治安政策のスパイラル効果
『無罪!』2007年5月
監視権力の限界
「監視国家」「監視社会」「超監視社会」「超管理国家」――。
現代国家=社会の監視化、相互監視社会づくりが急速に進行し、これに対する批判的考察もすでに相当程度の積み重ねを見てきた。
国際的には、冷戦終結、ソ連東欧社会主義の崩壊、グローバリゼーションと呼ばれる資本主義の世界支配、新しい「帝国主義」の時代の世界再編が基調であることはいうまでもない。グローバリゼーションの中枢であるアメリカにおける/による監視化は、国内に向けても対外的にも非常な勢いで進行してきた。グローバリゼーションは資本の運動法則が世界大に広がってきたプロセスだが、同時に情報のグローバリゼーションと軍事のグローバリゼーションが伴走している。
きらびやかに構築された現代都市における監視技術。空港や都市における人間の動向監視。商品生産・流通・消費過程におけるモノとヒトの把握。先端産業における緊密仔細な管理技術。コンピュータ・ネットワークの社会形成力。最新の科学と技術を活用した世界の意味の再編が猛烈な勢いで進んできた。
しかし、資本のグローバリゼーションが世界的に進行するためには、その裏づけとなる軍事のグローバリゼーションが不可欠となる。あらゆる障害物を徹底的に除去する仕組みがなければ、資本の論理が自動的予定調和的に貫徹するはずがない。資源の確保、ヒトとモノの国際移動の徹底管理、抵抗の鎮圧。かくして「テロとの戦い」が遂行される。「9・11」はその口実に過ぎなかった。
「テロとの戦い」が織り成す国家=社会は、階級階層差別、人種差別、地域差別などあらゆる差別化の上に、それぞれの階級階層に応じたきめ細かな対応を配備する。無限に膨れあがるかのような欲望の体系にも効率的に対処しうるし、安全な社会を阻害する人種に対する迅速でタフな対処も万全である(例えば愛国者法)。
しかし、グローバリゼーションの波に洗われ/現われる現実は、同時に監視権力の限界と不可能性を立証してしまうだろう。生産の現場においても消費の現場においても、最底辺に格差付けられた人々の現実が異議申し立てを始める。軍事のグローバリゼーションの帰結は、果てしない武装抵抗や自殺爆弾による内戦に陥るしかない。アフガニスタンやイラクの現実だけではない。アメリカ国内における暴力の噴出こそがその例証である。
世界を監視する欲望が監視システムの制御棒を転落させてしまう。不可抗力や事故だけではない。監視員のミスやコンピュータ・ネットワークの誤作動だけではない。人間社会を監視する思想そのものに内在している<不可能性>――それは、あまりに単純なことだが、人間の尊厳や個性の尊重と呼ばれてきた<人間的自然>のうちにあるのではないか(以上と通底する問題意識は、前田朗『刑事法再入門』インパクト出版会、第一章参照)。
安全・安心まちづくり批判
清水雅彦は、近年各地の自治体で急速に進展してきた「生活安全条例」、そのイデオロギーである「安全・安心まちづくり」を歴史的に辿り直して、徹底解剖する(清水雅彦『治安政策としての「安全・安心まちづくり」』社会評論社)。
清水によれば、生活安全条例は、一九八〇年代のアメリカ・イギリスにおける治安政策に学んできた警察官僚の研究成果をもとに、警察や防犯協会などの肝いりで、あるいは「凶悪犯罪キャンペーン」などを梃子に「市民の要求」という水路を通過した形で推進されてきた治安政策の柱である。一見すると「下から求める」スタイルをとりながら、実際には「上からの治安政策」を見事に全国展開したものである。
清水は、「安全・安心まちづくり」を戦後治安政策の展開の延長に位置づけたうえで、「地域安全活動」の実例と問題点を検討する。そして、自治体における生活安全条例を、東京・千代田区条例、世田谷区条例、東京都条例、神奈川県条例に即して具体的に検討する。
清水によると、「安全・安心まちづくり」は、「犯罪防止に配慮した環境設計活動」(ハード面)と「地域安全活動」(ソフト面)の二つの施策から成り、「割れ窓理論」や「ゼロ・トレランス」という理論が支えとなっている。内実はそれぞれ異なった理論だが、地域における環境設計と犯罪対策を徹底して、重大犯罪のみならず単なる迷惑行為なども厳しく取り締まること、地域の意識を変えることが目指される。ここから警察設置カメラ、スーパー防犯灯、民間交番、民間防犯パトロール、それらのネットワークなどが結実する。その結果、行政警察の拡大、公権力による私的領域への介入、権力による価値の注入(規律訓練など)が惹き起こされる。従来の憲法理論や警察法の理解を越え出て、警察による社会支配が進行する。
それゆえ、「安全・安心まちづくり」の具体化である「生活安全条例」も「道徳規範の法規範化」、「公権力による市民社会の支配」、近代立憲主義のすり抜け、杜撰な立法事実論といった問題点を有しているし、適正手続きの保障、刑罰法規の明確性の原則、プライヴァシー権、表現の自由、結社の自由、財産権、地方自治などに対して看過し得ない問題を生じる。行政の運用にも歪みを生じる。警察主導の地域防犯活動により「民衆の警察化」を招来し、参加や連帯といった理念を捻じ曲げる恐れが高い。
清水は、さらに有事体制づくりにおける「国民保護法制」と「生活安全条例」の思想の連関を問い直し、「不安社会」における「安全」の追求がもたらす危険性を摘示する。
「安全・安心まちづくり」についての初の体系的批判的検討を通じて清水が明らかにしているのは、「安全」を求める治安政策が逆に危険や不安を高め、時には犯罪を増加させてしまうスパイラル効果である。不安を煽って安全を求める意識は、つねにいっそうの不安を呼び起こす。過度の抑圧は犯罪予防ではなく犯罪創出の反復につながる。テロの温床を放置したままの「テロとの戦い」が次のテロを生み出すことと同じ理屈である。「テロとの戦い」と「生活安全条例」の同質性は意外でも偶然でもない。グローバリゼーションのもとでの新自由主義的世界=社会再編の表現である点では最初から同質なのだから。