年)、「刑法解釈の超法規化」(『法学志林』五二巻三・四号、一九五五年)、「構成要件論」(『刑法学入門』一九五七年)、「罪刑法定主義」(『新法学講座第四巻』一九六二年)などである。刑法体系書『刑法総論』(初版一九六三年)における罪刑法定主義の論述が類書に比して遥かに多いことも、吉川が自負している通りである。著作選集第4巻「最高裁刑事判例批判」に収録された判例研究にも罪刑法定主議論が一貫している。このことを確認したうえで「日本における罪刑法定主義の沿革」をごく簡潔に見てみよう。

 「改正刑法準備草案理由書」(一九六一年)において、小野清一郎は「戦前・戦後を通じて、罪刑法定主義そのものは未だかつて争われたことはない」と歴史の偽造に励んだ。これに対して疑問を差し向ける吉川は、刑法史を踏査する。①明治初年の「仮刑律」「新律綱領」などに罪刑法定主義の思想は取り入れられなかった。②旧刑法二条(一八八〇年)にはボアソナードの影響の下に罪刑法定の規定が設けられたが「形骸を模したにすぎない」。数々の特別刑法によって人権保障を「画餅に帰せしめてしまった」。③現行刑法(一九〇八年)からは旧刑法二条に相当する条項さえ削除された。新派刑法学の隆盛のもと極めてあいまいな構成要件が設定され、法定刑の枠も非常に拡大させられた。新派刑法学のイデオローグ牧野英一は罪刑法定主義攻撃の先頭に立った。④治安維持法や戦時治安法については言うまでもない。かくして吉川は述べる。「戦後に至るまでわが国においては、罪刑法定主義の原則は、真の意味において確立したことはなかったと断言することも、決して奇矯の言辞を弄するものとはいえないであろう。」

  著作選集「第2巻まえがき」で、吉川は、自由主義刑法学の代表であった恩師・滝川幸辰でさえ牧野に追随して類推許容論を唱えていたと批判している。



三権の制約原理



 日本国憲法三一条、三九条などは罪刑法定主義を基本原理として採用した。それでは、罪刑法定主義は貫徹されているであろうか。吉川は、刑罰法規の制定・運用にかかわる三権に即して検討する。①立法権に対する制約原理として、内乱罪のせん動、破壊活動防止法、国家公務員法の争議行為あおり処罰規定などの不合理を指摘する。②行政権に対する制約については、地方自治法の委任による公安条例を批判する。③司法権に対する制約については、類推解釈による処罰や、共謀共同正犯などの超法規的運用を指摘する。それゆえ、吉川は「日本国憲法のもとにおいても、罪刑法定主義がまったく実現をみているものとは、とうてい称し難い」と結論づける。法制審議会刑事法特別部会の審議(一九六五年)において、罪刑法定主義明文規定新設の提案が否定されたことは象徴的であった。

 ここには罪刑法定主義概念そのものをめぐる理論的対抗が潜んでいる。

 一般的な刑法教科書には、ドイツ刑法学の父フォイエルバハの「法律なければ犯罪なし。犯罪なければ刑罰なし」の原則が引用され、罪刑法定主義は近代刑法の基本原則であるとされている。今日、罪刑法定主義を否定する刑法学者はまずいない。誰もが罪刑法定主義者だ。

  しかし、「犯罪なければ刑罰なし」と言うのであれば、治安維持法も破壊活動防止法も立派な法律であるということになってしまう。ナチス・ドイツのヒトラーも合法的に政権を獲得して、法律に基づいて政策を推進したことになる。「悪法も法なり」の悪しき法実証主義を否定して、吉川は「罪刑法定主義」(『新法学講座第四巻』)において、「罪刑法定主義を貫徹するために、最小限度要求されなければならない法命題」を掲げた。①刑法の法源の制限。慣習法、判例法(典型は共謀共同正犯)の否定。無限定な委任立法の否定。白地刑罰法規の否定。②刑罰法規の適正。実質的な処罰の必要性と根拠の要請。構成要件の明確性。法定刑の適正さ。③遡及処罰の禁止。④類推解釈の禁止。吉川は「罪刑法定主義」論を次のように締めくくる。「国民が裁判批判による厳しい監視を怠るならば、ことに今後に予想される治安立法の適用にあたって、前記のように不当な類推がまぎれ込むことは避け難いであろう。」

  かつて治安維持法批判をして治安維持法によって弾圧された風早八十二は「罪刑法定主義を復活せよ!」と叫んだ。風早とともに東京刑事法研究会を立ち上げた吉川の罪刑法定主義理解は、風早と同質のものである。日本国憲法が保障する基本的人権と自由の保障原理としての罪刑法定主義、三権の制約原理としての罪刑法定主義である。だからこそ、国民による裁判批判がポイントとなるのだ。この理解をより深化させたのが桜木澄人や横山晃一郎であった。

  あえて図式化すると次のようになる。

罪刑法定主義A――「法律なければ犯罪なし」の形式主義的理解。

罪刑法定主義B――三権の制約原理としての理解。

  戦後刑法学の罪刑法定主義理解は、AからBへの移行と逆行の狭間にあって、変遷してきたと言ってよいだろう。実体的デュー・プロセス論や法益論が理論研究において重要な位置を占めたのも、少なくとも一九八〇年代までは性急な刑事立法に一定の箍がはめられていたのも、このためである。吉川は、刑事立法論、判例批判、刑法史研究のすべてを通じて、後者Bの概念把握を徹底することに力を注いだ。





吉川経夫の刑法学(三)



治安法批判



 吉川経夫の刑法学を語る場合、客観主義刑法理論の構築、罪刑法定主義の歴史と理論、刑法改正問題への取組みとともに、特筆すべきは治安法批判の理論と実践である。これらは密接不可分の関係で吉川刑法学を形成している。

 吉川の治安法批判は、最初期の「西ドイツの治安立法」(法学志林五一巻一号、一九五一年)、「暴力取締法について」(法律時報三〇巻四号、一九五八年)、警職法批判の諸論文、「沖縄『新集成刑法』の問題点」(法律時報三一巻九号)、政暴法案批判の諸論文から、『著作選集補巻・憲法と治安刑法』(法律文化社、二〇〇三年)まで、半世紀を超える歴史を有する。罪刑法定主議や刑法改正に関する論考のなかでも数々の治安法批判を行っている。その中核に位置するのは『治安と人権』([小田中聰樹との共著]法律文化社、一九七四年)であろう。

 歴史学や憲法学における治安法研究とともに、刑法学における風早八十二、宮内裕、中山研一、小田中聰樹と続く治安法批判は、近現代日本国家の本質に迫る理論と実践であった。治安法批判は、特定の治安法に対する批判と言うだけではなく、市民刑法分野への治安主義の浸透に対する監視も含まれる。古典的な治安法だけではなく、機能的治安法や、最近では市民的要求に基づく治安主義が蔓延している。

 それゆえ、吉川の治安法批判は、第一に刑法改正における治安主義との闘いとして具体化された。『刑事立法批判の論点』(一九六七年)、『刑法改正を考える』(一九七四年)、『刑法改正と人権』(一九七六年)、『刑法改正23講』(一九七九年)、『著作選集第1巻・刑法「改正」と人権[続]』(二〇〇〇年)はいずれも刑法改正批判であると同時に治安法批判であった。「不敬罪の系譜と刑法改正論議」「刑法における国家秘密の保護」「改正刑法草案とモラリズム」といった論考はその典型である。

 第二に、治安法批判は、実体法の微細な局面にまで紛れ込んでくる治安主義の点検として具体化される。例えば、「執行猶予と宣告猶予」(初出・平場・平野編『刑法改正の研究1総則』)のような論考でも、改正作業の「刑事政策的消極主義」批判を出発点にしながら、執行猶予の要件の厳格化は「短期自由刑のいわれなき増大をもたらす」とし、資格制限の排除、執行猶予の取り消し、判決の宣告猶予についても、検察権限の濫用をチェックする視点が明確である。

 第三に、治安法や治安事件の批判的検討は、共謀共同正犯、警職法、政暴法案、司法反動化、菅生事件、松川事件、砂川事件、ポポロ事件、凶器準備集合罪、飯田橋事件、恵庭事件をはじめ、さまざまな機会に積極的に発言し、『治安と人権』によって一応のまとめをしている。

 第四に、保安処分に関する論述である。刑法改正作業の最大の論点のひとつが保安処分であったことはよく知られる。吉川は論文「保安処分制度に現れた刑法思想」(法学志林六九巻二号、一九七二年)を序章とする著作を執筆する予定だったが、刑法改正作業をめぐる政治的対立など事態の急転によって著書出版を断念した。吉川の保安処分関連論文は後に『著作選集第3巻・保安処分立法の諸問題』(二〇〇一年)にまとめられた。三〇年の空白を経て、刑法理論状況も医学会の状況も大幅に変化し、人権思想も大きく発展したので、吉川の保安処分論が今日の刑法理論や実践に影響を与えることはないと思われるが、当時の文脈に即して再読するべき価値のある諸論文である。

 第五に、法廷証言である。吉川最後の著書となった『刑事法廷証言録』(法律文化社、二〇〇五年)には、国労労働者に対する刑事弾圧・警職法福島駅事件、群馬県教組勤評反対闘争事件、外務省公電漏洩が問題とされた沖縄密約事件、武蔵野爆発物取締罰則違反事件、太田立て看板事件における法廷証言、および「君が代」伴奏命令拒否事件に対する被処分者のための意見書が収録されている。



反戦平和の刑法学



 「信念の法学徒」であり「刑法学の泰斗」であった吉川は、専門の刑法学者として非常に禁欲的な姿勢を保持していた。反戦平和を願い、刑法学において反戦平和の理論を構築することに努力を傾注した。

己の持ち場において徹底的に厳しい論陣を張ったが、憲法分野に積極的に出て行って発言することは、決して多かったわけではない。憲法問題が刑事法のテーマに関連した時にはじめて、刑法学の窓から一言するスタイルである。菅生事件、ポポロ事件、恵庭事件、労働基本権裁判をはじめさまざまな事件についての発言も、刑法学の窓口を設定した上で発言することが多かった。

 しかし、それは吉川刑法学全体の中での比重の問題であって、実際の発言は多彩な憲法問題に及んでいる。『著作選集第4巻・最高裁刑事判例批判』(二〇〇一年)に収録された三九本の判例研究を見ると、表現の自由、労働基本権、学テ事件、公安条例など憲法問題に関連する事例を多く取り上げてきたことがわかる。『同第5巻・刑事裁判の諸論点』(二〇〇一年)の諸論文を見ても、憲法第九条を柱とした反戦平和の刑法学を目指していたことがよくわかる。

そうした刑法学の半生を締めくくった大論文が「『憲法調査会』に望む」(法学志林九七巻二号、二〇〇〇年、『著作選集補巻・憲法と治安刑法』に収録)であった。

一九九九年の新ガイドライン以後の「悪法ラッシュ」に対する厳しい批判を前提に、憲法論に踏み込んだ。「私は、これまで、たとえ些細な点に関するものであろうとも、論が憲法改正に及ぶことを慎重に避けてきた。それが政府・与党によって、憲法改悪のための手がかりとされることを虞れたからである」、「しかし今や、小渕(当時の首相)は、公然と憲法改悪への大きな第一歩をふみ出した。こうなった以上、平和を希求する法律家の一人として、もはや沈黙を守っているわけにはゆかない」とする吉川は、「第一点は、論ずるまでもなく、天皇制の廃止である」と切り込む。続いて、国旗・国歌法の廃止・改正(新国歌はジョン・レノンの「イマジン」でもよいとまで言う)、首相のリコール制の導入、大臣という名称の廃止、請願という言葉の是正、裁判官の任命方法の改正、死刑の廃止、刑事手続きの改正について論及している。

 以上、吉川刑法学の一端を瞥見してきたにすぎないが、刑法学への志と平和への希求に貫かれた批判的刑法学の輝きに触れることができたと思う。