法の廃墟(27)
『カムイ伝』再読
『無罪!』2009年3月号
カムイのむこうの江戸
田中優子『カムイ伝講義』(小学館、二〇〇八年)は、遊女、被差別民をはじめとする民衆を取り上げ、庶民の暮らしや生産を基底に文化のありようを研究してきた「江戸学」の第一人者による『カムイ伝』の解読である。法政大学での講義がもとになっている。「カムイ伝のむこうに広がる江戸時代から『いま』を読む」というモチーフが明示されているように、江戸初期の農村の生産、流通、人々の暮らしや意識を、田中優子(一九五二年生れ)は『カムイ伝』をプリズムとしつつ、その先に鮮やかに描いてみせる。
「人(生き物)が生まれ、生き、食べ、戦い、恋をする。自分がどんな社会に生きるか知らずに生まれてきて、投げ込まれたその中で、それでも生きてゆく。それが描かれているところが、まず何よりもすごいところで、だからこそ穢多を描いても特殊ではない。そこには農民と何も違わない人間(生き物)としての生き方が見える」(一五頁)。「想像力は百姓や猟師や穢多やマタギに対して働くだけではない。かなり重要な登場人物は武士である。『カムイ伝』を読んでいると、『いるのが当たり前』になってしまっていた武士が、なぜいたのか、わからなくなってくる。根底から問いたくなってくる。それは『武士はなぜ存在したのか』『人はなぜ人を支配するのか』という問いが、『カムイ伝』を、最初から最後まで貫いているからである。このように考えると、『カムイ伝』を読みながら浮かび上がってくる想像や問いは、白土三平によってあらかじめ織り込まれたものであることがわかる。そこにあるのは答えとしての思想ではなく、問いとしての思想なのである」。(一七~一八頁)。
夙谷の住人としての穢多、非人を通じて格差の存在理由を探る。綿花を育て、肥料をつくり、流通させ、蚕から布までの生産システムをつくる百姓の仕事の多面性と豊饒性をたくみに描く。海に生きる猟師、山に生きるマタギやサンカの暮らしも詳しい。子どもたちや女たちの生きる闘いもていねいに明かされる。
階級社会における百姓の営みの豊かさと、それにもかかわらずつきまとう厳しさ、辛さの接点となるのが一揆だ。田中優子は、一揆について次のように解釈する。
「一揆とは、『揆を一つにする』という漢語である。寺院や村などの法と規約、またさまざまな団体の相互契約なども一揆という。『契約』とか『規約』と現代語訳してもいい場合があり、『訴訟』と訳してもいい場合もある。むろん一般的には、強者に対する弱者の抵抗方法を意味するが、その場合も単に数人で、あるいは単独で抵抗運動をしたり暴力を使ったり、という場合は一揆とは言わない。一揆は共同体を単位とし、一定のルールに従ってすすめる訴訟行為であり、何らかの破壊行為があるとしたら、それは訴訟行為の過程の中でおこなわれる『打ち壊し』という示威の様式である。これも気まぐれや偶然や感情の爆発でおこなうものではなく、効果を計算したうえで一揆集団の統制のもとにおこなわれるものである。一揆は暴力の意味ではなく、破壊行為や反対運動、という意味でもない。一揆は、必要に応じて必要なときに生起する団結、という意味なのである」(一四四~一四五頁)。
時代の中のカムイ
劇画『カムイ伝』は、現在では『カムイ伝全集(全三九巻)』(小学館、二〇〇五年~)として刊行されているが、大きく分けて三つの作品群から成る。①第一部は、一九六四年から一九七一年まで雑誌『ガロ』に連載された。②『外伝』は、第一部と並行して雑誌『少年サンデー』に掲載された、忍者活劇である。デレビ・アニメにもなった。一般に知られるのは、実は外伝である。一九八二年から八七年まで外伝第二部が『ビッグコミック』に連載された。③第二部は、一九八八年から二〇〇〇年まで雑誌『ビッグコミック』に連載された。
一九五五年生れのぼくが同時代の漫画として全部読んだのは外伝第一部だけである。『カムイ伝』第一部は単行本でかなり読んだが、当時『ガロ』を手にしたことはない。第二部も外伝第二部も、たまたま手にした回しか読んでいない。
カムイとはアイヌ語だが、『カムイ伝』はアイヌの物語ではなく、江戸時代を活写している。当初の主人公だった非人(実際は穢多)のカムイはむしろ脇役に追いやられ、外伝で活躍する。第一部の主人公は、農村の下人の子の庄助と下級武士の子の草加竜之進である。冬は雪が降りクマが出る山村でありながら、京都所司代の管轄にあり、海では鯨もとれる日置藩という架空の藩(紀州説が有力)を舞台とする物語だ。準主役には苔丸、ゴン、ナナを配置し、日置藩の城代家老三角重太夫、目付橘軍太夫、橘一馬ら、脇役には、笹一角、ダンズリ、シブタレ、弥助、横目、アテナ、アケミたち。他方で、水無月右近や左ト伝らもいぶし銀の活躍をする。
『カムイ伝』の基礎情報はいうまでもなく全集(全三九巻)であるが、もっとも優れた研究は、四方田犬彦『白土三平論』(作品社、二〇〇四年)であろう。『忍者武芸帳』や『カムイ伝』に青春を自己同一化させたという四方田犬彦(一九五三年生れ)は、『カムイ伝』を中心に、四〇年を超える白土三平の作品群を取り上げて、その全貌を描き出している。「階級意識と唯物史観を説く漫画として、新左翼系の学生や知識人に圧倒的な人気をもって迎えられ」、六〇年代後半に一大ブームとなった白土三平の漫画は、七〇年代以降、凋落の道を辿る。大衆消費社会、そして二〇世紀社会主義の挫折により、白土三平は忌避されていく。四方田犬彦によると、手塚治虫についての書物は百冊を超えているのに、白土三平についての研究書は、それまで一冊しかなかった。四方田『白土三平論』は初めての待望の評伝であり、白土漫画論であった。
四方田が一冊だけ名指したのは、部落史研究者の中尾健次『「カムイ伝」のすゝめ』(解放出版社、一九九七年)である。「弾左衛門」研究第一人者でもある中尾健次(一九五〇年生れ)も『カムイ伝』を自分史と重ね合わせ、全共闘学生運動のただ中を駆け抜けながら、いつも『カムイ伝』がそばにあり、第一部の連載終了時期に「私の青春も終わった」と言う。中尾は「部落史の観点から」カムイの世界をシャープに読み解いている。当初はカムイが自由を求めて北海道に渡り、シャクシャインの叛乱に加わっていくはずだったのが、内部矛盾や資料不足からテーマが変更され、差別問題に比重が移り、さらに階級問題に展開していったことを明らかにしている。
シャクシャインの叛乱を描くことを断念し、国内に視線を集中させたことが、『カムイ伝』の凋落を予兆していたと捉えるべきではないだろうか。